斎藤龍興蝮の起こした下剋上の果て

斎藤龍興

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人物記
名前
斎藤龍興(1548年〜1573年)
出生地
岐阜県
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岐阜城

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室町後期、秩序が崩壊した時代。出自や地位とは関係なく実力だけで伸し上がり、大名となれた時代でもありました、下剋上です。関東の北条早雲などは下剋上の先駆けとして有名ではないでしょうか。そして美濃国の主となった斎藤道三も代表的な一人です。道三は美濃を奪い取りましたが、その孫に当るのが斎藤龍興でした。今回は道三流斎藤家最後の当主となる斎藤龍興の一生を見ていきます。

美濃国の道三流斎藤家

室町時代、美濃国(現在の岐阜県)は守護(国主)を土岐氏、守護代(守護を支える役)を斎藤氏が治めていました。

この美濃国へやって来たのが松波庄五郎(まつなみ しょうごろう)です。庄五郎は京都で油売りをしていましたが一念発起し、美濃国常在寺の住職日運を通じて守護土岐家の家臣長井長弘の家臣となりました。この時、庄五郎は長井家の家臣西村にあやかり西村勘九郎正利と称します。京の油売りをしていた松波庄五郎は美濃国土岐家家臣長井家に仕え西村勘九郎正利となりました。

室町時代中期、応仁の乱が起こった1470年ごろは各地の大名が親子、兄弟で家督争いをしていました。土岐家も同様に兄弟で家督争いを行っており、西村勘九郎はその争いの中で土岐家の信頼を得て頭角を現していきます。地位を高めた西村勘九郎は仕えていた長井家の姓に変え長井豊後とかえます。
京から美濃国へやって来た松波庄五郎。松波庄五郎は侍となり長井豊後となりましたが天文2年(1533)ごろ病にかかり息子の長井規秀に家督を渡しました。

長井豊後から家督を受けた息子の長井規秀も美濃国で頭角を現します。特に美濃国土岐家の家督争いは続いており、長井規秀はそれを利用しました。天文7年(1538)ごろには美濃国守護代斎藤氏にあやかり姓を長井から斎藤へ改め斎藤利政と名乗ります。天文10年(1541)頃から斎藤利政は守護土岐氏の一門を毒殺、追放し事実上美濃国の国守となります。そして天文17年(1548)頃に斎藤利政から斎藤道三へと改めました。これが斎藤道三の行った美濃国の下剋上であり、道三流斎藤家の始まりです。

松波庄五郎と斎藤道三の2代によって行われた美濃国の下剋上。ところが無理を押して美濃国を奪った為、政情は安定しませんでした。そして斎藤道三の嫡男、斎藤義龍は追放した土岐家の子息ではないかと言われ、次第に斎藤道三と斎藤義龍とは不仲になっていったと言われます。道三の下剋上に不満を持っていた美濃国の武士たちは斎藤義龍を支持し、道三は隠居しました。しかし道三と義龍の対立は解消されず弘治2年(1556)には戦いへ発展します、長良川の戦いです。斎藤道三はこの戦いで討死しました。こうして美濃国は長良川の戦いで勝った斎藤義龍によって統治されていきます。この義龍の子として生まれてくるのが斎藤龍興でした。

龍興の出生と家督相続

齋藤龍興は天文17年(1548)、ないしは天文18年(1549)に美濃国で生まれます、幼名は喜太郎。母は斎藤義龍の正室近江の方でした。近江の方は北近江浅井家の当主浅井久政の娘と言われていますが、久政と近江の方とは1歳しか年が離れていない事から浅井久政の父浅井亮政の娘で久政の養女となった後に斎藤義龍に嫁いだという見方が有力視されています。つまり父方から見ると斎藤龍興は斎藤道三の孫(道三と義龍とが本当に父子関係にあった場合)、母方から見ると浅井長政とは従弟の子同士ではとこ関係にあった事になります。

義龍が8歳の頃、父義龍と祖父道三とが戦った長良川の戦いが起こりました。そこから父義龍が美濃国当主となり尾張国(現在の愛知県)で勃興してきた織田信長と美濃、尾張の間で度々争っていました。

ところが永禄4年(1561)、斎藤龍興14歳の頃。父の義龍が病でこの世を去った為に家督と美濃国の国守を引き継ぐことになります。

しかし松波庄五郎、斎藤道三と2代に渡って下剋上で美濃国を奪ってきた道三流斎藤家。しかも道三と義龍も長良川の戦いを起こしており、政情は安定していませんでした。そんな国を14歳の龍興が治めるのです、力が足りません。そこで龍興は斎藤飛騨守を重用しました。ところが頼られた斎藤飛騨守、周りの評判が悪く家臣の信頼を得る事が出来ませんでした。美濃国の武士たち(森可成、坂井政尚、堀秀重、斎藤利治、明智光秀など)は美濃国と斎藤家を捨て、争っていた織田家や諸国へ出奔していきました。齋藤龍興は若くして国主となりましたが、苦しい領国運営を強いられます。

