三河一向一揆家臣団分裂!家康大ピンチ
三河一向一揆
関ヶ原の戦いに勝利して天下を統一するまで、徳川家康にはさまざまな危機が訪れました。その生涯における3つの危機として挙げられるのが三方ヶ原の戦いと神君伊賀越え。そして今回紹介する、永禄6年(1563年)秋から翌年春先まで、家康の本拠地・三河国(現在の愛知県)で起こった三河一向一揆です。一向宗の門徒たちが起こした一向一揆は織田信長もたびたび手を焼いていましたが、この時はなんと徳川家の家臣団の分裂まで招く結果となりました。若き家康最大の危機とも言われる三河一向一揆について、今回は詳しく見ていきます。
一向一揆とは?
三河一向一揆に入る前に、そもそも一向一揆とは何かを確認しておきましょう。一向一揆は、浄土真宗本願寺教団(=一向宗)の門徒たちが起こした一揆です。一揆というのは志を同じくする集団の一致団結した行動のことで、ひいては権力者に対する武力行使を伴う抵抗運動を指します。
浄土真宗は鎌倉時代初期に親鸞が開いた宗教で、簡単に言えば念仏を唱えながら阿弥陀仏をひたすら信じて浄土往生をめざす教えです。分かりやすく誰もが入信しやすい内容から、一向宗は鎌倉時代から庶民を中心に人気を集めました。そんな一向宗の人々が最初に一揆を起こしたのが文正元年(1466年)、金森(滋賀県守山市)で起きた金森合戦で、比叡山延暦寺との宗教的対立が原因でした。その後、一向宗の人々は自らの宗教的自治を守るために各地で一揆を起こすようになります。
有名なものが1488年に起こった「加賀一向一揆」。加賀国(石川県)の守護大名・富樫政親の一向宗弾圧に対抗し、約20万人の一揆勢が立ち上がったものです。そもそも政親は敵対勢力を倒すために一向宗の手を借りて守護大名につきました。ところが一向宗の勢力拡大に危機感を抱き、今度は一向宗を弾圧する側に回ったのです。加賀一向一揆の結果、政親は一向宗に追い詰められて自害。そして加賀一向一揆は天正8年(1580年)に信長に滅ぼされるまで約100年、加賀国を治め続けました。なんと幕府の徴税の際も一向一揆の許可が必要だったとのこと。このため加賀は「百姓の持ちたる国」とまで呼ばれるようになったのです。
一向衆には武士から農民まで幅広い門徒がおり、莫大な兵力を有していました。さらに阿弥陀仏を信じれば極楽浄土に行けるわけですから、戦の際は死を恐れず突撃してくるため、戦国武将にとっては嫌な戦相手でした。織田信長が石山本願寺と争った石山合戦の際も、信長は一向宗門徒に大苦戦しています。石山合戦はなかなか決着がつかず、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで約11年続きました。
そんな一向宗ですが、三河では鎌倉時代から信じられてきており、親鸞も三河に立ち寄り布教しています。室町時代には一向宗中興の祖・本願寺八世の蓮如が西三河強化の中心地として土呂(愛知県岡崎市)に本宗寺を建立。一向宗はその分かりやすさもあり、みるみるうちに門徒を増やしていきます。
戦国時代には三河の一向宗は本宗寺に加え、本證寺(愛知県安城市)、勝鬘寺、上宮寺(両方とも愛知県岡崎市)による「三河三ヵ寺」が門徒たちを取りまとめるようになっていました。この一向宗門徒の中には家康の家臣達も多く所属しており、そのため一揆の際は家臣団の中から離反者が出ています。
三河一向一揆①一揆はなぜ起きた?
