熊本藩加藤家と細川家が治める

熊本藩

細川家の家紋「九曜」

記事カテゴリ
藩史
藩名
熊本藩(1600年〜1871年)
所属
熊本県
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熊本藩は「肥後藩」とも呼ばれ、球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国の一部を治めた藩です。藩庁は熊本城であり、「築城の名手」と呼ばれた加藤清正を祖とする加藤家と細川家によって治められました。
そんな熊本藩の歴史を紐解いていきましょう。

加藤家の統治

肥後は室町時代は守護の菊池氏、戦国時代に入ると豊後国の大友氏によって治められてきましたが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定によって領地は豊臣家のものになりました。

豊臣秀吉は当初、肥後の領主に富山城主であった佐々成政を任命しましたが、佐々成政は肥後制定を急ぐあまり、検地を強引に行って肥後の国人たちの怒りをかい、「肥後の国人一揆」が勃発します。
佐々成政は自力で一揆を治めることができず、秀吉に援軍を頼みました。

そのとき、駆けつけたのが加藤清正と小西行長です。この2人の活躍により一揆は鎮圧しますが、佐々成政は一揆をおこした責任を問われ切腹させられます。
そして、肥後の土地は北部が加藤清正、中・南部が小西行長に与えられたのです。

しかし、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦がおこると小西行長は西軍につき、加藤清正は東軍につきます。
その結果、小西行長は斬首となり、加藤清正に小西行長の土地も与えられることになりました。
これにより、加藤清正は52万石の大名になり熊本藩が成立します。

加藤清正は茶臼山丘陵に熊本城を築き、藩庁としました。
また、天守閣が完成した記念に隈本を「熊本」と改めます。

このほか、清正は城下町や道路網を整備し、新田開発、灌漑用水の整備により治水を図るなど当地の基礎を築きました。

現在も加藤清正は熊本で大変慕われており、清正公さんと慕われています。
ただし、加藤清正は秀吉の朝鮮出兵の費用を工面するために藩の百姓に重税を課すなどその統治には負の側面もありました。

加藤清正は慶長16年(1611年)に亡くなり、その後を3男の加藤忠広が継ぎます。この時、まだ11歳という若年だったため、江戸幕府は加藤家に9か条の条件を出し、貢献を藤堂高虎が務め、後を継ぎました。

この条件の中には、「水俣城、宇土城、矢部城の廃止」や「支城主の人事と重臣の知行割は幕府が行う」といったものもあり、幕府が熊本藩の重臣たちをけん制したかった意図が分かります。
しかし、二代目藩主加藤忠広は家臣団を抑えることができず、「牛方馬方騒動」をはじめとする、重臣たちの対立が発生し、藩政は混乱しました。

そして、寛永9年(1632年)、江戸参府の際、そのまま改易の沙汰を受けました。
加藤忠広の改易の正式の理由は徳川家康の孫にあたる徳川忠長が起こした駿河大納言事件に連座したなど諸説ありますが、はっきりをわかっていません。

加藤忠広は、その後出羽国庄内に配流となり、加藤家は断絶しました。

細川家の統治

加藤家が断絶した後、変わって豊前国小倉藩より、細川忠利が藩主としてやってきます。当時の石高は54万石でした。そして、この細川家が明治まで熊本藩を統治します。

細川忠利は、死後も多くの人に慕われていた清正公を尊重し、熊本に入るときは清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、その後は加藤家の家臣を多く召し抱えたと伝わっています。

細川忠利は、入国後に領地を「手永」と呼ばれる行政区画に分けて村を束ね、責任者として惣庄屋を置く制度を導入し、明治時代まで続けました。

また、忠利は寛永17年(1640年)に熊本藩へ剣豪として知られる宮本武蔵を招いたことでも有名です。忠利は宮本武蔵を7人扶持18石に合力米300石で召し抱え、客分待遇で接しました。宮本武蔵が画や工芸にいそしみ、さらに「五輪書」を執筆できたのは細川家の保護があったからと言われています。

また、細川忠利は外様大名ではありますが幕府の信頼も篤く、55歳で急死した際は三代将軍徳川家光が「早すぎる」と嘆いた、という話も伝わっています。

2代藩主細川光尚は、島原の乱を鎮圧するなど一定の功績を上げますが、31歳の若さで亡くなってしまいます。跡継ぎの細川綱利がそのときわずか6歳であり、あやうくお取りつぶしの危機を迎えますが、幕府からの信頼が篤かったことと細川家家臣が奔走したことにより、何とか家名を存続することができました。

