豊後崩れ大分の潜伏キリシタン一斉検挙
豊後崩れ
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江戸時代にキリスト教が禁教となった後、幕府から隠れるようにキリスト教を信じてきた潜伏キリシタン。そんな潜伏キリシタンは幕府の度重なる摘発により捕縛・弾圧されてきました。そのうちの一つが万治3年(1660年)から天和2年(1682年)に豊後国(現在の大分県の大部分)で起きた「豊後崩れ」です。豊後露顕(ぶんごろけん)、万治露顕とも呼ばれるこの事件では、一説によれば1000人近い潜伏キリシタンが捕まったと言われています。なぜ幕府はキリスト教を禁止し、潜伏キリシタンを摘発し続けたのでしょうか。今回は豊後崩れについて、その背景も交えながら詳しく見ていきます。
キリスト教の伝来と豊臣秀吉の禁教政策
豊後崩れについて語る前に、日本にキリスト教が伝わり、禁教となるまでについて簡単に解説しておきます。日本にキリスト教を伝えたのは、カトリックのイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルでした。ザビエルは天文18年(1549年)に鹿児島に上陸して布教を進めます。その後、ルイス・フロイスやアレッサンドロ・ヴァリニャーノなどのイエズス会宣教師たちが九州や畿内を中心にキリスト教を広めていきます。
イエズス会はキリスト教の布教と南蛮貿易をセットにして時の権力者にアピールしていきます。加えて時の権力者・織田信長がキリスト教の布教を容認したこともあり、大友宗麟や小西行長、高山右近といった「キリシタン大名」が現れます。彼らが領民への布教を積極的におこなったことなどからキリスト教徒、つまりキリシタンの数は増え、最盛期には20万人のキリシタンがいたと推定されています。
信長の跡を継いだ豊臣秀吉も当初はキリスト教を容認していましたが、キリシタンたちによる寺社仏閣の破壊、キリシタン大名による領民の強制改宗やイエズス会への土地の寄進、日本人奴隷の海外輸出問題などにより、キリスト教を禁じる方向に舵を切ります。秀吉は天正15年(1587年)6月19日に「バテレン追放令」を発布してキリスト教を規制。最初は緩やかな規制でしたが、文禄5年(1596年)10月のサン=フェリペ号事件により、同年12月にキリスト教「禁教」令を発布しました。そして慶長元年12月(1597年2月)にはフランシスコ会の宣教師と日本のキリスト教徒、合計26人を長崎で処刑するなど強硬策に出ています。
江戸幕府もキリスト教を排除
徳川家康の時代に入ると、江戸幕府は南蛮貿易のメリットもあったからか、当初はキリスト教を黙認していました。しかし慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて起きた、キリスト教徒が関わった詐欺事件「岡本大八事件」を契機に、家康はキリスト教禁止令を発布して直轄地における教会の破壊と布教の禁止を命令。キリシタン大名に棄教を迫ります。慶長18年(1613年)には全国に禁教令を拡大し、キリスト教を本格的に排除しはじめました。このころから民衆の信じる宗教を調査して記す「宗門改帳」の作成が開始されたと言われています。
家康の決断は、勢力を拡大するキリシタン達を弾圧したいという意図もあったと思いますが、貿易先の変更も一因でした。これまで日本でキリスト教を布教していたカトリック教国のポルトガルやスペインは布教と南蛮貿易をセットにして日本に売り込んでいましたが、このころプロテスタントのオランダのように貿易だけを目的にした国が日本にやってきていたのです。後に江戸幕府は鎖国を決定し、カトリック教国の入国を拒否し、長崎で中国とオランダを相手に貿易を独占していくことになります。
その後、第2代将軍の徳川秀忠も家康を踏襲し、元和2年(1616年)に「二港制限令」を出してキリスト教禁止の姿勢を示したことで、キリシタンたちは棄教するか、潜伏してキリスト教を信じ続けるか、2つの道が示されました。このうち潜伏を選んだ潜伏キリシタン達はその後、厳しい弾圧と迫害を受け続けていくことになるのです。
