鳥取城の戦い史上最悪の籠城戦による「渇え殺し」
鳥取城の戦い
戦国時代、数々の籠城戦がおこなわれましたが、山陰地方で有名な籠城戦といえば、天正9年(1581年)に豊臣秀吉が鳥取城(現鳥取県鳥取市)を攻めた「鳥取城の渇え(かつえ)殺し」でしょう。備中高松城(岡山県岡山市)を攻めた「高松の水攻め」、三木城(兵庫県三木市)の「三木の干し殺し」と並び、豊臣秀吉の三大城攻めとして知られる鳥取城の戦いでは、鳥取城に立てこもった人々が人肉を食べるほど追い詰められたと伝わっています。今回はそんな鳥取城の戦いについて見ていきます。
鳥取城の戦いはなぜ起きた?~秀吉の中国攻め~
鳥取城の戦いは、豊臣秀吉の「中国攻め」の一環として起こった2度にわたる戦いで、特に2度目はまるで地獄絵図のような籠城戦が有名です。
天正5年(1577年)、織田信長は毛利氏の勢力範囲である中国地方を攻めます。信長と毛利氏は、毛利元就の時代は友好関係を保っていましたが、元就の後を継いだ毛利輝元の時代に関係が悪化します。その原因となったのが将軍・足利義昭です。
信長と敵対していた義昭は輝元が治める備後国鞆(広島県福山市)に押し掛け、輝元に庇護と幕府の復興を求めます。当初、輝元は信長との関係を悪化させ、中央の政権争いに巻き込まれるのはまっぴらだと義昭の庇護をしぶりましたが、結局受け入れました。当時は毛利氏の敵を信長が支援したり、信長が西に進出して毛利氏を脅かしつつあったりと、両家の仲はだんだんと悪化していましたが、この義昭の受け入れが両家の対立の決定的な原因になったのは言うまでもありません。輝元は第三次信長包囲網にも参加し、完全に信長と敵対します。元亀元年(1570年)から約10年続いた、石山本願寺勢VS信長勢の「石山合戦」の際には本願寺方につき、物資の補給などをおこなっています。
そして輝元率いる毛利氏は天正5年(1577年)、播磨国(兵庫県西南部)への侵攻を本格化。これに対し、信長は豊臣秀吉に中国攻めを命じます。実は秀吉はこの直前、上杉氏攻略のための手取川の戦いの際、柴田勝家と意見が対立したことで勝手に兵を下げてしまう軍紀違反を起こしています。手取川の戦いは信長軍の敗戦。これに激怒した信長は秀吉を責めましたが、その後秀吉が松永久秀討伐の際に手柄を立てたことにより、信長に許されていたのです。
こうして秀吉は中国攻めをスタート。播磨国や但馬国(兵庫県北部)を攻め、黒田官兵衛から譲り受けた姫路城を中国攻めの拠点にしました。その後、備前(岡山県南東部など)・美作(岡山県北東部)の宇喜多直家を服属させました。天正6年(1578年)から翌年にかけて発生した、摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の荒木村重による謀反で中国平定は一時中断されますが、その後も中国攻めを継続しています。
因幡国に侵攻、第一次鳥取城の戦い
さて、天正8年(1580年)、豊臣秀吉は因幡国(鳥取県東部)に侵攻します。そして6月、秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲しました。俗にいう「第一次鳥取城の戦い」で、このときも籠城戦が行われました。当時の城主は山名豊国。豊国は結局3ヶ月間籠城した後、徹底抗戦を主張する重臣の中村春続、森下道誉などを無視し、単身で秀吉の元を訪問して降伏し、織田信長に臣従を誓いました。
織田方についた山名豊国ですが、鳥取城に残った中村春続、森下道誉らの家臣は依然として毛利方のままで豊国を許しませんでした。このため家臣は豊国を追放。変わって城将として城将として毛利方の牛尾春重が入りました。その後は何人か城将が変わり、天正9年(1581年)5月、毛利方から城主として石見吉川氏当主・吉川経安の嫡男、吉川経家が派遣されることになりました。このとき経家は自らの首桶とともに城に入ったと伝わっており、その覚悟のほどが見て取れます。
ちなみにこのあたりの山名豊国の動きは諸説あり、実は信長に降伏したくなかったため、吉川元春と通じて応援を依頼した、という説や、吉川経家が来たときにもまだ城におり、織田方への内通に失敗した結果逃走したという説などがあります。なお、豊国はその後秀吉軍の一員として第二次鳥取城の戦いに参戦。関ヶ原の戦いでも生き延び、江戸時代まで命を長らえています。
