備中松山藩(2/2)5つの家が治めた小藩

備中松山藩

池田家家の家紋「揚羽蝶」

記事カテゴリ
藩史
藩名
備中松山藩(1617年〜1871年)
所属
岡山県
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現存天守
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その後、板倉家は4代にわたって藩主を勤めますが特に特筆すべきことはありません。
城主は病弱なものが多く、板倉家4代目藩主の板倉勝政まで、みな20代〜30代で病没しています。
板倉勝政は幕府では寺社奉行を務め、藩政では藩校の有終館を創設しました。
43歳の時に病を理由に跡を4男の板倉勝に譲って隠居しますが、かれは藩主になって3年後、21才の若さで熱中症により急死してしまいました。

その跡を継いだ6代目藩主の板倉勝職は奢侈により藩の財政を悪化させます。
子供がいなかったため、陸奥白河藩主松平定永の八男板倉勝静を養子にして、7代目藩主の座を継がせます。
板倉勝静は頭脳明晰な人物であり、農商出身の陽明学者山田方谷を藩校の学頭に抜擢したほか、殖産興業を起こして藩の財政の立てなおしに成功しました。

この功を幕府に認められて奏者番兼寺社奉行に任じられますが、安政の大獄が起こった際、大老の井伊直弼の過酷な処分に意見を申したため、罷免されてしまいます。

しかし、直弼死後の文久元年(1861年)、再び奏者番兼寺社奉行として復帰し、後に老中へ昇進しました。
老中就任後は第14代将軍徳川家茂の側近として生麦事件の賠償問題や、孝明天皇から受けた攘夷勅命の遵守ができなくなった問題などに関わります。

その後、最後の将軍徳川慶喜からも篤い信頼を受け、老中首座兼会計総裁に任命されました。
板倉勝静は、幕府の重鎮の1人として、大政奉還の実現などに尽力します。
新政府軍との戦争である鳥羽・伏見の戦いでも徳川慶喜に随行しましたが、そのことで新政府軍から「朝敵」とみなされてしまい、備中松山藩は苦境に立たされました。

家臣団は苦肉の策で4代藩主板倉勝政の孫に当たる板倉勝弼を急遽新しい藩主にして板倉勝静を強制的に藩主の座から降ろすことで備中松山藩を守り抜きました。

備中松山藩は5万石の所領を2万石に減らされましたが、戦火に巻きこまれることなく明治を迎えます。
板倉勝弼は板倉勝静が新政府に赦されるまでの繋ぎの役割を果たすだけの存在でしたが、後に帰郷した板倉勝静は、改めて板倉勝弼へ家臣に忠誠を誓わせています。

明治以降の備中松山藩

板倉勝弼はその後藩知事になりましたが、廃藩置県によって罷免されて東京へ赴き、子爵に叙勲されて上野東照宮の社司をつとめ、51才で死去しました。

板倉勝静は、明治になると上野東照宮の祀官となり、養子の板倉勝弼らの助力を受けて第八十六国立銀行(現・中国銀行)を設立しました。

なお、板倉勝静は勝海舟やイギリスの外交官、アーネスト・サトウから「好人物」「時代が時代であったら名君と呼ばれていた」と評され、現在までその記録が伝わっています。
ちなみに、昭和初期の登山家であり日本にスキーを普及させた板倉勝宣は、板倉勝弼の実子です。

まとめ

備中松山藩は岡山県の小藩でありながら、幕府の要職まで上り詰めた藩主を複数人輩出しています。特に、第7代藩主板倉勝静は第14代、15代将軍の側近として大政奉還など歴史に残る出来事に深く関わりました。
板倉家は現在も存続しており、19代目当主の板倉重徳さんは2020年の東京オリンピックの前に高梁市で聖火ランナーを務めました。
現在は東京に在住していますが、定期的に岡山県高梁市に帰郷し、地域のPRに勤めているということです。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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