金ヶ崎の戦い浅井長政の裏切りで信長大ピンチ

金ヶ崎の戦い

金ヶ崎の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
金ヶ崎の戦い(1570年)
場所
福井県
関係する人物

永禄13年(1570年)4月、織田信長が朝倉氏を攻めた戦いが福井県敦賀市で起きた金ヶ崎の戦いです。信長優勢の戦いでしたが、なんとこの戦いの最中に、妹のお市の夫・浅井長政が信長を裏切ります! こうして信長の最大のピンチ、「金ヶ崎の退き口」の撤退戦が始まるのです。お市の方が長政の裏切りを小豆袋で伝えたり、殿として豊臣秀吉が活躍したり、徳川家康が置いてきぼりにされたりと、さまざまなエピソードが目白押しの戦いですが、実は一次資料はあまり残っておりません。今回はそんな謎がいっぱいの金ヶ崎の戦いについて、わかりやすく解説していきます。

信長が足利義昭と上洛

永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を擁して上洛作戦を開始しました。当時、室町幕府の将軍は14代目の足利義栄。永禄8年(1565年)に第13代将軍の足利義輝を暗殺した「永禄の変」の首謀者・三好三人衆により擁立された将軍で、足利義昭のライバルでした。

義輝暗殺後、義昭は松永久秀に捕らえられていたものの、朝倉義景らの助力もあり秘かに脱出し、義景の庇護下で生活しながら義栄と後継者争いを繰り広げることになります。義昭は将軍に就任するために義景に上洛を助けるよう求めますが、慎重派の義景は動きません。そうこうしているうちに朝廷に献金するなど朝廷工作に成功した義栄が、摂津国の高槻(大阪府高槻市)で将軍宣下を受けます。京に入ることなく第14代将軍になってしまったのです。

義景がなかなか動かないせいでライバルに将軍の座を奪われたわけですから、義昭は義景に失望。次に頼ったのが美濃国(現岐阜県南部)を制圧し、勢力を拡大していた信長でした。永禄11年(1568年)7月に義昭は信長に合流。信長は義昭を奉じて9月7日に岐阜を出発し、六角氏や三好三人衆などの敵対勢力を次々に破って京に到着します。そして10月18日、義昭は室町幕府第15代将軍に就任しました。なお、義栄は義昭の将軍就任前後に病没していますが、亡くなった日は諸説ありはっきりしていません。

信長は義昭上洛の立役者であり、後見人としてますます権勢をふるっていきます。そして永禄13年(1570年)の正月、信長は各大名に将軍に挨拶するよう上洛を命じました。名目上は将軍を立てていますが、要するに自らに従うよう呼びかけるためのものでした。

徳川家康をはじめとした大名たちは上洛し、上洛が難しい遠方の戦国大名たちも使者を派遣しましたが、越前国(福井県嶺北地方や敦賀市)を治める朝倉義景は上洛を拒否します。名門・朝倉家が信長のような成り上がりの田舎者の命令に従うのはプライドが許さなかったとも、自国の一揆を押さえることに専念したかったとも、慎重派の義景らしく義昭に従う意味があるのか様子見をしていたとも言われていますが、上洛を拒んだ理由ははっきりしていません。

金ヶ崎の戦い①当初のターゲットは若狭

上洛の命令違反を理由に織田信長は朝倉義景を攻めます。天皇家と幕府の許可を得た上での出兵で、大義名分はばっちりです。ただし、当初の出兵の名目は若狭衆の武藤氏の討伐でした。若狭衆のなかでも朝倉氏寄りだった武藤友益や武田信方などは上洛を拒否していたからです。

友益や信方は若狭武田氏・武田元明の部下。武田元明は朝倉氏の若狭(福井県南部の敦賀市以外)侵攻の際に捕らえられ、庇護という名目の元で一乗谷に軟禁されており、いわば朝倉氏の傀儡でした。とはいえ若狭武田氏は一応朝倉方になるわけで、このため友益や信方も朝倉氏とともに信長と敵対していたのです。

こうして永禄13年(1570)年4月20日、信長が率いる3万の軍勢は京を出陣。徳川家康や豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)、松永久秀、池田勝正なども同行していました。この時点で3万も軍勢を用意していることから、若狭攻めはあくまでも名目で、朝倉氏をターゲットにしていたという説が有力です。武藤氏が朝倉氏に協力を求めたことから結果として朝倉征伐になった、という説もありますが、そもそも武藤氏が朝倉氏と繋がっていることは明らかですから、信長としては覚悟の上の出兵だったことでしょう。