第二次鳥取城の戦い①兵糧攻めを準備
但馬国や播磨国を平定した豊臣秀吉は、天正9年(1581年)6月、再び鳥取城攻めをスタートします。これが「第二次鳥取城の戦い」です。秀吉は鳥取城に対し、城の食糧を尽きさせる「兵糧攻め」を仕掛けました。そのために、城攻めの前に若狭国(福井県南部)から因幡国へと商船団を派遣し、鳥取城周辺の地の米を通常の数倍の値で買い占めました。さらに、鳥取城付近の農民ら2000以上を城に追いやり、城にいる人数を増やしました。これにより鳥取城は兵士約1500だったところ2000人以上の農民が流れ込み、約4000人の大所帯になりました。
鳥取城の吉川経家は籠城準備を進めようとします。鳥取城は標高263mの久松山上にある堅固な山城で、周辺は11月になれば大雪にみまわれ、行軍が難しくなります。冬前まで持ちこたえれば織田軍に負けることはない、そう考えたのです。さらに吉川元春の援軍にも期待が持てました。
ところが籠城の準備を始めようとすると、城内は多くの農民が逃げ込んできており、兵糧は近年の凶作に加えて秀吉の買い占めによりなかなか手に入れることができません。一説によれば、買い占めの際に鳥取城の備蓄米も売られていたそうで、城の備蓄は1月もつかどうかの状態…。結局経家は、少ない備蓄のまま籠城を始めざるを得ませんでした。
第二次鳥取城の戦い②3重の包囲網
6月25日、約2万(3万とも)の兵と共に姫路城を出発した秀吉は、7月12日には鳥取に到着。鳥取城の東側にある帝釈山に本陣を構えました。現在も「太閤ヶ平」として残っていますが、最大高さ5mにもなる土塁を堀で囲まれた郭が残り、かなりしっかりした土の陣城だったようです。
それもそのはず、実はこの第二次鳥取城の戦い、当初は織田信長も出陣する予定でした。ところが、信長は「毛利軍の援軍が来た場合に出陣する」と方針を転換します。そして毛利軍は、吉川元春が因幡に接する伯耆国(鳥取県中部・西部)東部に進出していたことから、「鳥取城が落ちたところで秀吉軍の侵攻を防げる」と考えていました。また、同じく因幡に接している美作国の宇喜多直家の軍勢を突破できなかったことなどもあり、結局毛利軍は因幡国に進軍しませんでした。このため、信長も出陣することなく終わっています。
近年の研究では、秀吉は鳥取城に3つの包囲網を敷いたとされています。1つ目が部下たちに命じて作らせた、総延長12kmにもなる鳥取城をぐるりと囲む包囲網。深さ最大8mの空堀を築き、約30あまりの陣城を構築し、城と城の間は堀や柵などでつなぎ、櫓を建てて常に周辺を監視し、毛利方の侵入を阻みました。
2つ目は毛利方の支城の攻略による、因幡国内の陸路・海路を封鎖するための包囲網です。吉川元春は海路で鳥取城の救援に乗り出そうとしていましたが、秀吉が鳥取城近くの賀露(かろ)の湊とそこに流れる千代川河口付近などを封鎖。このとき秀吉は毛利水軍との海戦の結果、勝利しています。さらに、毛利氏の拠点の1つだった丸山城も、このとき封鎖の被害にありました。丸山城は雁金山城経由で物資の補給を行っていましたが、この雁金山城を秀吉方の宮部継潤が潰し、補給路を絶ったのです。
3つ目は、秀吉が鳥取城の戦い以前に織田方に寝返っていた東伯耆の南条元続や備前・美作国の宇喜多直家による、中国地方の東半分に及ぶ一番外側の包囲網です。元続や直家は毛利軍の救援を妨害するなどの活躍を見せています。この3重の包囲網により毛利方の支援物資は鳥取城にたどり着くことができなかったのです。
秀吉の徹底的な兵糧攻めには、実は前日譚があります。天正6年(1578年)3月から天正8年(1580年)1月まで、秀吉が播磨国の三木城を攻めた三木合戦です。播磨国の武将の代表格である別所長治が信長に反旗を翻したこの戦の時、秀吉は兵糧攻めを実施しています。軍師・竹中半兵衛の策によるもので、「三木の千殺し」と呼ばれています。三木合戦は途中で荒木村重の謀反があり、軍師・黒田官兵衛が捉えられるなどのアクシデントもあり、戦は長期化。結局約2年間かけて戦は決着しました。このときの経験も踏まえ、秀吉は早期決着を目指し、万全の準備をして兵糧攻めに臨んだのです。
