岡山藩(2/2)宇喜多秀家が基礎を作り池田氏が治める

岡山藩

池田家の家紋「備前蝶」

記事カテゴリ
藩史
藩名
岡山藩(1603年〜1871年)
所属
岡山県
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8代目藩主の池田斉政は父とは対照的に堅実な政治を行い、質素倹約に勤めます。そのおかげで父の散財によって傾きかけた岡山藩の財政をいくらか立て直しました。
しかし、跡継ぎに次々と早世されてしまい、最終的に薩摩藩主・島津斉興の次男・久寧を婿養子に迎えて家督を継がせます。ちなみに久寧の同母兄は幕末に大活躍する薩摩藩11代目藩主である島津斉彬です。

名を池田斉敏と改めた久寧は、9代目藩主の座についたあと、民政に力を造りました。
しかし、32歳の若さで亡くなってしまいます。

跡を継いだ10代目藩主池田慶政は、豊前国中津藩主奥平昌高の十男に生まれ、池田斉敏の養子に入った人物です。
塩や砂糖の専売強化や質素倹約令などによる財政政策を積極的に行いましたが、あまりにも厳しい改革を実践したため、安政3年(1856年)に藩内で渋染一揆が発生、さらに藩札まで差し止めになってしまい、改革は失敗に終わりました。
文久3年(1863年)には、病気を理由に水戸藩主徳川斉昭の九男として生まれ、養嗣子としていた茂政に藩主の座を譲って隠居します。
しかし、その後明治26年まで長生きしました。

11代目藩主池田茂政は、藩政よりも国政に深くかかわった藩主です。
父の影響を強く受けた尊王攘夷派で、池田慶徳、米沢藩主上杉斉憲、徳島藩世子蜂須賀茂韶とともに参内して、当時真木和泉らが計画していた攘夷親征を中止すべきと徳川家茂に騒擾もしています。

その一方で、長州藩には友好的でありましたが、禁門の変後長州に対する態度を一変させています。
ただし、二回の長州征伐には消極的でした。出兵はしていますが積極的な戦闘は行っていません。
なお、池田茂政の同母兄は最後の将軍でもある徳川慶喜です。

そのため、慶応4年(1868年)に発せられた徳川慶喜追討の勅命によって岡山藩からも討伐軍を出すように求められたとき、その要望に応えず病を理由に隠居しています。
明治時代になると、新政府によって弾正大弼に任じられ、能楽の復興に努めました。

最期の藩主である池田章政は、肥後人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男に生まれ、茂政の養子になりました。
なお、岡山藩の藩主になる前は鴨方藩主池田政善の末期養子となり、鴨方藩藩主も務めています。彼は、幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し、藩内の尊王攘夷派からの信望も篤かったといわれています。
慶応4年(1868年)に岡山藩主を継ぎ、戊辰戦争においては新政府軍に味方し、藩軍を関東・奥羽・函館にまで送りました。
ちなみに、鴨方藩の方は長男が跡を継いでいます。

明治になると版籍奉還によって藩知事に任ぜられ、廃藩置県によって藩知事を辞し、東京に移り住みました。明治17年(1884年)に侯爵に列せられています。

岡山藩まとめ

岡山藩は外様大名でありながら徳川家との縁も深く、幕末になると徳川御三家から養子が入るなどもしています。
なお、池田家は明治になってからも華族として活躍し、16代目当主の池田隆政氏は、昭和天皇の第四皇女、現上皇陛下の姉である厚子内親王と婚姻を結びました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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