山崎の戦い(2/2)明智光秀の「三日天下」の終焉

山崎の戦い

山崎の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
山崎の戦い(1582年)
場所
京都府
関連する城
勝竜寺城

勝竜寺城

淀城

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関係する人物

こうした状況を一変したのが池田恒興隊でした。こっそりと川を渡り、光秀本隊の側面をつく形で奇襲し成功させます。これを機会に羽柴軍が盛り返し、明智軍は総崩れになりました。このときしんがりを務めた伊勢貞興が討死しています。そして約3時間の戦いは終わり、戦は明智軍の敗退で終結したのです。

ちなみに、山崎の戦いは以前「天王山の戦い」と呼ばれていました。「天王山」といえば、「勝敗や運命の重大な分かれ目」を表す慣用句として知られていますが、その由来となったのは山崎の戦いだといわれています。ちなみに天王山が主戦場だったわけではないので、そこは注意しましょう。

山崎の戦い③明智光秀の死

山崎の戦に敗れた明智光秀は本陣の背後にあった勝龍寺城に退却しました。勝龍寺城は平城で大軍を収容しきれなかったこともあり、明智軍からは兵の脱走や離散が相次ぎます。この時点で兵力は700程度まで減っていました。一方の羽柴軍も前線部隊が消耗。おりしも夜で暗くなったことで積極的な追撃には至りませんでした。

そんななか、光秀は勝龍寺城の北門からひそかに脱出。居城の坂本城を目指して走りますが、その途中にある小栗栖の藪(京都市伏見区)で農民たちの落ち武者狩りに出くわし、竹やりで疲れて命を落としました。享年55歳。

死因については、落ち武者狩りは逃れたものの致命傷を負ったことで、溝尾茂朝の介錯により自害したという説もあります。溝尾茂朝は首を持ち帰ろうとしますが再び落ち武者狩りに襲われたため、首を竹やぶに隠します。そして坂本城に逃げ延びました。光秀の首は百姓により14日に羽柴軍のもとに届けられ、その後京都の本能寺や粟田口でさらされました。こうして光秀の天下はわずか十数日(11日とも12日とも)で終了。ここから「三日天下」という言葉ができています。ちなみに、光秀は実は生きており、徳川家康に仕えた南光坊天海だったという説もあり、織田信長同じく光秀の死もロマンチックなストーリーが作られるきっかけとなっています。

その後、羽柴軍は14日に勝龍寺城に入って光秀を捜索。この際明智秀満軍と戦いこれを撃破しています。敗れた秀満は坂本城で相手方に家宝を贈ったのちに光秀の妻子と自らの妻子を殺して城に火を放ち、同じく逃げ延びていた明智光忠や茂朝とともに自刃しました。このほか、羽柴軍は丹波亀山城(京都府亀岡市)で光秀の息子・明智光慶を自刃させており、これにより明智一族は出家したものなどをのぞきほぼ全滅しました。

ちなみに残りの明智五宿老はといえば、藤田行政は敗走先で自刃。斎藤利三は敗走するも潜伏していた堅田で捕まり、6月17日に六条河原で斬首されています。

山崎の戦い④その時秀吉以外の織田家臣たちは?

結局羽柴秀吉が明智光秀と決戦を繰り広げたわけですが、秀吉以外の織田信長の有力家臣たちはその時いったい何をしていたのでしょうか?秀吉以外の武将の動きについてまとめると以下の通りです。

●柴田勝家
越中国(富山県)にて「魚津城の戦い」で上杉氏と戦争中。6月6日に本能寺の変の知らせを受けて撤退しましたが、上杉方の妨害などで動けず、結果として秀吉に先を越されてしまいます。
●滝川一益
上野国・厩橋城(群馬県前橋市)にて北条勢をけん制。その後6月7日に本能寺の変を知って光秀を討とうとするものの、同じく本能寺の変を知って攻めてきた北条氏と戦い、最終的には敗走します。戦後処理などに追われ6月27日の清洲会議にも出席できませんでした。
●織田信孝と丹羽長秀
堺で四国征伐に向けた軍編制中のさなか本能寺の変が発生。当日には情報を得ていたようですが、寄せ集めだった軍の兵士たちが相次いで逃亡したことで軍事行動どころの話ではなく、消極的な守りに入っていました。その後、秀吉の軍に合流する形で山崎の戦いに参加しています。
●徳川家康
堺(大阪府堺市)で30数名の部下とともに観光中。同日に本能寺の変の知らせを受けますが、光秀に討たれる可能性があったことから、急いで三河国(静岡県)に戻ろうと移動しています。そのルートが「神君伊賀越え」ルートです。6月4日には三河国に到着し、その後光14日に秀討伐軍を率いて出発しますが、秀吉に先を越されてしまっていました。

このように秀吉以外はいろいろな要因から光秀を討ちに行けなかったようです。秀吉の素早い判断が功を奏したのはもちろんですが、秀吉はとても幸運だったといえるかもしれませんね。

山崎の戦い後の秀吉

こうして織田信長の弔い合戦ともいうべき山崎の戦いは羽柴秀吉の勝利で終結しました。その後秀吉は信長の後継者と遺領の分配をするべく開催された清洲会議で勢力を拡大。ライバルの柴田勝家との争意を経て、天下人へと名乗りを上げることになるのです。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03