津藩富田氏と藤堂氏による藩政

津藩

藤堂家の家紋「蔦」

記事カテゴリ
藩史
藩名
津藩(1595年〜1871年)
所属
三重県
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津城

津城

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津藩は、富田氏と藤堂氏という2つの家が治めてきた藩です。富田氏は江戸時代初期に国替えし、以降は藤堂氏が代を重ねて津藩を治めていきます。その歴史と代々藩主の功績をひもといていきましょう。

津藩の基礎を築いた富田信高
富田信高は富田一白の一子で、津藩二代目藩主です。初代藩主の富田一白は文禄4年(1595年)7月に津城に入りましたが、慶長4年(1599年)に隠居して同年に死去しています。ですから、富田信高が実際に津藩の初代藩主的な役割を果たしました。津城の歴史で説明したように、富田信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、毛利秀元・長宗我部盛親軍に城を包囲されながらも開城まで持ちこたえます。その功績を称えられ、江戸幕府から2万石の加増を受けました。伊予宇和島藩に国替えされるまで、富田信高は関ヶ原の戦いで消失した城下町の再建に尽力を尽しています。
津藩の基礎を築いた藤堂高虎
藤堂高虎は富田信高が伊予宇和島藩に国替えされた代わりに津藩に入った大名です。君主を8回も代えた苦労人の武将として有名であり、戦国時代を舞台にしたゲームや小説、漫画などでもよく登場するのでご存じの方も多いでしょう。藤堂高虎が治めた地は。内訳は伊予越智郡今治2万石、伊賀国内10万石、伊勢安濃郡、一志郡内10万石で計22万石となっています。藤堂高虎は築城の名手として知られており、現在残っている津城の遺構も彼が大改造した後のものです。藤堂高虎は家康に高く評価され、外様大名で有りながら譜代大名格として扱われました。秀忠の五女、和子が皇室に嫁ぐ際は彼女の入内に反対する公卿の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ったという逸話も伝わっています。内政では、上野城と津城という2つの城で城下町を建設、地方の農地開発、寺社復興などに尽力しました。また、晩年は陸奥会津藩と讃岐高松藩、肥後熊本藩の後見をつとめ、家臣団を派遣して当地の政治を行いました。

藤堂高虎の死後財政が悪化

藤堂高虎がなくなると、彼の嫡子である藤堂高次が後を継ぎます。なお、藤堂高虎はなかなか嫡子に恵まれなかったため、丹羽長秀の子どもである藤堂高吉を養嗣子にしていました。しかし、藤堂高虎が46才のときに高次が生まれたため、高吉は寛永13年(1636年)に藤堂高次の命令で伊賀名張へ転封されます。その後、高吉は名張藤堂家を起こしましたが、藤堂家との仲は決して良くありませんでした。藤堂高次は父と同じように築城の才能に恵まれていたため、幕府の要請により江戸城二の丸、寛永16年(1639年)におきた火災によって焼失した江戸城本丸の復興、日光の大猷院霊廟などさまざまな石垣普請を行います。しかし、石垣普請の費用を津藩でも多く負担した結果、財政難に陥りました。藤堂高次は新田開発を推奨し、年貢も増収します。しかし、それでも財政難は対して改まることなく、悪化の一途を辿っていったのです。

名君と名高かった藤堂高久

藤堂高久は藤堂高次の長男であり、津藩の4代目藩主です。父である高次が藩主の座についていたときに津藩城下町で大きな火災が起こりましたが、高久は父を助けて城下町の復興に力を尽しました。藩主についた藤堂高久は、悪化した藩の財政を建て直すために綱紀粛正に努め、新田開発水利事業を行いました。そのため、領民からの評判は大変よく、元禄時代に描かれた各藩の藩主や政治状況を記した「土芥寇讎記」(どかい こうしゅうき)という本には「領民から仏のように慕われていた」と記載されています。その一方で、寛文9年(1669年)に白土山の陶土採掘を禁止したため、伊賀焼の陶工が大量に信楽に流出するという結果を引き起こしました。陶工が流出した伊賀焼はだんだんと廃れていきます。また、高久は保身のために幕府閣僚に接近し、綱吉の学問講義などにも盛んに出席しました。

相次ぐ天災、揺らぐ財政

元禄16年(1703年)に藤堂高久が死去すると高久の末弟であった藤堂高睦が4代目の藩主となります。藤堂高久は子どもに恵まれなかったので、兄から弟へと藩主の座がゆずられたのです。藩主の座に就いた年、江戸では「元禄地震」が発生し、藩邸が大きな被害を受けました。また、藩主の座について4年後の宝永4年(1707年)には、宝永地震、さらに富士山最後の噴火と呼ばれる宝永大噴火が立て続けに起きて、藩は大きな損害を被ります。藤堂高睦は、藩の財政を建て直そうと藩政の引き締め、奉行制度、家老制度、側用人制度の見直しなどを行いました。藤堂高睦は42才という若さでなくなります。子どもは二男一女がいましたが全て早世したため、藩主の座は、津藩の支藩である久居藩から迎えた養嗣子の高敏が継ぎました。

