長州藩明治政府の立役者
毛利家の家紋「一文字に三ツ星」
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長州藩は豊臣家五大老の1人である毛利輝元の息子、毛利秀就から始まり、明治維新まで毛利家によって納められた藩です。
討幕運動の中心地となり、吉田松陰、高杉晋作といった尊皇攘夷思想の木戸孝允、大村益次郎、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、といった明治維新の立役者たちを生み出しました。
そんな長身藩の歴史を紐解いていきましょう。
長州藩の成り立ち
長州藩は、西軍の総大将であった毛利輝元を減封し、防長二国に領地を限定したことによって成立した藩です。
毛利氏は、鎌倉幕府の重臣であった大江広元の四男・毛利季光を祖とする一族です。
毛利氏の第12代目投手、毛利元就が一代で毛利家を一国人から戦国大名へ押し上げ、その孫毛利輝元の代になると山陰・山陽・さらに九州の一部まで領地に持つ全国でもトップクラスの大名に成長しました。
毛利輝元自身は豊臣秀吉に仕え、五大老の1人に任ぜられます。
そして、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に任じられ、徳川家康にその責任を追及されました。
毛利輝元は持っていた領地のほとんどを召し上げられ、強制的に隠居させられます。
跡を継いだのは、嫡男の毛利秀就です。
こうして、長州藩が成立し、初代藩主に毛利秀就が就任しましたが、まだ幼年だったため実質的な藩の実験は毛利輝元が握っていました。
毛利輝元は慶長9年(1604年)に初代藩主の毛利秀就とともに建築中の萩城に入ります。
なお、慶長15年(1610年)、改めて領地の検知が行われ、幕府に53万9268石余と申告しましたが、幕府側は検知中に一揆が発生したこと、隣国の広島藩の藩主が福島正則が東軍で功績を挙げた武将であり、そこと釣り合いが取れないということから、申告石高の7割、36万9千石を表石高として公認し、それは幕末まで変わりませんでした。
幕末までの長州藩
初代藩主である毛利秀就は、父の養子であり自分の後見人でもある毛利秀元と深刻な対立があり、幕府が仲介に入るほどでした。
その跡を継いだ毛利秀就の四男、毛利綱広は反骨精神が強く、徳川家に仕えることを恥として江戸にいながら江戸城に登城しないことさえありました。
二代目藩主として、毛利綱広は萩と周防国三田尻を結ぶ萩往還を造ったり、万治制法と呼ばれる法令「33か条の条目」を定めたりするなど有能な働きを見せています。
しかし、徳川家に反抗的な態度を恐れた家臣達の説得により、天和2年(1682年)に43歳で隠居しました。
その後、毛利家は20代~30代で亡くなる短命藩主の時代が続きます。
藩主の中には治水工事を行ったり幕府から不振を受けたりする者もおり、そのせいで長州藩の財政はだんだんと悪化していきました。
7代目藩主、毛利重就は藩の財政悪化を改善しようと経費の削減・新田開発・荒廃田の復旧・築港による流通整備などの藩政改革に乗り出します。
その甲斐あって、長州藩は回船の寄港地として発展し、藩物品の販売・回船業者への資金貸し付け・倉庫貸出などで収入を増やします。
さらに、検知によって4万石分の収入を得ることに成功しました。
その一方で、厳しい年貢の取り立てによって一揆も多発し、長州藩はその対応になやまされることになります。
10代目藩主、毛利斉熙は海防の強化や西洋軍備による軍備増強を行いますが、その跡を継いだ11代目藩主、毛利斉元の時代、天保7年(1836年)に長州藩を「申歳の大水」を呼ばれる大規模な水害が襲います。城下の3分の2が水没、死者200名以上という大惨事で、その対処に追われているなか、毛利斉元自身も死去してしまいます。
このようななか、13代目藩主になったのが、毛利敬親です。(12代目は跡を継いだ僅か20日後に23歳で死去)
幕末の長州藩
毛利敬親は、毛利斉元の長男として生まれましたが、両方とも毛利家の出では無く、世襲家老家一門八家の一つである福原家の出です。
申歳の大水からの回復策として、質素倹約と貨幣流通の改正を行いました。
また、後に佐幕派として処刑される坪井九右衛門を登用し、藩政改革を推し進める一方、江戸に藩校有備館を建設します、
さらに、天保14年(1843年)には萩で練兵を行いました。
余談ですが、その1年前の天保13年(1842年)吉田松陰の叔父が萩に松下村塾を開設しています。
毛利敬親の改革はそれにとどまらず、嘉永2年(1849年)に国許の藩校である明倫館の改革に乗り出しました。
この明倫館で学んでいたのが、井上馨・上田鳳陽・桂小五郎・国重正文・高杉晋作・吉田松陰です。
