白河藩松平定信も城主を務めた
松平家の家紋「梅鉢」
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- 藩史
- 藩名
- 白河藩(1627年〜1871年)
- 所属
- 福島県
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白河藩は、福島県白河市にあった東北の藩です。古くは白河の関が設置され奥羽地方への出入り口として重要視されていました。それは、白河藩が置かれた江戸時代にも変わらず、東北の有力な外様大名を監視したり抑制したりする役目を担う藩でした。
そのため、初代藩主の丹羽氏をのぞいて有力な親藩や譜代大名が城主を務め、家の家変わりも頻繁だったのです。寛政の改革で有名な松平定信も城主を務めています。そんな白河藩の歴史を紐解いていきましょう。
初代藩主丹羽家から前橋松平家の治世
白河藩が開かれたのは、寛永4年(1627年)のことです。丹羽長秀の長男、丹羽長重が10万石で移封され、藩主の居城となる白河小峰城を築城しました。丹羽長重は父、丹羽長秀が仕えていた織田信長が死去した後、豊臣秀吉に仕えましたが待遇は決して良いものではありませんでした。
そのため、家臣団はバラバラになり、長重自身も関ヶ原の戦いで西軍に味方したことから、一時期は改易もされたのです。しかし、大坂夏の陣で武功を立てて10万石を与えられると、散っていた家臣団が再集結しました。さらに丹羽長重の前に白河の地を治め、改易された蒲生氏の家臣も召し抱えた結果、白河藩の財政ははじめからかなり厳しくなったのです。二代目藩主の丹羽光重は丹羽長重の三男ですが、寛永14年(1637年)に父長重の死によって後を継ぎましたが、6年後の寛永20年(1643年)二本松藩を創立するために移封されました。こうして、丹羽氏は白河から離れたのです。
その後、大須賀忠政の長男で徳川四天王・榊原康政の孫、徳川家康の姪を母に持つ榊原忠次が短期間城主を務めますが、すぐに移封され、その後本多家が2代、奥平松平家が1代、藩主を務めます。
本多家の藩主はあまり目だった功績は残せず、その後藩主になった奥平松平家の松平忠弘の後継者を巡って「白河騒動」が勃発しました。白河騒動は、50歳になった藩主松平忠弘の後継者が決まっていない不安が家臣団の間で広がり、爆発した騒動です。それぞれ後継候補を擁立して分裂した家臣団の騒ぎは、幕府の耳に入ることになり、松平忠弘は10万石への減封と山形への国替え処分を受け、白河藩を去りました。
その後、前橋松平家が3代にわたって藩主を務めます。
前橋松平家の初代松平直矩は、映画「引っ越し大名」のモデルにもなった人物です。生涯に何度も国替えを行ない、その結果家計に全く余裕がなくなったといったストーリーは史実に基づいています。なお、映画では出羽山形藩への引っ越しの様子が描かれていましたが、白河藩への移封はその後のお話です。
2代目藩主松平基知は、藩の財政を建て直そうと領民に大変厳しい年貢を課しましたが、その結果、享保4年(1719年)には全藩規模の百姓一揆が勃発し、藩政は混乱します。
3代目藩主松平明矩は跡を継いですぐに姫路藩に国替えになりました。
久松松平家と安部家の治世
前橋松平家が姫路に移封された後、代わりにやってきたのが久松松平家であり、その中でも最も有名な人物が、松平定信です。松平定信は、8代将軍徳川吉宗の次男の息子にあたり、一時期は将軍候補に上がったほど聡明な人物でした。
17歳の頃に白河藩第2代藩主、松平定邦の養子になります。その後、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)にかけて天明の大飢饉が発生しました。天明の大飢饉は、東北地方の被害が甚大だった飢饉ですが、松平定信は被害を最小限に食い止めるように分領の越後から白河へ米を輸送させ、同時に会津藩に米を売ってもらうように談判します。この松平定信の裁量により、白河藩の被害は拡大せずに済みました。
この功績や藩主就任後の白河藩の財政建て直しの実績が認められ、松平定信は田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、11代目将軍徳川家斉の元で、老中に任ぜられます。
老中になった松平定信は寛政の改革に着手します。寛政の改革といえば、「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が有名ですが、これは、松平定信が白河藩の藩主であったことに由来します。
寛政の改革は結局6年ほどでとん挫し、定信は72歳でなくなりました。
跡目は次男の松平定永が継ぎますが、早々に桑名へ移封されました。
久松松平家が去った後、明治まで白河藩の藩主を務めたのが安倍家です。中でも、有名なのが、7代目の阿部正外です。時代は14代将軍徳川家茂の時代。阿部正外は勝海舟とも面会し、幕府へ勝海舟の政治思想の危険性を報告、彼が罷免されたきっかけを作ったと言われる人物です。その一方で、京都の攘夷派公家・浪士らの牽制や、朝廷との交渉役も務めました。彼は一貫して徳川家茂のサポート役を勤め、奥羽越列藩同盟軍を結成し、戊辰戦争では新政府軍と戦いましたが、大敗して白河小峰城が焼失します。
本人は、保原の藩分領に逃走して降伏し、明治20年まで生存します。
なお、安部正外の跡を実子の阿部正静継いでいますが、特に目立った働きはなく父より先んじて明治11年に28歳で亡くなりました。そのため、実質的には正外が最後の藩主といえます。
白河藩まとめ
白河藩は治める家がめまぐるしく代わり、初代から財政難で苦しみ、一揆も多発した藩です。松平定信など有名な藩主もいますが、特に大きな功績を残した藩主はいません。そのため、会津藩など東北の他の藩と比べると、「殿様」の印象が薄い藩といえます。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。