細川綱利は、元禄15年(1702年)に吉良義央を討ち取った大石良雄をはじめとする赤穂浪士17名を預かった大名として知られています。

細川綱利は大石良雄と直接対面して話を聞き、浪士たちをごちそうや酒やたばこでもてなし、たいそう感謝されたという話が伝えられています。

また、幕府に助命も嘆願しており、それが叶うならば赤穂浪士全員をそのまま細川家で召し抱えという希望までしています。

その願いは残念ながら叶うことはありませんでしたが、細川綱利は赤穂浪士たちが葬られた泉岳寺に金30両の葬儀料と金50両の布施をしました。

また、浪士たちが切腹した庭を生涯清めることをせず屋敷の名所としたという話もあります。

4代目藩主細川宣紀の時代、熊本藩は旱魃・飢饉、虫害、イナゴの大発生、など天災が立て続けに起こって凶作になり、餓死者が数千名でるという凶事に見舞われます。

そのうえ、3代藩主細川綱利はやや浪費財政だったため、藩の財政はたちまちひっ迫しました。
これに加えて幕府は細川家に利根川普請で15万両の支出負担を担わせます。これにより藩財政は破綻寸前となります。

4代藩主細川宣紀はこの困難の中、心労により57歳で世を去り、跡を4男の細川宗孝が17歳という若さで継ぎます。
しかし、細川宗孝は延享4年(1747年)月例拝賀式のため江戸城に登城した際、乱心した旗本寄合席の板倉勝該に切りつけられて死亡しました。

この事件は板倉勝該による人違い説、屋敷の設備をめぐる遺恨説など複数の説があります。
この事件により、細川家は二度目の改易の危機に立たされました。

このとき、仙台藩主・伊達宗村が機転を利かせて細川宗孝がまだ死亡していないと幕府側に届け出て、細川宗孝を江戸屋敷に運ばせたうえ、家臣たちに6代目藩主である細川重賢を末期養子にするように働きかけます。
これにより、細川家は「殿中での刃傷には喧嘩両成敗」という決まりを免れ、家名を存続できました。

急遽藩主になった細川重賢ですが、この当時熊本藩は40万両近い借財をかかえ、凶作によって年貢の徴収もままならない有様でした。

重賢も部屋住み時代は質屋を利用していたほどで、生涯その質札を大切にしていたという逸話が残っています。
その後、重賢は宝暦の改革と呼ばれる大変厳しい財政再建策を実行に移します。
当時新興商人であった加島屋と談判して年貢一手引き受けを条件に資金を得たり、藩の製品を加島屋に売却したりするなどして、藩の財政を立て直していきます。

自身も、木綿の着物以外を着ず、入浴の際は打ち水だけにするなど質素倹約にはげみ、藩の財政を立て直していきました。
その頑張りあって、熊本藩は財政が立ち直っただけでなく、地方が一定の権限と財源を得て新田開発などが積極的に行われ、さらに教育や司法も改革されていきます。

また、重賢は蘭学に傾倒し薩摩藩の島津重豪、久保田藩の佐竹義敦らと共に「蘭癖大名」と称されました。
重賢のおかげで熊本藩は立ち直ったといっても過言ではありません。

7代藩主細川治年は、66歳で父重賢が死去した後、藩主の座につきますが天明6年(1786年)から天災が起こって藩内に打ちこわしが多発、その対策に追われているうちに30歳という若さで死去します。
その後を継いだ8代目藩主細川斉茲は、藩札を発行するなどして財政を立て直そうとしますが、失敗に終わり、享和2年(1802年)には御銀所騒動と呼ばれる藩政抗争が勃発します。さらに、江戸藩邸が焼失するといった不幸も続き、結局財政再建は失敗に終わりました。

9代藩主細川斉樹も財政再建を目指すも30歳で死去、10代目藩主、細川斉護の時代には再び財政破綻寸前まで陥ります。しかも、この時期アメリカやイギリスの軍艦が日本に接近しており、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられてさらに財政は悪化しました。

それに加えて藩内は藩政改革の方針をめぐって横井小楠・長岡是容ら改革派と松井佐渡をはじめとする保守派がぶつかり合い、藩内が二分されるというにっちもさっちもいかない状態になってしまいます。
このような苦難の中、斉護は57歳で死去しました。

11代藩主細川韶邦の時代、世の中は明治維新を迎えますが、尊皇攘夷には消極的で藩論を尊王論に統一しています。
長州藩の高杉晋作が小倉藩を襲撃した際は小倉藩を助けましたが、一戦して敗れた後はすぐに引いています。
その後、薩摩藩のような華々しい活躍をすることなく、明治維新を迎え藩知事になりました。

最後の藩主となった12代目細川護久は、藩知事になった後、雑税約9万石廃止、熊本城破毀、藩議院設置など九州の中で最も進歩的な政策を取ります。
その後、明治4年当時白川県と呼ばれていた熊本県の知事に任命されます。
そして、明治10年(1877年)に起きた西南戦争では、戦禍に遭った人たちの扶助に尽力したといわれています。
その後、細川護久は明治17年(1884年)、華族令公布に伴って侯爵に叙され、明治23年には貴族議員に就任します。

熊本藩まとめ

熊本藩を治めた加藤家・細川家の歴史をかいつまんでご紹介しました。なお、細川家は現在も存続しており、最後の藩主細川護久の曽孫にあたるのが、第79代総理大臣を務めた細川護熙氏です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。