第二次鳥取城の戦い③「人肉喰らい」の悲劇
秀吉軍の兵糧攻めにより、籠城から2ヶ月目で食料はつき、軍馬を食べ、木の皮や草の根も食べ、それでも食糧がない状態になる鳥取城。ついに8月からは次々と餓死者が出始めます。『信長公記』によれば、人々は城の柵にしがみついて「ここから出してくれ!」と泣き叫びました。それを秀吉軍が鉄砲で打ち倒すと、まだ息があっても周りの人が小刀などで群がり、人の肉を切り取って食べる、いわゆる人肉喰らいまで行われたようです。
特に脳みそに滋養があると人気が高かったのだとか。想像するにかなり凄惨な光景で、当時の鳥取城内は地獄絵図のようなものだったのでしょう。このため、第二次鳥取城の戦いはのちに「鳥取城の渇え(かつえ)殺し」と呼ばれるようになります。
城主の吉川経家は、毛利氏に鳥取城を任されたという責任感と、人同士が喰らい合うまで進んだ飢餓との板挟みにあい、さぞかし悩んだことでしょう。そしてついに10月、経家は秀吉に降伏することを決意します。秀吉側は当初は経家の命を取るつもりはなかったのですが、経家は自らの命と引き換えに兵士や農民たちを助けるよう懇願し、自決しました。辞世の句は「辞世は「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの栖なるらん」。
経家が死の前に書いた5通の遺書のうち3通は現存しています。このうち吉川元春の三男・広家宛のものには「織田と毛利という2大勢力の間で戦い切腹することは大変名誉あること」という内容でした。部下に向けたものについては、籠城の苦労をねぎらうもの。そして子どもたちには読みやすいようにかな書きの遺書を残しており、それには皆を助けるために切腹すること、それにより吉川一門の名をあげることができた、その幸せな物語を聞いてほしい、と書かれています。
経家の人柄がよくわかる遺書で、秀吉が助命を申し出たのも頷けますね。なお、経家の首を見た秀吉は号泣したそうです。その後、首は秀吉を通じて安土城にいた織田信長の元に送られ、丁重に葬られました。こうして第二次鳥取城の戦いは終焉を迎えました。
第二次鳥取城の戦い④降伏後、生存者の多数が死亡
鳥取城が開城した後、生き残った人々はまるで餓鬼のようにやせ衰えた姿でした。秀吉は粥を彼らにふるまいましたが、その結果、生存者の過半数が死んでしまいます。これは現在で言うところの「リフィーディング症候群」のせいだと考えられています。リフィーディング症候群というのは、飢餓などで慢性的な栄養障害がある人に対し、急激に栄養補給を行うと起こる合併症です。
少し医学的な話になりますが、飢餓時、人の体はエネルギーを節約するため、細胞内のたんぱく質の合成や分解を遅くして代謝を抑えています。そうした状態で急に栄養(糖質など)が送られると、栄養を細胞内に取り込もうと体内で大量のインスリンが分泌されます。これによりリンやカリウム、マグネシウムといった電解質が細胞内に一度に取り込まれてしまい、血中の電解質が不足してしまうのです。特にリンが不足する低リン血症になると、酸素不足により心不全や呼吸不全、不整脈に意識障害などが起こり、最悪の場合は死んでしまいます。こうして鳥取城の生存者たちの多くは残念ながら死んでしまい、秀吉にとっては後味の悪い結果となってしまいました。
その後の鳥取城と秀吉
鳥取城の戦いの後、豊臣秀吉は鳥取城の城代として宮部継潤を据えました。後に継潤は鳥取城5万石の城主になり、九州平定や小田原征伐などで活躍しています。その後、秀吉は淡路国を支配下に置き、備中国では備中高松城で水攻めを実施。順調に中国攻略を続けていくかと思いきや、天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こります。信長の死を知った秀吉はすぐさま毛利輝元と和解して京都に帰還。「中国大返し」を成功させ、明智光秀を討ち、清洲会議を経て信長の後継者として勢力をさらに拡大していくことになるのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。