三河一向一揆が起きた永禄6年(1563年)といえば、徳川家康(当時は松平家康)はまだ22歳の若者。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ったことを契機に今川氏から独立し、信長と清洲同盟を結び、三河国の統一を目指して動き出していました。
そんな中、家康と一向宗の寺院の間で、寺院の持つ「不入権」を巡ってのトラブルが発生します。不入権というのは領主の介入を拒否出来る権利で、年貢や諸役の免除、警察不介入などを指します。家康の父・松平広忠が本宗寺や三河三ヵ寺といった一向宗の寺院に与えていましたが、三河統一をめざす家康にとっては邪魔者以外の何物ではありませんでした。
三河一向一揆の原因となった不入権をめぐるトラブルについては諸説あります。実は三河一向一揆については当時の資料がほぼ残っておらず、江戸時代に入ってからの資料に頼らざるを得ないため、正確なことがよくわかっていないのです。
江戸時代初期に書かれた『三河物語』によれば、永禄5年(1562年)に本證寺に無法者が侵入し、家康の家臣の酒井正親がこれを捕縛。本證寺は不入権を侵害されたことに怒りを覚えて一揆につながったとのことです。『松平紀』などには家康の家臣が上宮寺から無理やり米を取り立てたことが原因との記述があります。このほか、家康が寺院の有する水運や商業への介入を狙ったことがきっかけになったとの説もあり、三河一向一揆の原因ははっきりと特定されていません。とはいえ、三河統一を進める家康は物資調達に力を入れており、寺からの年貢徴収を視野に入れて動いていたようですから、家康サイドから何らかの動きがあったことは確かのようです。
三河一向一揆②徳川家臣団の分裂
三河の一向宗は徳川家康のこうした行動に怒り、蜂起の準備を進めます。本證寺の第十代・空誓が中心になり、3寺の門徒を召集。数千ともいえる一揆勢が集まりました。その中には家臣団の武将達もおり、後の徳川十六神将の渡辺守綱と蜂屋貞次、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって戦死する夏目吉信、家康の祖父の代から松平家に仕え、家康の重臣中の重臣として知られる本多正信の姿もありました。
割とびっくりするようなレベルの武将たちが家康の敵方についおり、家康としても相当な危機感があったのではと思われます。家臣団を分裂されるほど一向宗の宗教的力は強かったということなのでしょうか。ちなみに徳川家臣団をざっくり分けると、上級家臣は家康を支持し、それ以外や上級家臣内の勢力争いに敗れた者達が一向宗側についています。
こうした家臣団の分裂をチャンスと見たのが三河守護家の吉良氏や荒川氏・桜井松平氏などの在地領主達でした。比較的新しく臣従した家臣で、臣従する際に家康に奪われた領地を回復させようと考えた吉良氏や、今川氏から独立して織田信長と手を結んだ家康を快く思っていない反家康の桜井松平氏など国衆達が一向一揆衆に加わって家康を討とうとしたのです。なお、この吉良氏達の動きは同じ家康がターゲットではあるものの、攻撃の時期や層方が連絡を取り合っていた様子がないことから一向一揆とは関係ないと考える説もあります。
三河一向一揆の始まった時期は正確には分かっておらず、6月とも9月とも言われています。一揆勢は本宗寺や三河三ヵ寺などに立てこもり、武将達もそれぞれの城に籠城しました。これに対し家康は上宮寺に鳥居氏、勝鬘寺に大久保氏、本證寺に藤井松平氏、西尾城に酒井正親を配置して対抗しています。
両陣営の間で小競り合いがあったようですが、ある程度時期が分かるものが、10月に家康方の松平家忠・松井忠次が吉良義昭の籠る(愛知県西尾市)を攻撃し、激戦の末城を落とした戦いです。こうした戦いが何度かあったと推察されますが、永禄6年中には一揆は収まりませんでした。とはいえ主君・家康自らが戦場に姿を現したことは、一揆勢に加担した武将たちの士気を下げることにつながりました。「主君に弓退く行為はできぬ!」と家康側に戻ってくる武将たちが続出し、家康の姿を見るやいなや逃げ出すものまで現れています。
三河一向一揆③上和田の戦い
三河一向一揆の中で最も激戦となったのが、永禄7年(1564年)1月に起きた上和田の戦いです。資料によりさまざまな日付や戦いの様子が記されているため事実関係ははっきりしませんが、大久保忠勝・忠世の守る上和田砦を本宗寺・勝鬘寺の一揆衆が襲撃し、戦いが起きたことは間違いのないようです。
