中津藩(2/2)福沢諭吉を輩出

中津藩

黒田家の家紋「藤巴」

記事カテゴリ
藩史
藩名
中津藩(1587年〜1871年)
所属
大分県
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2代目藩主奥平昌敦から藩政改革に着手し、質素倹約の推奨や運上役所の設置と商業統制、農業改革などを行って、藩政を立て直そうとします。
さらに、奉行制度の制定、目付や目安箱の設置、宝暦札の発行なども行いました。

3代目藩主奥平昌鹿は、西洋の解剖学の書である「ターヘル・アナトミア」を日本語訳した蘭学者の1名、前野良沢を手厚く保護し、藩でも蘭学を推奨しました。

4代目藩主の奥平昌男は、若年で後を継いだのでしばらく家老たちが政治の実権を握っていましたが、政治闘争の末家老たちを粛清して親政を行おうとします。しかし、その矢先に天明の大飢饉が起こり、再び藩の実権は家老たちに奪い返されてしまいました。
その失意の中で、彼は24歳の若さで死去します。

5代目藩主奥平昌高は、奥平昌男の娘婿で薩摩藩主・島津重豪の次男に当たります。
島津家も奥平家も蘭学が盛んだったせいか、本人も江戸屋敷に総ガラス張りのオランダ部屋を作り、出島で買い集めたオランダ製の品を飾るほどのオランダ好きでした。

オランダ語も達者で、オランダの商館長(カピタン)と長年交流し、通訳なしで会話したほどでした。
シーボルト事件で国外追放された「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」とも交流があり、5回も面会しています。

藩主の座を退き、隠居してからは通称「中津辞書」と呼ばれる「日蘭辞書」や「バスタールド辞書」を著し、西洋文化導入に大いに貢献しました。

6代目藩主奥平昌暢は、藩主の座についてすぐの24歳で夭折、その後を継いだ7代目藩主奥平昌猷も、5代藩主よりも早く30歳で亡くなってしまいます。

8代目藩主奥平昌服は、第6代藩主・奥平昌暢の次男であり、7代藩主の死後に跡を継ぎます。
藩主になって10年後の嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航して開国をせまります。
このとき、彼は鎖国攘夷を唱えており、まだ存命だった5代藩主奥平昌高と盛大にぶつかっていたという記録が残っています。

奥平昌暢自身は島津家の出ですが、奥平家は譜代大名だったので、長州征伐が起こった時は佐幕派として幕府軍に加わっていました。
しかし、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると明治新政府に味方して会津まで出兵しました。

9代目にして最後の藩主、奥平昌邁は、鳥羽伏見の戦いの年である慶応4年(1868年)に、8代藩主奥平昌服の隠居とともに藩主になります。

伊予国宇和島藩主・伊達宗城の四男として誕生し、8代藩主奥平昌服の養子となっていました。
藩政を取った時間はわずかですが、選挙制を藩内に導入するなど斬新な政治を行います。廃藩置県後伯爵に任ぜられ、藩士の福沢諭吉や小畑新次郎にすすめられてアメリカ留学をしました。
帰国後は東京府会議員となり、東京府芝区長にも就任します。
さらに、福沢諭吉にすすめられて藩校・進脩館の後身校「中津市学校」を設立しました、
しかし、彼は渡米中にかかった病気がもとでわずか30歳で死去しました。

中津藩まとめ

今回は中津城・中津藩の歴史を紹介しました。
大分県の小さい藩でしたが、福沢諭吉という優れた人物を輩出しました。
これは、藩主の奥平家が蘭学をはじめとして新しい学問に貪欲で寛容だったからともいえます。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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