織田信忠(2/2)父信長を追って散った跡取り
織田信忠
戦国時代、尾張国からは後に戦国3英傑と呼ばれた織田信長・豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、加藤清正・前田利家など名だたる戦国大名たちを輩出しました。織田信忠は父・信長の嫡男として生まれ、次代を期待されたにもかかわらず、本能寺の変で散った父を追って自害する最期を迎え、その後の時代に大きな影響を与えた存在です。今回は、織田信忠がどのような生涯を送ったのか、紹介します。
出生から幼少期
織田信忠は、弘治3年(1557)に、織田信長の長男として尾張国で生まれました。一説には、兄の信正がいたとも言われていますが、真偽はわかっていません。実母についても不明とされています。一説では、信長の側室であった愛妾の生駒吉乃という説もありますが、こちらも真偽のほどは不明です。『勢州軍記』によれば、子どものなかった信長の正室・濃姫が信忠を養子にしたとも言われています。乳母は慈徳院(滝川氏)だと判明しています。
幼名は奇妙丸と名付けられました。元服してからは、はじめ勘九郎信重を名乗り、のちに信忠と改めることになります。
永禄年間に織田氏は美濃国にで甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していました。
『甲陽軍鑑』によると、永禄10年(1567)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係を強固にするために信忠と武田信玄の六女・松姫と婚約が成立したといわれています。
武田・織田間は友好的関係を保ち続けていましたが、一方で永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国・三河・遠江方面への軍事侵攻を行います。さらに、元亀3年(1572)に信玄は信長と敵対していた室町幕府15代将軍・足利義昭の信長包囲網に呼応して織田領への侵攻を開始しました(西上作戦)。
これによって武田・織田間の同盟関係・友好関係は消滅し、織田信忠と松姫との婚約は事実上解消されることとなり、婚姻は結ばれませんでした。
以後、武田信玄亡き後、後を継いだ武田勝頼が織田氏との関係改善を試みたものの(甲江和与)、織田信長が和睦を拒否し、武田・織田間の和睦は成立しませんでした。
元服から初陣、若年期
信忠は、元亀3年(1572)1月に元服したと『勢州軍記』等には残っていますが、天正元年(1573)4月1日付『兼見卿記』、や同年6月18日付の『朝河文書』でも、まだ幼名の「奇妙」で呼ばれていること、諱の「信重」の名乗りが確認できるのが、同年7月が初見です。『信長公記』でも、同年8月12日付けの北近江浅井攻めで出陣した記録が「奇妙」から「勘九郎」に変化していることから、当時としては若干遅めですが信忠が17歳~19歳頃に元服したのではないかと推測されています。
具体的な時期については諸説あることから、不明となっているのが現状です。初陣は、元亀三年(1572)7月19日の信忠の具足初めとその後の浅井攻めだと言われています。
以降、父・織田信長に従って石山合戦、天正2年(1574)2月の岩村城の戦い、天正2年(1574)7月~9月の伊勢長島攻めと各地を転戦するようになります。天正3年(1575)5月には、長篠の戦いで勝利し、そのまま岩村城攻めの総大将として出陣します(岩村城の戦い)。夜襲をかけてきた武田軍を撃退し、1,100余りを討ち取るなど戦功を挙げて、武田家部将・秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城させました。以後、一連の武田氏との戦いにおいても、織田信忠は大いに武名を上げていくことになります。
織田家家督相続
天正4年(1576)11月28日、父・信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、信長正室濃姫を養母として岐阜城主となりました。
また、濃姫の弟である斎藤利治が信忠付きの側近(重臣)となっています。また朝廷から同年に正五位下に叙せられ、出羽介、次いで秋田城介に任官しました。
天正5年(1577)2月には、雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降しています。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となって、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を指揮して、松永久秀・久通父子が篭城する大和信貴山城を落としました(信貴山城の戦い)。
その功績によって、10月15日には朝廷から従三位左近衛権中将に叙任されています。この頃から徐々に、織田信忠は父・信長に代わって織田軍団の総帥として諸将の指揮を執るようになっていきます。
12月28日には信長が持っていた茶道具の中から8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類を渡されている。天正6年(1578)、毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景・宇喜多忠家・村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を奪還すべく包囲します。
信長も上月城救援のため、信忠を総大将に明智光秀・丹羽長秀・滝川一益ら諸将を援軍に出しました。三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開します。
しかし、膠着状態におちいると、信長は撤退を指示、三木城の攻略に専念させています。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城しました(上月城の戦い)。
同年10月4日、重臣の斎藤利治が越中国月岡野の戦いに神保長住への援軍の総大将として信長より派遣され、斉藤氏の加治田衆を筆頭に、信忠付の美濃衆・尾張衆も援軍に送っています。織田信忠は斎藤利治に対して「ご苦労の段とお察しする」と書状を送りました。
また、同年から翌天正7年(1579)にかけて、摂津国で勃発した荒木村重の謀反(有岡城の戦い)の鎮圧にも出陣しています。
天正8年(1580)、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放され、美濃・尾張の2か国における信忠の支配領域が広がりました。
甲州征伐
天正10年(1582)、織田信忠は織田軍の総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率いて、徳川家康・北条氏政と共に武田領へと進攻を開始します(甲州征伐)。
信忠は河尻秀隆、滝川一益の両将を軍監とし、伊那方面から進軍して信濃南部の武田方の拠点である飯田城・高遠城を次々と攻略していきます。高遠城攻略では、自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破って塀の上に登って配下に下知していたとも言われています(『信長公記』)。
