水戸藩徳川御三家のひとつ

水戸藩

徳川家の家紋「三つ葉葵」

記事カテゴリ
藩史
藩名
水戸藩(1602年〜1871年)
所属
茨城県
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水戸城

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水戸藩は、紀伊徳川家、尾張徳川家と同様、徳川家の「分家」にあたる水戸徳川家が明治維新まで治めた藩です。
この3つの家を併せて「御三家」と呼ばれました。
将軍に近い家柄のため、歴史の表舞台にたびたび城主が登場します。
そんな水戸藩の歴史を紐解いていきましょう。

水戸藩の成立

豊臣秀吉が関白として武士の頂点に立っていた時代、水戸の地は佐竹氏が治めていました。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こった際、領主であった佐竹義宣は東軍にも西軍にも与せず中立を貫いたので、江戸幕府成立後に出羽久保田21万石に転封されてしまいまいした。

その後、徳川家康の五男である武田信吉が水戸に入りますが、翌年に後継がいないまま急死したため、今度は徳川家康の十男にあたる徳川頼宣が水戸の地が与えられました。
ちなみに、このとき徳川頼宣はわずか2歳であり、8歳のときに今度は紀州藩主となり、紀伊徳川家の祖となります。

この時代、政務は財政面を蘆沢信重が、行政面を関東郡代伊奈忠次という人物が行っていましたが、藩の役人と村人の行き違いにより「生瀬村」という村の住民が惨殺される、「生瀬騒動」という事件が起きたという伝承が残っています。
徳川頼宣が紀州藩主となると、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳の徳川頼房が下総下妻藩より移封され、彼が水戸徳川家の祖となりました。

水戸藩は、徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩でした。これは、将軍に万が一のときがあったときに代わりを務める将軍目代の役目を担っていたから、といわれています。
水戸藩の石高は3代目藩主徳川綱條の時代に、「新田開発を行うもの」として35万石になりましたが、実際の石高は20万石台後半でした。
水戸藩は城主と一部の家臣団が江戸で生活する費用と、国元で実務を取る家臣団の生活費が二重に必要だったうえ、何事も35万石の格式を求められるので、内実はかなり苦しかったようです。

2代目藩主から明治時代までの水戸藩

水戸藩の祖である徳川頼房は、江戸で生涯を過ごして水戸の地を踏むことはありませんでした。
水戸で誕生した初めての城主は、2代藩主の水戸光圀です。
お供を従えて諸国漫遊をした、というフィクションが大変有名な人物ですが、史実の水戸光圀は儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくりました。

水戸光圀は父、徳川頼房と正式な側室ではない女性との間に生まれた三男で、当初堕胎の命が出されていましたが、母が命令に背いて出生をしたという逸話が残っています。

水戸光圀は学者肌の藩主で、「快風丸」をという船を作り、三度にわたる蝦夷地探検を命じてもいます。
史実の光圀は関東近郊を行ったり来たりするだけで、それ以外の土地には生涯おもむく事はありませんでしたが、人を使わせて全国をフィールドワークしています。
これが、フィクションの土台になったのかもしれません。

このほか、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘して教えを請い、水道事業を行うなど多くの功績を残しています。
また、5代将軍徳川綱吉の時代には幕政に影響も持っていました。
その一方で、大日本史の編集には多大な費用がかかり、藩の財政を圧迫し、藩内の村は逃散が絶えなかったという負の一面もありました。

3代目藩主徳川綱條は、傾いた財政を建て直そうと宝永の新法と呼ばれる財政改革を行いますが、結局失敗し藩の財政はますます悪化しました。
政治の手腕は今ひとつで、熱心でもありませんでしたが徳川光圀と同じ学者肌であったようで、『鳳山文稿』、『鳳山詠草』などの著作を多く残しています。

4代目藩主徳川宗堯は聡明な人物でしたが26歳で早世、5代目藩主徳川宗翰は1歳で藩主となり成長してからは藩政改革を試みますが失敗、挫折して政治への関心を失ってしまいます。

6代目藩主徳川治保の時代に水戸藩の財政はますます悪化します。そんな中、彼は天明7年(1787年)、紀伊藩、尾張藩の藩主や御三卿一橋家当主・徳川治済とともに、田沼意次一派の粛清と松平定信の老中就任を推進し、田沼時代の幕引きのきっかけを作ります。

また、産業を奨励し、商品作物の耕作を試み、藩の財政を建て直そうとしますがうまくいきませんでした。
その一方で、文人としては優れた功績を残し、『文公文集』や『尚古閣雑録』など著書を多数残しています。
また、町人だった藤田幽谷や農民の長久保赤水など学識豊かな人物を藩士として取り立てています。

