熊本藩(2/2)加藤家と細川家が治める

熊本藩

細川家の家紋「九曜」

記事カテゴリ
藩史
藩名
熊本藩(1600年〜1871年)
所属
熊本県
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4代藩主細川宣紀はこの困難の中、心労により57歳で世を去り、跡を4男の細川宗孝が17歳という若さで継ぎます。
しかし、細川宗孝は延享4年(1747年)月例拝賀式のため江戸城に登城した際、乱心した旗本寄合席の板倉勝該に切りつけられて死亡しました。

この事件は板倉勝該による人違い説、屋敷の設備をめぐる遺恨説など複数の説があります。
この事件により、細川家は二度目の改易の危機に立たされました。

このとき、仙台藩主・伊達宗村が機転を利かせて細川宗孝がまだ死亡していないと幕府側に届け出て、細川宗孝を江戸屋敷に運ばせたうえ、家臣たちに6代目藩主である細川重賢を末期養子にするように働きかけます。
これにより、細川家は「殿中での刃傷には喧嘩両成敗」という決まりを免れ、家名を存続できました。

急遽藩主になった細川重賢ですが、この当時熊本藩は40万両近い借財をかかえ、凶作によって年貢の徴収もままならない有様でした。

重賢も部屋住み時代は質屋を利用していたほどで、生涯その質札を大切にしていたという逸話が残っています。
その後、重賢は宝暦の改革と呼ばれる大変厳しい財政再建策を実行に移します。
当時新興商人であった加島屋と談判して年貢一手引き受けを条件に資金を得たり、藩の製品を加島屋に売却したりするなどして、藩の財政を立て直していきます。

自身も、木綿の着物以外を着ず、入浴の際は打ち水だけにするなど質素倹約にはげみ、藩の財政を立て直していきました。
その頑張りあって、熊本藩は財政が立ち直っただけでなく、地方が一定の権限と財源を得て新田開発などが積極的に行われ、さらに教育や司法も改革されていきます。

また、重賢は蘭学に傾倒し薩摩藩の島津重豪、久保田藩の佐竹義敦らと共に「蘭癖大名」と称されました。
重賢のおかげで熊本藩は立ち直ったといっても過言ではありません。

7代藩主細川治年は、66歳で父重賢が死去した後、藩主の座につきますが天明6年(1786年)から天災が起こって藩内に打ちこわしが多発、その対策に追われているうちに30歳という若さで死去します。
その後を継いだ8代目藩主細川斉茲は、藩札を発行するなどして財政を立て直そうとしますが、失敗に終わり、享和2年(1802年)には御銀所騒動と呼ばれる藩政抗争が勃発します。さらに、江戸藩邸が焼失するといった不幸も続き、結局財政再建は失敗に終わりました。

9代藩主細川斉樹も財政再建を目指すも30歳で死去、10代目藩主、細川斉護の時代には再び財政破綻寸前まで陥ります。しかも、この時期アメリカやイギリスの軍艦が日本に接近しており、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられてさらに財政は悪化しました。

それに加えて藩内は藩政改革の方針をめぐって横井小楠・長岡是容ら改革派と松井佐渡をはじめとする保守派がぶつかり合い、藩内が二分されるというにっちもさっちもいかない状態になってしまいます。
このような苦難の中、斉護は57歳で死去しました。

11代藩主細川韶邦の時代、世の中は明治維新を迎えますが、尊皇攘夷には消極的で藩論を尊王論に統一しています。
長州藩の高杉晋作が小倉藩を襲撃した際は小倉藩を助けましたが、一戦して敗れた後はすぐに引いています。
その後、薩摩藩のような華々しい活躍をすることなく、明治維新を迎え藩知事になりました。

最後の藩主となった12代目細川護久は、藩知事になった後、雑税約9万石廃止、熊本城破毀、藩議院設置など九州の中で最も進歩的な政策を取ります。
その後、明治4年当時白川県と呼ばれていた熊本県の知事に任命されます。
そして、明治10年(1877年)に起きた西南戦争では、戦禍に遭った人たちの扶助に尽力したといわれています。
その後、細川護久は明治17年(1884年)、華族令公布に伴って侯爵に叙され、明治23年には貴族議員に就任します。

熊本藩まとめ

熊本藩を治めた加藤家・細川家の歴史をかいつまんでご紹介しました。なお、細川家は現在も存続しており、最後の藩主細川護久の曽孫にあたるのが、第79代総理大臣を務めた細川護熙氏です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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