金ヶ崎の戦い②金ヶ崎城、落城

織田信長率いる軍勢は琵琶湖西岸を北上し、3月22日に若狭国に入りました。若狭国では織田方についた辺見氏や内藤氏などの若狭衆が信長を出迎えています。織田軍は4月23日には国吉城(福井県美浜町)に入り、25日に朝倉方の金ヶ崎城の支城、天筒山城(福井県敦賀市)を攻略。四方から攻めたて、激戦の結果、織田方も1500人程度の死者を出しつつも城を手に入れました。4月26日には朝倉景恒の守る金ヶ崎城も降伏開城。続いて疋壇城も落城します。

金ヶ崎城は小高い丘にある三方を海に囲まれた山城で、敦賀湾を一望できる、海上交通の監視スポットでした。景恒は信長軍と戦おうとするものの朝倉方の援軍は遅れており、兵力差的にも抵抗しきれないことは明白でした。前日の天筒山城の戦いで織田軍のすごさは実感しています。このため景恒は織田方の降伏勧告を受け入れます。

ちなみに援軍の遅れは朝倉氏内の派閥争いが影響しており、景恒と敵対する派閥が故意に遅らせたのだとか。景恒はその後一乗谷に逃れたものの「朝倉氏の恥さらしめ、不甲斐ない!」と批判され、失意の中で永平寺に入り、9月28日にこの世を去りました。理不尽ですね…。

一方、織田軍は順調に進軍します。金ヶ崎城の次は木ノ芽峠(福井県南条郡南越前町・敦賀市)を越えて朝倉氏の本拠地・越前国に攻めこむぞ!と意気揚々です。しかし、ここで信長の元に届いたのが「浅井長政の裏切り」の一報でした。

金ヶ崎の退き口①浅井長政の裏切りと「小豆袋」

北近江(滋賀県)を治める浅井長政は織田信長の同盟相手。信長の妹・お市は長政に嫁いでおり、信長と長政は義兄弟の関係でした。通説では、浅井氏は朝倉氏と同盟を結んでおり、信長と長政が同盟を結ぶ際は「朝倉家への不戦の誓い」を立てていたとされており、信長が朝倉氏を攻めるのはこの誓いを破ることでした。長政は信長につくか朝倉氏につくかを迷い、浅井氏の家臣の意見も割れましたが、結局長政は誓いを破った信長よりも朝倉氏につくことを決意しました。

近年の研究では、そもそも信長と長政が同盟を結んだ際、朝倉氏と浅井氏は同盟関係になかったという説があります。一次史料で両者の同盟を裏付けるものがないことが原因です。とすると、なぜ長政が信長を裏切ったのか、ますますわからなくなりますよね。信長は時代の風雲児。信長の考えについていくことができなかった、信長を恐れていた、父親で朝倉氏と深い関係にあった浅井倉久政の存在が理由、などの説がありますが、結局真実は歴史の闇の中です。

理由はどうあれ、長政は信長を裏切り朝倉氏につきました。長政裏切りの知らせを聞いた信長は、最初は信じませんでした。『信長公記』でも「虚説たるべき」と言ったほど。「義理の弟という近しい縁者であり、北近江を任せるほど十分厚遇している。裏切るはずがない。誤報だろう」と主張していますが、次々と入る知らせに「是非に及ばず」と撤退を決意。前方の朝倉氏、後方の浅井氏と、両方から攻め込まれる大ピンチを迎える前に京に戻ろうとするのです。

ちなみに、この時出てくるエピソードがお市の方と「小豆袋」です。お市が信長に「陣中見舞い」と称し、両端を縛った小豆袋を届けさせたというもの。長政が裏切りを明らかにする前なので、お市が信長に陣中見舞いを届けることは可能だったわけです。この両端を縛った小豆袋は信長が袋のネズミであることを表しており、信長はお市の意図を見破り撤退を決めた、と伝わっています。

このエピソードは『朝倉義景記』に掲載されているものですが、後世の創作のようです。とはいえ、お市が信長の危機を何らかの形で伝えようとしたことはあり得る話だと思います。

金ヶ崎の退き口②殿は秀吉と…池田勝正に明智光秀

金ヶ崎城からの撤退を決めた織田信長。撤退する際重要なのが、敵を食い止める殿(しんがり)です。討ち死に覚悟で信長が逃げる時間を稼ぐわけですからかなりの負担になりますが、とても名誉ある仕事です。この時殿に名乗りを上げて立派に勤め上げ、それをきっかけに出世したことで有名なのが豊臣秀吉(木下藤吉郎)です。

