斎藤龍興(2/2)蝮の起こした下剋上の果て

斎藤龍興

斎藤龍興

記事カテゴリ
人物記
名前
斎藤龍興(1548年〜1573年)
出生地
岐阜県
関連する城
岐阜城

岐阜城

関係する事件

織田家は北伊勢の長島に侵攻し在地の国人領主たちを服属させていきます。織田家はこの年、美濃国に続いて北伊勢も版図に加えました。この北伊勢を押さえた事が永禄12年(1569)の大河内城攻略と伊勢国の全てを押さえる足掛かりとなります。

ともかくも伊勢国へ逃げ込んだにも関わらず、織田家の追討を受けた斎藤龍興。龍興は対抗する手段もないので伊勢国も後にしました。

転戦

さて斎藤龍興を追い出し美濃国、北伊勢を確保した織田信長。信長の次の目標は畿内への侵攻でした。この当時、畿内の大部分を手中に収めていたのは三好家でした。三好家は永禄8年(1565)、室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃し殺害しました(永禄の変)。京は将軍不在となります。そこで信長は殺された足利義輝の弟、足利義昭を擁立し京へ上洛。足利義昭を擁立した織田家は畿内の大名、国人衆を影響力下に置き、反対に三好家は次第に畿内から追い落とされていきます。

織田家に恨みのある斎藤龍興はこの三好家を頼りました。三好家と龍興は永禄12年(1569)正月、事態を打開すべく将軍となった足利義昭を襲撃します(本圀寺の変、六条合戦)。この足利義昭襲撃事件は失敗に終わり、三好家は畿内を棄て本領の四国へと退きます。

織田家の出現により凋落の一途をたどった三好家。巻き返しを図りたい三好家は元亀元年(1570)、石山本願寺の顕如や北近江の浅井家、越前の朝倉家、南近江の六角家と組んで織田家と戦います(野田城福島城の戦い、志賀の陣、伊勢長島の戦い。或いは「第一次信長包囲網」)。斎藤龍興もこの反織田家包囲網に加わり、長島一向一揆に家臣の長井道利と共に加わり織田家と戦います。

この戦いは元亀元年年末まで続き織田家と反織田勢力の講和が結ばれました。

最期

第一次信長包囲網で伊勢長島の一向一揆に加わった斎藤龍興。講和が結ばれると龍興は、姻戚関係でもあった越前国の朝倉家に逃れ保護され客将となります。

翌元亀2年(1571)8月、石山本願寺の顕如は斎藤龍興(龍興はこの時期、一色式部大輔という名を名乗っていたので一色宛て)に書状を送り、「御本意」実現を願い金と太刀を送っています。ここから斎藤龍興は越前国から南に下り美濃国へ入国する事を企図していたようです。というのも翌元亀3年(1572)8月、美濃国にある本願寺に連なる寺に斎藤龍興の美濃入国計画が練られていました。本願寺の斡旋で東美濃の遠藤氏を説得し寝返らせ北の越前国からは斎藤龍興が、南にある伊勢からは斎藤龍興の家臣であった日根野弘就が美濃国へ侵攻する手はずになっていました。この計画は実行に移されましたが、龍興を支援していた朝倉家の軍勢が雪の為に先に進むことが出来ず上手くいきませんでした。

天正元年(1573)8月、北近江の浅井家に対して織田家が侵攻します。朝倉家は浅井家を支援する為に軍勢を派遣しましたが、この軍の中に斎藤龍興も参加していました。ところが8月14日に朝倉軍は織田家に敗れ追撃を受けます(刀禰坂の戦い)。

齋藤龍興はこの追撃を受けている最中に織田家によって戦死しました、享年26。一説には龍興を討ったのは且つての重臣であった氏家直元の嫡男、氏家直昌であったとも言われています。死後、法名は瑞雲庵竜興居士、あるいは『常在寺記録』には瑞光院竜淵宗雲日珠大居士と号したとされます。

羽島の伝承

さて刀根坂の戦いで命を落としたはずの斎藤龍興。ところで龍興には刀根坂の戦いで亡くならず、その後も生きていたという話が幾つかあります。その一つが羽島の話です。

斎藤龍興は刀根坂の戦いを落ち延び、再び北陸から畿内の石山本願寺へと戻り本願寺と合流しました。そして本願寺勢力の下で道三流斎藤家の再興を図りました。しかし密かに美濃国へ潜入したところで現在の岐阜県羽島市足近町の寺で病死した、とされています。

同地の願教寺には斎藤龍興の墓と、父である義龍、その子の龍興、さらに龍興の子とされる小兵衛義仁の位牌が伝えられています。

越中の九右ェ門と興国寺

富山市にある興国寺の伝承によりますと、龍興は美濃国を脱出すると家宝系図を持って永禄12年(1569)3月に越中国新川郡布市村を訪れ興国寺に身を寄せました。そこで雌伏し道三流斎藤家の再興を考えていましたが、再興のない事を悟り九右ェ門と名を変え帰農します。九右ェ門となった龍興は「仏の力である、お経の力なり」と家族を励ましながら付近を開拓、天正8年(1580年)この地を経力村と名づけ腰を落ち着けました。

徳川の時代となった江戸時代の慶長16年(1611)、九右ェ門は子に家督を譲ると興国寺で出家し寺の住持となりました。興国寺には、龍興が身に付けていたという鎧鞍と念持仏(木造阿弥陀如来立像)が寺に伝えられています。

更に富山に帰農した九右エ門(龍興)にはその他の伝承があります。ある日、九右エ門は飛んできた鶴にとある場所を教えられます。九右エ門が教えられた場所を掘ると湯が沸きだし源泉が出ます。源泉は「霊鶴源泉」と名付けられ、温泉は「経力の湯」として木造薬師如来像が祀られ人々に親しまれましたが、大正時代に廃業しています。

斎藤龍興の記事を読みなおす

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.03