18世紀に成立した『参州一向宗乱記』によれば、戦いでは忠勝・忠世はともに片眼を射られて負傷。砦が落ちそうになったとき、岡崎城(愛知県岡崎市)から家康が救援に駆けつけ持ち直すものの一揆勢を退けることはできず、戦いは3日間続きました。13日には大久保一党が一向一揆の拠点・勝鬘寺を攻めています。この際家康も出馬していますが、一揆勢に襲われて鉄砲に被弾。弾が甲冑の分厚い部分に当たったため家康にけがはなかったようですが、かなり危機一髪だったようです。家康は命からがら逃げ延び、満性寺(愛知県岡崎市)に転がり込みました。
そして1月15日、上宮寺の一揆勢が家康と戦っている隙に、本宗寺・勝鬘寺の一揆勢が家康不在の岡崎城を攻めようと画策。岡崎城近くの大平で戦闘が始まりました。それを聞いた家康は一揆の背後を遮断しようと伯父の水野信元と出陣します。一揆勢と馬頭原で大乱戦となりますが、激戦を制したのは家康サイドでした。翌16日には130人あまりの首実検が行われています。続く1月25日には松平家忠が夏目吉信のいる六栗城(愛知県額田郡幸田町)を攻めて陥落させました。
こうした乱戦が続く中、家康は部下たちの帰参を粘り強く説得し続け、一揆勢の切り崩しをはかり成功します。一方の一揆勢は、各寺の調子が揃わずバラバラのまま。同じ一向一揆勢と言っても坊主衆に武士、農民、門徒以外の反家康派の武将達までメンバーがさまざまだったことも一因だったようで、一説によれば武士と農民で派閥ができていたとのこと。家康のようなTOP的存在が不在だったことも拍車をかけていたようで、劣勢に立たされました。
三河一向一揆④一揆側に有利な条件で和睦
戦でも負け、離反者も出るなか、三河一向一揆勢は2月中頃、徳川家康に和議を提案します。『三河物語』によれば、一揆勢は条件として、一揆参加者の赦免、本多正信ら一揆の張本人の助命と「寺内を以前のようにしておく」、つまり寺内の不入権の継続、の3つを要求します。
家康としても三河統一のための戦いのさなか、これ以上は一揆に時間を割きたくはありません。一揆の張本人の助命などに不満を表す場面もありましたが、徳川家康は一揆側からの和議の条件を最終的に了承します。そして2月末には誓紙が取り返され、和議が成立したのです。こうして和議により、寺院は一揆前と同様に不入権を認められるようになったのです。この結果を見ると一揆側にかなり甘い裁定ですが…。
和睦の結果、一揆は解散。一向宗側についた家臣も、渡辺守綱や夏目吉信は降伏し帰参、蜂屋貞次は赦免され帰参しています。一方、本多正信や吉良氏、荒川氏など一部の武士は所領没収の上国外退去となっています。ちなみに本多正信はその後加賀国に居を移した後、大久保忠世のとりなしにより徳川家に帰参。家康が亡くなるまで重臣として仕えることになります。
三河一向一揆⑤「古だぬき」の片鱗を見せる家康の改宗命令
こうして平和的に一揆は解決したかと思いきや、一揆の張本人が国外退去した後、徳川家康は動きました。敵対する武士たちが減ったことをいいことに、寺院側に他派や他宗教への改宗を迫ったのです。起請文は何だったのか?と当然寺院側は反発しましたが、家康は「寺院は元のままに、つまり寺院がなかった原野の状態に戻すということ」と言い放ったと伝わっています。
すごい屁理屈ですが反抗しようにも戦力となる武士たちはおらず、残されたのは農民主体の門徒達。結局一向宗の寺院は多くが破却されてしまいました。そして一向宗は、三河国においては天正11年(1583年)まで、約20年間活動を禁じられてしまうことになります。
三河一向一揆後の徳川家康
三河一向一揆を平定した徳川家康。反対勢力を追いやったことで家臣団の結束は高まります。一揆に参加した家臣たちの本領安堵という甘めの政策は、彼らに恩を感じさせることになりました。その結果の1つが、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなり戦死した夏目吉信と言えるでしょう。また、追放した家臣たちの領地を得、年貢を一元的に徴収するシステムを導入して資金源を確保したことなどから物資はばっちり。こうして家康は再び東三河への侵攻を開始。三河一国を支配下に置き、さらに遠江へと攻略の手を伸ばしていくのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。