稲葉山城と竹中半兵衛の乗っ取り

斎藤龍興が新国主となった美濃国は政情不安となります。
永禄4年(1561)、美濃国の斎藤家は尾張国の織田信長に攻められます。この戦いは斎藤家の勝利となりましたが、斎藤家は重臣を失いました。また永禄5年(1562)には有力家臣であった郡上八幡城の城主であった遠藤盛数が病没します。

巻き返しを図りたい斎藤龍興は母の実家でもある北近江の浅井家と同盟を結ぼうとしましたが、織田家に先を越され織田家、浅井家が同盟関係となります。そこで龍興は古くから斎藤家と結びつきのある南近江の六角家と手を結び、対抗しようとしました。

そのような中、永禄6年(1563)にも織田信長は美濃国を侵略します。この戦い(新加納の戦い)は竹中重治(竹中半兵衛)が活躍し斎藤家の勝利で終わりました。

ところが翌年の永禄7年(1564)。斎藤龍興を支える斎藤飛騨守に私怨があった竹中重治は舅で西美濃三人衆の1人、安藤守就と共に飛騨守を白昼殺害。斎藤龍興は居城であった稲葉山城を奪われ、鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走しました。この逃亡生活は半年間に及びます。稲葉山城を奪われてから半年後、龍興は竹中重治、安藤守就から城を返還されたとも、龍興を支援する勢力の助力を得て斎藤龍興が奪い返したとも言われています。しかし美濃国斎藤家の落日は誰の目にも明らかとなりました。

織田信長の侵攻

織田信長は病で亡くなった斎藤義龍の頃から美濃国侵攻を本格化させていました。当初は戦いによる力押しをしていましたが、それと並行して橋頭保を確保する為に小牧山城の築城を行います。更に東美濃にある岩村城(現在の岐阜県恵那市にあった城)城主であった遠山氏は織田家と縁戚でもあった事から織田家の影響力の強い地域でした。この遠藤家を中心に東美濃の市橋氏、丸毛氏、高木氏などの国人衆を寝返らせ東美濃を押さえます。
美濃国のうち東美濃は織田家に落ちました。

永禄8年(1565)には、織田家に降った加治田城(現在の岐阜県加茂郡富加町にあった城)の城主、佐藤忠能が斎藤家側の国人衆であった岸信周を討ちます。この戦いでは龍興の大叔父であった長井道利も織田家の武将となっていた斎藤利治(斎藤道三の末子)に敗れ、中濃地方も織田家の勢力下に入ります。

美濃国のうち中濃地方も織田家に落ちました。美濃の大半を織田家に奪われた斎藤龍興は、京の足利将軍家に近づき巻き返しを図ろうとします。

しかし永禄10年(1567)、美濃国の有力国人衆であった西美濃三人衆(稲葉良通、氏家直元、安藤守就)が織田家に内応した事から、斎藤龍興は稲葉山城を逃げ出しました。14歳で美濃国の国守となり、20歳で美濃国を後にした龍興。ですが龍興が再び稲葉山城に戻る事はありませんでした。

ここに松波庄五郎から始まり斎藤道三、義龍、龍興と続いた道三流斎藤家の下剋上は終焉しました。しかし斎藤龍興は復権を図るべく各地を放浪します。

伊勢長島への逃亡

永禄10年(1567年)8月15日、斎藤龍興は家臣達と稲葉山城を脱出すると城下の木曽川を船で下り美濃国を後にします。龍興が向かった先は伊勢国河内長島でした。その龍興を捕えるべく織田軍も北伊勢に侵攻します。

織田家は北伊勢の長島に侵攻し在地の国人領主たちを服属させていきます。織田家はこの年、美濃国に続いて北伊勢も版図に加えました。この北伊勢を押さえた事が永禄12年(1569)の大河内城攻略と伊勢国の全てを押さえる足掛かりとなります。

ともかくも伊勢国へ逃げ込んだにも関わらず、織田家の追討を受けた斎藤龍興。龍興は対抗する手段もないので伊勢国も後にしました。

転戦

さて斎藤龍興を追い出し美濃国、北伊勢を確保した織田信長。信長の次の目標は畿内への侵攻でした。この当時、畿内の大部分を手中に収めていたのは三好家でした。三好家は永禄8年(1565)、室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃し殺害しました(永禄の変)。京は将軍不在となります。そこで信長は殺された足利義輝の弟、足利義昭を擁立し京へ上洛。足利義昭を擁立した織田家は畿内の大名、国人衆を影響力下に置き、反対に三好家は次第に畿内から追い落とされていきます。