信忠の進撃はとても早く、武田勝頼は態勢を立て直すことができずに諏訪から退却、新府城を焼き捨てて逃亡。その後、織田信忠は追撃の手を休めず、父・信長が武田領に入る前に、勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させました。
3月26日、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を大いに賞賛、梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志を表明します。この時、織田信忠は辞退したものの、信長からすれば織田氏家督のみならず天下人の地位も信忠に継承させることを内外に宣言したものとされています。
論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(穴山梅雪領を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられたことから、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に影響力を及ぼすこととなりました。
本能寺の変と信忠の最期
天正10年(1582)6月2日、織田信忠は父・信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉の援軍に向かうため、京都の妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在していた。この時、本能寺の変が発生します。
信忠は信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲したことを知ると、本能寺へ救援に向かいますが、父・信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代の村井貞勝や重臣斎藤利治ら側近と共に東宮・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動しました。信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともにそのままそこで籠城します。
しかし、明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、織田信忠は敵兵の数の多さに勝ち目がないと思い、その場で自刃した。享年26。この時、介錯は鎌田新介が務め、信忠は「二条御所の縁の板を剥がして自らの遺骸を隠すように」と命じたと伝わっています。
京洛中にいたものの、本能寺に入るには間に合わず、二条新御所に駆け付けた福富秀勝・菅屋長頼・猪子兵助・団忠正らが斎藤利治を中心に明智勢と戦いますが、信忠自害後に斎藤利治が「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と刺し違えて討死(忠死)しています。
その後、父同様、信忠のその首が明智軍は血眼になって探しましたが、ついに発見されることはありませんでした。
二条新御所での籠城時の具体的な戦闘内容について、『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によればと自ら剣をふるい敵の兵を斬ったとされています。この時、信忠の小姓に下方弥三郎という若者がいて、彼は奮戦して左足を負傷し脇腹をやられて腸がはみ出していたといいます。その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べたと伝わります。この信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死したと言われています。
この時、信忠は武田家滅亡後に八王子に落ち延びていた松姫に使者を出しており、彼女を妙覚寺に招こうとしていたといわれています。既に旅中にあったとされるが、再会を果たすことはできず、信忠自刃の報を聞いた松姫は八王子に戻り、出家して心源院で武田家と共に信忠の供養を行いました。一部の史料には信忠の子・三法師(織田秀信)の生母は実は松姫だったとするものもあります。
この時、信忠が本能寺で父・信長が自害したことを知った際にすぐ京都を脱出していれば天下は信忠によって統一された可能性も考えられ、なぜ二条新御所に籠って戦ったのかはわかりません。ただ、この信忠の判断が後の清洲会議につながり、豊臣秀吉による天下統一へと時代が転換したきっかけであると言えます。
その後の織田家
父・織田信長と嫡男の織田信忠亡き後、織田家の後継者問題は、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝が互いに後継者の地位を主張し引きませんでした。豊臣秀吉がその隙をついて勝家・秀吉ら宿老たちが事前に信長の嫡孫である三法師を御名代とすることで双方が了解したのです。
勝家も秀吉の弔い合戦の功績に対抗できなかったと言われています。『多聞院日記』にも「大旨は羽柴のままの様になった」と記されています。いっぽう『川角太閤記』では、秀吉が三法師を擁立し、柴田勝家が信孝を後継者に推して対立、秀吉が席を立ち、残された3人での話し合いで勝家も矛を収めて三法師の家督擁立が決まったとする話もあります。
4日後、4重臣が対面することになりますが、その間に秀吉が玩具で三法師を手なずけ、対面の場に三法師を抱いて秀吉が現れ、それに3重臣が平伏する形となったと記しされています。
結果として三法師が織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と信孝が後見人に、傅役として堀秀政が付き、これを執権として羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制ができました。この体制に協力する形で徳川家康も参加しています。
織田信忠の墓所
幾つかありますが、その中で公式墓所とされているのは阿弥陀寺 (京都市上京区)です。天正10年(1582)6月2日に信長が本能寺の変で自害すると、住職の清玉は自ら合戦中の本能寺に赴いて信長の遺灰を持ち帰り、墓を築いたとされています。後に織田信忠の遺骨も二条新御所より拾い集め、信長の墓の横にその墓を作ったと言われています。さらに本能寺の変によって討死した名の分からぬ多数の犠牲者も当寺に葬って供養しています。
天正13年(1585)に豊臣秀吉の京都改造により現在地に移転。延宝3年(1675)11月25日に火災にあい、信長の木像、武具・道具類などの遺物が焼失した。焼け残ったものは大雲院に移されたが、同院でも再び火災にあって今ではほとんど残っていません。
美作国津山藩の4代藩主森長成は毎年6月2日に法要をし、信長公百年忌も執り行ったといいますが、森家の改易後は御茶湯料の寄進はなくなりました。1917年(大正6年)に天皇家より勅使が来訪し、当寺の信長の墓は「織田信長公本廟」として公認されました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。