嘉永6年(1853年)、アメリカのマシュー・ペリー提督率いる黒船が来航すると、相模国周辺の警備に当たります。安政5年(1858年)8月、密勅を受け「尊王」に尽力を尽すことになります。
そして、文久元年(1861年)、毛利家家臣団の名門である長井雅楽を登用し、航海遠略策により朝廷と幕府との協調策を探りますが、薩摩藩の妨害によって失敗します。
これをきっかけに、藩論は周布や桂小五郎らが主導する攘夷へと傾いて行きました。
その結果、文久2年(1862年)、攘夷の実行を藩の方針と正式に決定し、翌年の4月に藩庁を海防上の理由から海沿いの萩城から山口城に移転、外国船の打ち払いを行います。
文久3年8月18日、孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩などが三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から追い出すクーデター「八月十八日の政変」が起こり、長州藩は京を追われてしまいました。
その翌年の元治元年(1864年)、池田屋事件が勃発。新撰組によって多数の長州藩士が殺されます。
この事件を受け、長州藩は元治元年(1864年)7月に京へ上り、会津藩主であり、京都守護職の松平容保らの排除を目指し市街戦を繰り広げました(禁門の変)。
これは、大坂夏の陣以来の大名同士の戦争であり、京都市内では3万戸が焼失するなど、大打撃を受けます。
しかし、この戦いは長州藩が敗北し、尊皇攘夷派は大きく力を失いました。
この禁門の変により、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われます。
この一連の事件を受け、幕府は毛利敬親の官位を剥奪します。
さらに、元治元年(1864年)8月、長州藩が外国船を打ち払ったことの報復として、英仏蘭米の4ヵ国の連合艦隊が下関に襲来しました(下関戦争)。
下関戦争は長州藩の敗北に終り、さらに第一次長州征討の報を聞いた毛利敬親は、国司親相・益田親施・福原元僴ら3家老を切腹させ恭順し、萩に謹慎しました。
翌慶応元年(1865年)、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、保守派を打倒します(功山寺挙兵)。
これをきっかけに、政権は討幕派に握られ、高杉晋作が結成した奇兵隊や、侍以外の民間人で構成された長州藩諸隊を「藩の兵士」として編入します。さらに、大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用するなど、大規模な軍事改革が行われました。
慶応2年(1866年)、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれます。
この同盟により、第二次長州征伐は長州・薩摩連合藩の勝利となりました。
慶応3年(1867年)、長州藩イギリスとの関係を再構築、同年に倒幕の密命を受けます。
これにより、同年11月、薩摩藩らと共に官軍を組織して上洛しました(王政復古の大号令)。
この一連の大事業を藩主として成し遂げた毛利敬親は、慶応4年(1868年)5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将の地位を得て山口へ帰郷しました。
明治2年(1869年)1月、毛利敬親は薩摩藩・土佐藩・肥前藩と連署して版籍奉還を実行します。これにより、その後、毛利敬親は大納言の位を得て隠居、後を最後の藩主である毛利元徳が継ぎましたが、すぐに大名から知藩事となり、廃藩置県によってそれも免官されて東京へ移り、銀行の頭取から貴族院の議員になりました。
現在の毛利家
毛利敬親・毛利元徳はいずれも50代という若さで亡くなりますが、毛利元徳の八男が西園寺公望の養子となり、西園寺八郎となって昭和天皇の外遊などに同行しています。
また、西園寺八郎はそのまま西園寺家の跡取りとなり、その次男、西園寺不二男は戦後現在の三井住友銀行の頭取となります。さらに、日産興業社長・会長を歴任しました。
そして、その血脈は今も受け継がれています。
長州藩まとめ
長州藩といえば、幕末に大活躍する藩です。しかし、江戸時代を通して長州藩は天災や一揆が相次ぎ、財政危機にも陥っています。
また、毛利輝元がそもそも西軍の総大将を務めるなど徳川家康の治世に反抗した人物であったことから、毛利家は決して徳川家に柔順な大名であったとはいえないでしょう。
第13代藩主、毛利敬親以外、歴史の表舞台に立った藩主はいませんが、その血脈は現在も受け継がれています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。