織田家に恨みのある斎藤龍興はこの三好家を頼りました。三好家と龍興は永禄12年(1569)正月、事態を打開すべく将軍となった足利義昭を襲撃します(本圀寺の変、六条合戦)。この足利義昭襲撃事件は失敗に終わり、三好家は畿内を棄て本領の四国へと退きます。

織田家の出現により凋落の一途をたどった三好家。巻き返しを図りたい三好家は元亀元年(1570)、石山本願寺の顕如や北近江の浅井家、越前の朝倉家、南近江の六角家と組んで織田家と戦います(野田城福島城の戦い、志賀の陣、伊勢長島の戦い。或いは「第一次信長包囲網」)。斎藤龍興もこの反織田家包囲網に加わり、長島一向一揆に家臣の長井道利と共に加わり織田家と戦います。

この戦いは元亀元年年末まで続き織田家と反織田勢力の講和が結ばれました。

最期

第一次信長包囲網で伊勢長島の一向一揆に加わった斎藤龍興。講和が結ばれると龍興は、姻戚関係でもあった越前国の朝倉家に逃れ保護され客将となります。

翌元亀2年(1571)8月、石山本願寺の顕如は斎藤龍興(龍興はこの時期、一色式部大輔という名を名乗っていたので一色宛て)に書状を送り、「御本意」実現を願い金と太刀を送っています。ここから斎藤龍興は越前国から南に下り美濃国へ入国する事を企図していたようです。というのも翌元亀3年(1572)8月、美濃国にある本願寺に連なる寺に斎藤龍興の美濃入国計画が練られていました。本願寺の斡旋で東美濃の遠藤氏を説得し寝返らせ北の越前国からは斎藤龍興が、南にある伊勢からは斎藤龍興の家臣であった日根野弘就が美濃国へ侵攻する手はずになっていました。この計画は実行に移されましたが、龍興を支援していた朝倉家の軍勢が雪の為に先に進むことが出来ず上手くいきませんでした。

天正元年(1573)8月、北近江の浅井家に対して織田家が侵攻します。朝倉家は浅井家を支援する為に軍勢を派遣しましたが、この軍の中に斎藤龍興も参加していました。ところが8月14日に朝倉軍は織田家に敗れ追撃を受けます(刀禰坂の戦い)。

齋藤龍興はこの追撃を受けている最中に織田家によって戦死しました、享年26。一説には龍興を討ったのは且つての重臣であった氏家直元の嫡男、氏家直昌であったとも言われています。死後、法名は瑞雲庵竜興居士、あるいは『常在寺記録』には瑞光院竜淵宗雲日珠大居士と号したとされます。

羽島の伝承

さて刀根坂の戦いで命を落としたはずの斎藤龍興。ところで龍興には刀根坂の戦いで亡くならず、その後も生きていたという話が幾つかあります。その一つが羽島の話です。

斎藤龍興は刀根坂の戦いを落ち延び、再び北陸から畿内の石山本願寺へと戻り本願寺と合流しました。そして本願寺勢力の下で道三流斎藤家の再興を図りました。しかし密かに美濃国へ潜入したところで現在の岐阜県羽島市足近町の寺で病死した、とされています。

同地の願教寺には斎藤龍興の墓と、父である義龍、その子の龍興、さらに龍興の子とされる小兵衛義仁の位牌が伝えられています。

越中の九右ェ門と興国寺

富山市にある興国寺の伝承によりますと、龍興は美濃国を脱出すると家宝系図を持って永禄12年(1569)3月に越中国新川郡布市村を訪れ興国寺に身を寄せました。そこで雌伏し道三流斎藤家の再興を考えていましたが、再興のない事を悟り九右ェ門と名を変え帰農します。九右ェ門となった龍興は「仏の力である、お経の力なり」と家族を励ましながら付近を開拓、天正8年(1580年)この地を経力村と名づけ腰を落ち着けました。

徳川の時代となった江戸時代の慶長16年(1611)、九右ェ門は子に家督を譲ると興国寺で出家し寺の住持となりました。興国寺には、龍興が身に付けていたという鎧鞍と念持仏(木造阿弥陀如来立像)が寺に伝えられています。

更に富山に帰農した九右エ門(龍興)にはその他の伝承があります。ある日、九右エ門は飛んできた鶴にとある場所を教えられます。九右エ門が教えられた場所を掘ると湯が沸きだし源泉が出ます。源泉は「霊鶴源泉」と名付けられ、温泉は「経力の湯」として木造薬師如来像が祀られ人々に親しまれましたが、大正時代に廃業しています。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。