島原の乱がキリシタン弾圧を加速化
キリスト教禁教政策が進む中、潜伏キリシタンたちの不満が爆発し、大規模な一揆が発生します。それが寛永14年(1637年)10月から翌寛永15年(1638年)2月末まで、島原・天草(長崎県島原市・熊本県天草市)を中心に起きた「島原の乱」です。この大規模な反乱で、幕府はキリスト教への危機感をさらに強め、布教の禁止を徹底していきます。
幕府はキリスト教排除のための方策として、キリスト像やマリア像を足で踏ませる「踏み絵」や、5戸を単位とした「五人組」による相互監視・密告奨励などのシステムを全国に広げていきます。特に踏み絵は九州で盛んにおこなわれました。
寛永12年(1635年)からは、キリシタンでないものは必ずどこかの寺の檀家になる「寺請制度」を開始し、その範囲を徐々に拡大していきました。仏式の葬式を義務付けるとともに、当時は神仏混合なので、氏子として神社への参拝も義務付けています。
島原の乱後の寛永17年(1640年)には大目付の井上政重がキリシタンを摘発し、人々の信じる宗教を定期的に調査する「宗門改」の担当者、「宗門改役」に就きます。宗門改役は明暦3年(1657年)に正式に設置されており、さらに幕府は寛文4年(1664年)に諸藩に宗門改の実施と専任の役人の設置を命じました。これにより宗門改帳が各地で作成されていくことになります。
キリスト教が盛んだった豊後
ではいよいよ豊後の話に入りましょう。禁教政策以前、キリスト教は九州で盛んに信仰されており、豊後でも同様でした。戦国時代に豊後を統治していたのは「キリシタン大名」として知られる大友宗麟。フランシスコ・ザビエルと会ったこともある宗麟は、天正6年(1578年)にキリスト教の洗礼を受けました。天正10年(1582年)には同じ九州のキリシタン大名・大村純忠や有馬晴信とともにローマに天正遣欧少年使節を派遣しています。
宗麟の時代、キリスト教は豊後の府内・臼杵・津久見や、大野郡野津・三重・宇目地方、直入郡朽網、速見郡由布院地方などを中心に広がり、一説によれば最盛期には3万人を超えていたと言われています。
ところが宗麟の跡を継いだ大友義統は天正18年(1587年)4月にキリスト教に改宗したものの、6月に秀吉が出したバテレン追放令により即棄教。宣教師の退去を命じるなど反キリスト教の動きを見せます。
その後、義統は朝鮮を攻めた「文禄の役」の際の失態により改易になり、豊後は地元の豪族が分割統治することに。その後、豊後は徳川家康が天下を取った関ヶ原の戦いの褒美として家臣たちに細かく分配されたことで、杵築・日出・府内・臼杵・佐伯・岡・森藩の7つの藩が置かれる「小藩分立」の状態になりました。ちなみに現在の大分県としてみると、豊前の中津藩を加えて8藩に分かれていたことになります。
そんな豊後では、江戸時代初期でもキリスト教は盛んでした。当時の状況は20世紀にマリオ・マレガ神父が収集した「バチカン図書館所蔵マリオ・マレガ神父収集文書」など、さまざまな史料から垣間見ることができます。そうした史料によれば、慶長18年前後の豊後は臼杵藩の高田(大分県大分市)と野津(大分県臼杵市)、岡藩の志賀(大分県竹田市)にイエズス会の拠点がありました。また、稲葉氏が治める臼杵藩はキリシタンに友好的で、藩内のキリシタンは約1万5000人いたというデータもあります。第3代藩主の稲葉一通の正室は細川ガラシャの娘だったこともあり、宣教師たちは精力的に活動して教会を建築しました。
また、岡藩初代藩主の中川秀成は高山右近とは従兄弟、キリシタンだったと言われる古田織部とは義理の兄弟であり、本人もキリシタンだったのではと言われている人物。このため岡藩もキリスト教には寛大で、慶長9年(1604年)にはイエズス会が藩内に聖堂を建設しています。
そんな状況が一変したのが、慶長17年(1612年)と18年(1613年)に家康が出したキリシタン禁教令でした。臼杵藩は江戸幕府の政策に倣い、慶長19年(1614年)には高田や野津の宣教師たちを追放し、領民にキリスト教からの改宗を強要しています。史料によれば、慶長19年に10人、元和8年(1622年)に50人がキリスト教を棄教しています。