『信長公記』には殿として秀吉の名前しか出てきませんが、そのほかの史料によれば実際は殿軍に摂津守護の池田勝正や明智光秀といった、秀吉よりも高位の武将達も参加していました。殿軍の大将には3000人を率いていた池田勝正が就いていたようです。この三名が連携し、鉄砲などを駆使しつつ連携して殿を務めあげました。ただし、どのように戦って殿を務めたかについては史料が残されておらず、詳細は明らかになっていません。織田軍の被害も影響があまりない程度とも2000人とも言われています。

秀吉を賛美する記述の多い伝記『太閤記』に基づく通説によればかなりの激戦で、秀吉が奮戦して殿を務めています。秀吉の華々しい戦の一つですが、地元の伝承などに基づく説では、金ヶ崎城から僅か10kmに位置する国吉城まではかなり必死に逃げたようですが、朝倉勢はその後深追いしなかったため、国吉城から京までは割とスムーズに逃げられたようです。そもそも福井県美浜町は難攻不落の堅城として知られており、幾度となく朝倉氏の軍勢を退けてきました。織田軍としても「ここまで戻ればもう安心」という気持ちがあったに違いありません。

金ヶ崎の退き口③信長の「朽木越え」

一方の織田信長は4月28日に撤退を開始します。とはいえ行きと同じルートは浅井長政が裏切ったことで通過できません。このため信長は越前を南下して30日には近江に入り、朽木元綱の助けを借り、元綱の支配する朽木(滋賀県高島市)を通過する「朽木越え」をすることにしました。

朽木元綱は浅井方の武将ではありませんが、ここで信長を通さないという可能性もあります。そこで元綱を説得したのが松永久秀。説得が奏功し、信長は京に無事撤退することができたというのが通説です。敦賀から京に戻ったとき、信長の供は数十人程度だったとか。2、3日で山道などを通り、決死の思いで京に戻ってきたことが分かりますね。

ちなみにこの元綱、朝倉方の史料によれば、当初は信長を討とうとしていたようです。ただし、元綱と浅井氏との関係はあまりよくなかったとも言われているので真実は定かではありません。後に元綱は信長に仕え、その死後は秀吉に仕え、関ヶ原の戦いには西軍方で参加するも東軍に寝返り(※諸説あり)、徳川幕府の時代までしぶとく生き残っています。

金ヶ崎の退き口④置いてかれた…どうする家康?

織田信長は無事に京に帰還し、殿たちも無事に撤退しましたが…あれ?誰か忘れていませんか?そう、信長と一緒に金ヶ崎の戦いに参戦した武将、徳川家康です。『三河物語』によれば、この時信長は家康に何も告げずにさっさと退却してしまっており、家康は秀吉によってそのことを知らされ、一緒に撤退しています。

『徳川実紀』によれば、撤退の際家康は秀吉と共に殿を務め、秀吉の軍勢を鉄砲で助けたとのこと。秀吉は家康に大変感謝をしたそうです。とはいえ『徳川実紀』は江戸時代になって成立した江戸幕府による公式史書ですから、神君家康公を美化し活躍させています。家康が殿を務めたという一次史料はありませんから、創作されたエピソードである可能性もあります。

ちなみに家康については国吉城周辺に家康が訪れたという伝承が残されています。例えば秀吉は黒浜(福井県美浜町)で朝倉軍の追撃にありピンチに陥りますが、家康に窮地を救われており、家康は付近に陣をはったそうです。つまり「家康が秀吉を助けていない」とも言い切れないわけで…そこが歴史の面白いところなのかもしれませんね。

金ヶ崎の戦いから姉川の戦いへ

金ヶ崎の戦いの後、織田信長は京から岐阜に戻ります。途中に信長暗殺未遂事件などもおきますが何とかやり過ごし、浅井・朝倉攻めの準備を進めて徳川家康と共に北近江に侵攻。6月28日の姉川の戦い(滋賀県長浜市)でかなりの激戦の結果、浅井・朝倉軍を破ります。金ヶ崎の戦いからなんと約2ヶ月程度ですぐ反撃しているわけですから、信長のスピード感にはびっくりですが、それだけ浅井・朝倉に怒りを感じていたのかもしれません。

その後、信長と浅井・朝倉氏は争いを続けていきますが、天正元年(1573年)7月の小谷城の戦いで浅井氏は滅亡。残る朝倉氏も8月の一乗谷城の戦いで滅び、最終的には信長が勝利をおさめることになるのです。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。