絶える高虎の直系の系統

藤堂高敏は、血筋から行けば藤堂高次の孫に当たる人物です。宝永5年(1709年)藤堂高睦が死去したと同時に藩主の座につきました。津藩はそのころ宝永地震・宝永大噴火の影響で凶作が続き、津藩では正月の餅つきが中止になるほどであったという記録が残っています。高敏は懸命に国を治めようとしましたが、享保13年(1728年)に疱瘡(天然痘)に倒れ、徳川吉宗から薬を下賜されたものの、病状は好転せずになくなりました。高敏には子女がいなかったため、高虎の男系血統は5代で絶えることになったのです。後を継いだのは、藤堂高虎の弟、藤堂高清の孫に当たる藤堂 高治。彼は地震の影響で荒廃した農村の復興に勤め、学問を奨励しました。その後を継いだ7代目藩主、藤堂 高朗も同じように学問を奨励しましたが、彼自身が奢侈に走ったため藩の風紀が乱れました。また、幕府の関心を買うため自ら式をして日光東照宮の修補造営を行いましたが、藩はその結果24万両の借金を負ってしまいます。

悪化し続ける財政

藤堂高治が明和6年(1769年)に隠居するとその後を孫である藤堂高悠が継ぎ、8代目藩主の座につきます。津藩の財政は歴代藩主達の努力にもかかわらず悪化し続けました。藤堂高悠は勤王の意識が強く、仙洞御所の普請役などを積極に引き受けますがそれが皿に藩の財政を悪化させてしまいます。また、藤堂高悠は生来から病弱であり明和7年(1770年)にわずか20才で病没しました。

藤堂高悠の後を継いで9代目の藩主についたのは、兄に当たる藤堂 高嶷です。そのころになると津藩の財政はどうにもならないほどに悪化していました。そこで、高嶷は財政再建を主とした藩政改革を行います。借金の棒引きを主軸とした金融政策・殖産興業政策・土地制度改革などを次々に実施していきますが、思うような結果は出ませんでした。特に、藩が農民に均等に土地を分け与えようとした均田制は地主達の強い反発を招き、寛政8年(1796年)には3万人規模の領民一揆(安濃津地割騒動)が発生して失敗に終わっています。金融政策も借金棒引きのやり方が強引であったり、寺社修復のために藩の人々が積み立てていたお金を財政立て直しのために使おうとしたりしたため、さらなる反発を招き、改革は失敗に終わりました。

財政の立て直しにようやく成功する

文化3年(1806年)9代目藩主の藤堂高嶷と後継ぎである高巽が相次いで死去します。後を継いで10代目藩主の座に就いたのは、息子の藤堂高兌です。やはり支藩である久居藩からの転任藩主です。藤堂高兌も9代目藩主に習って、金融政策・殖産興業・土地制度改革を主軸とした藩政改革に着手しました。藤堂高嶷の失敗を反面教師にしたのか、藤堂高兌はみずから率先して木綿の着物を纏い、生活費を切り詰めます。その結果10年後には1000両以上の貯金を築きあげたということです。藩主自ら倹約に励めば、臣下も従わざるをえません。また、倹約と同時に高兌は法令の整備や行政機構の改善、藩校・有造館の創設を行いました。これが功を奏し、ようやく津藩の財政は改善されたのです。さらに、藤堂高兌は勧農方という制度をつくり、高兌が信任した者に領地を巡らせて農業指導をしたり農民の訴えを聞いたりさせました。この新制度と灌漑用水工事の成功により、農民の暮らしは改善され、領民は藤堂高兌を大いに慕ったということです。藤堂高兌は病により44才でなくなりましたが、多くの領民が病気平癒を祈願して神仏に願掛けをしたという話しが伝わっています。

そして幕末へ

藤堂高兌の死後、後を継いで11代目藩主となったのは息子の藤堂高猷です。彼が藩主になった頃、世の中には大きな変化が訪れていました。外国船が盛んに日本の沿岸に姿を見せるようになったのです。天保13年(1842年)、藤堂高猷は幕府の命令によって伊勢神宮警備を務め、砲台を築きます。その後、文久3年(1863年)には天誅組の変を鎮圧し、元治元年(1864年)は京都守護のために兵を送りました。藤堂高猷は、佐幕派で公武合体を推進していたと記録にありますが、幕政にはあまり関わっておらず、鳥羽・伏見の戦いでは最初旧幕府軍の陣営に加わっていました。しかし、戦いの最中に新政府軍に寝返り、旧幕府軍が敗北するきっかけを作ったといわれています。戊辰戦争・箱館戦争にも藩士を兵士として前線に送りました。明治になり、藤堂高猷は藩主の座を降り藩知事になります。

廃藩置県

明治4年(1871年)藤堂 高猷が病気を理由に藩知事の座を降りると、その息子藤堂高潔が藩知事を継ぎました。彼が12代目津藩藩主であり、最後の藩主になります。同年、廃藩置県が実施され、藤堂高潔は免官となります。彼は父より早く明治22年(1889年)に55才で死去しています。

津藩に関するまとめ
津藩は、藤堂高虎を始祖とする藤堂家が幕末まで12代にわたって藩主を務めました。特に横暴な藩主や奢侈に溺れる藩主が出たわけではありませんが、幕府の関心を買うために普請を買って出たり天災に度々見舞われたりして、藩の財政は決して楽ではありませんでした。何度か一揆も起こりましたが、10代目の藤堂高兌の代で要約立てなおしができました。
廃藩置県後も藤堂家は残り続け、現在では15代目となる藤堂高正氏が存命です。
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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。