7代藩主徳川治紀は藤田幽谷や長久保赤水と共に藩政改革を乗り出しますが、目立った成果は上げられませんでした。

献金郷士制度という、一種の寄付を廃止したせいでますます藩政は傾き、藩主の座に就いているとき、藩士の給与を50%削減しています。

この時期より、支藩である守山藩領の鹿島郡松川の近海に異国船が出没するようになり、海防の強化も求められるようになりました。
徳川治紀は八方塞がりのような厳しい状況の中、44歳で急死します。

8代藩主徳川斉脩は聡明な人物でしたが、体が弱く生涯一度も水戸の地を踏むことはありませんでした。将軍徳川家斉の七女峰姫を正妻にしたため幕府から援助を受けることができ、財政難は一時的にやや解消に向かいます。

しかし、生来の体の弱さがたたり33歳の若さで亡くなりました。
彼が藩主であったとき、水戸藩領の北端部、付家老中山家の知行地である大津に異人12人が上陸する事件が起こっています。

幕府は彼らに野菜や鶏肉、水を与えて船員全員を本船かえしていますが、水戸藩ではこの幕府の姿勢に対する批判が巻き起こり、水戸藩において攘夷思想が広がるきっかけになったといわれています。

9代藩主徳川斉昭は、最後の将軍徳川慶喜の実の父です。
会沢正志斎のもとで水戸学を学び、藩主になってからは今も建物が残る弘道館を設立、藩内部から広く優秀な人材を集め、藩政改革に乗り出しました。

また、西洋の兵器の国産化にも意欲を示し、寺院の鐘などの金属を徴収して大砲の弾丸をつくるなども行っています。
このような行いは仏教弾圧であると激しく非難され、弘化元年(1844年)に強制隠居を求められるきっかけとなります。
しかし、徳川斉昭の復帰を求める下士の運動などもあり、弘化3年(1846年)に謹慎を解かれた後、嘉永2年(1849年)には幕政にも関与するようになります。

安政2年(1855年)に軍制改革参与になったものの、強硬な攘夷論を曲げず、開国を迫る老中井伊直弼と対立します。
最終的に徳川斉昭は井伊直弼に敗れ、安政6年(1859年)に永蟄居を命じられて政治生命を絶たれました。
その翌年、蟄居令は解けないまま61歳で急逝しています。

10代目藩主徳川慶篤は、徳川慶喜の実兄にあたります。父の蟄居により幼年で藩主の座に就き、成長してからは文久2年(1862年)の坂下門外の変で、武田耕雲斎らを登用して尊皇攘夷派の懐柔を試み、生麦事件の賠償問題に関わるなど、調停役として力を発揮します。

一方水戸藩では水戸藩第8代藩主・徳川斉脩が後継を決めずになくなってしまったことから端を発して誕生した「天狗党」が力を付け、元治元年(1864年)についに乱を起します。
徳川慶篤は当初天狗党に味方していましたが、幕府が天狗党の討伐を決定すると、てのひらをかえして、天狗党の処罰を決定しました。

この藩主の心変わりにより藩政は混乱し、以後数年間保守門閥派である諸生党が水戸藩の実権を握ることになります。
また、天狗党も同じ藩士であり、処刑者が多数出たことから、この乱は藩内に深い遺恨を残しました。

その後、慶応4年(1868年)在京の水戸藩士・本圀寺勢に託された「除奸反正」の勅書により、徳川慶篤は藩の実験を握っていた諸生党の討伐を決意、実行します。

その結果、尊攘派が水戸藩江戸邸の実権を握り、水戸徳川家は朝敵とみなされることはなくなりました。
しかし、この討伐をきっかけに天狗党による激しい報復が水戸藩で行われ、諸生党だけでなく中立派の人々まで数多く犠牲となりました。
この混乱の最中、徳川慶篤は37歳で死亡します。

最後の藩主徳川昭武は、徳川慶喜の異母弟にあたります。
藩主になる前、パリ万国博覧会開催時に将軍慶喜の名代としてヨーロッパに派遣させられ、名代の任を終えた後そのままパリへ留学していました。
その間に大政奉還が行われて江戸幕府が消滅します。

紆余曲折遭って帰国した直後に兄、徳川慶篤の死亡を告げられ、そのまま藩主になります。
そのころ、水戸藩では藩士の分裂を抑えきれず、弘道館戦争が勃発しました。
藩主時代は箱館戦争にも参戦しましたが、明治政府が樹立されて藩知事となり、廃藩置県で罷免されてからは、陸軍戸山学校の教官になります。

その後、フランスに再留学して欧州を周遊し、半年間ロンドンにも滞在して1年後に帰国しました。
晩年は自転車や狩猟、写真、園芸などの多彩な趣味を有し、彼の撮影した写真は今でも貴重な資料として残されています。

水戸藩まとめ

水戸徳川家は明治になって松戸徳川家となり、現在も存続しています。
当主は学者肌が多く、日本の文化面で大いに貢献しました。
その一方で、藩政は苦しく一揆や逃散なども頻発しました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。