このほか、府内藩や小倉藩、岡藩でもキリシタン弾圧の動きが見え始めます。岡藩では中川秀成の跡を継いだ中川久盛がキリシタンの迫害を進めました。当時のイエズス会の年報によれば、「小藩分立」の豊後では幕府への忠誠の証として潜伏キリシタンを弾圧をしていたようです。力のない小藩は改易を恐れていたということでしょうか。さらに島原の乱が発生したことで、各藩はキリスト教禁教政策をより強化していくことになります。
豊後崩れの発生
キリスト教の禁教政策が強まる中、万治3年(1660年)5月、大分郡熊本藩領高田手永(大分市)でキリシタンの男女70人余りが捉えられました。これをきっかけに高田や葛城、丹生(いずれも大分市)で取り締まりが強化。臼杵・岡・府内藩などの藩領や他藩、幕府領にその流れは広がり、多くの潜伏キリシタンが捕縛されました。この流れは天和2年(1682年)まで続き、「豊後崩れ」と呼ばれています。ちなみに「崩れ」というのは密告などでキリシタンが集団的に露見し、取り調べの結果捉えられて何らかの処分を受ける事件のことを指します。
豊後崩れは各藩ではなく長崎奉行が主導して実施されたものでした。当時の史料を合わせると、豊後崩れの時期には合計1000人超のキリシタンたちが逮捕されて、時に拷問を受け処刑されたと推定されています。
例えば臼杵藩だけで期間中に578名が捕縛されています。このうち海部郡久土村(大分市)では、万治3年から寛文9年(1669年)までに156人が捕縛されました。また、貞享3年(1686年)に日田郡永山城の城主が長崎奉行に送った報告書『豊後国大分郡・玖珠郡切支丹宗門親類書』によれば、豊後崩れの期間中に大分郡と玖珠郡で捕まった人は220人で男性が125人、女性が95人。このうち死罪が57人、長崎牢死が27人、日田牢死が32人、許され放免されたものが65人などとなっており、かなり細かい記録が残されています。
摘発されたキリシタンは藩が実働部隊となって捕縛し、捕縛された人は原則として長崎に送られ、幕府による厳しい吟味を受けました。その結果、多くの者が棄教しました。棄教した「転びキリシタン」は記録・監視対象にはなったもの、元の家に戻ることができました。とはいえ、規則を破った場合は処刑対象になっており、棄教したとはいえ完全にキリスト教を捨てられていなかったケースが一定以上存在していたようです。
ちなみに豊後崩れ当初は大っぴらにキリシタンを捕縛するのではなく、秘密裏にキリシタンかどうかを探り事件化を避けていたようです。秘密裏に実施しようとした理由は定かではありませんが、大量摘発により村社会が崩壊することをいだという説もあるようです。
同時多発的に起きた「崩れ」の意図は
実は豊後崩れの同時期に、別の場所でも「崩れ」が発生しています。明暦3年(1657年)には肥前国大村藩領の郡村(長崎県大村市)を中心に「郡崩れ」が起きており、608人が捕縛、411人が斬罪になっています。また、寛文元年(1661年)に美濃・尾張周辺で起きた「濃尾崩れ」では寛文5年(1665年)に207人、寛文7年(1667年)に756人、寛文9年(1669年)に33人が処刑されました。
こうした大規模な「崩れ」が発生した背景には、幕府による見せしめ的な要素に加え、幕府が諸藩を統制して自らの権力を誇示する意図もあったようです。キリスト教禁教を徹底する制度を確立する裏で、幕府は地方支配を強化していきました。長崎奉行が主体となって崩れを起こすことで、崩れ後も九州全域のキリスト禁教政策に介入し、九州における幕府の力を強めたのです。
さらに幕府は禁教政策の裏で戸籍制度を確立させました。幕府は寛文11年(1671年)に労働力の把握などを目的にしていた人別改帳と、宗門改帳を統合した「宗門人別改帳」を作成することを義務付けていますが、これはいわゆる戸籍簿の役割を果たすものでした。キリシタン禁制制度の裏側には、こうした政治的意図が多分にあったのです。
- 関係する人物
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。