鳥取城鳥取県鳥取市

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鳥取城DATA
別称 久松城、久松山城
築城 1532年〜1555年
住所 鳥取県鳥取市東町1-220
鳥取城への交通アクセス
JR「鳥取」駅よりバス約7分。

HISTORY 「城郭の博物館」ともいわれる鳥取城

鳥取城は鳥取県鳥取市にある城です。幾度も改築を重ね、戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化が残っているため「城郭の博物館」という異名を持ちます。
また、羽柴秀吉が兵糧攻めをした城としても知られています。 そんな鳥取城の歴史を紐解いていきましょう。

戦国時代の鳥取城
鳥取城は、戦国時代中期にあたる天文年間、因幡の守護である山名誠通が建てた山城が最初、という説が長い間支持されてきました。 しかし、近年の研究によって因幡山名氏と対立する但馬山名氏の付城として建てられた可能性があることが分かってきました。 なお、鳥取城の最初の城主として正式に記録に残っているのは、因幡山名氏を裏切り毛利氏と手を結び、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させて下克上を果たした武田高信という人物です。 しかし、天正元年(1573年)に山中幸盛ら尼子残党と結んだ山名豊国に再び城を攻められ、高信は和議を結んで城を明け渡すも、謀殺されてしまいます。 鳥取城は再び因幡山名氏の居城になりますが、吉川元春や尼子残党に攻められて、城主がめまぐるしく変わりますが、天正3年(1575年)に山名豊数の弟である山名豊国が城主となって要約落ち着きました。
天正8年(1580年)織田信長の家臣であった羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めが始まり、山名豊国は3か月城内に籠城の末、降伏します。 しかし、同月に今度は盟約を結んだ毛利氏が鳥取城に来訪し、山名豊国は今度は毛利氏に降伏しました。 その結果、豊国は鳥取城主の座から降ろされ、鳥取城は毛利氏の重臣である吉川経家が城主の座に就きます。 天正9年(1581年)山名豊国は織田信長に密使を送りますが、それが毛利氏側に捉えられたことにより、山名豊国の織田氏への内通が毛利氏に知られることになります。 豊国はそのまま秀吉の元へ出奔しますが、残った山名氏の旧臣たちは毛利氏に相変わらず従っていたため、秀吉は二度目の鳥取城攻めを行います。 この際、秀吉が行ったのは、後の世に「鳥取の渇え殺し」とも呼ばれる凄惨な兵糧攻めです。 戦いが始まったのが7月、城主の吉川経家は11月まで持ちこたえれば、降雪により城攻めが困難になると考え、籠城戦を選択しますが、羽柴秀吉はそれを見越して鳥取城下で米を買い占め、外部の毛利勢から支援を受ける経路も潰していきます。 さらに、賀露の湊や千代川の河口付近にも秀吉は自軍を配置し、海上からの物資輸送も不可能にします。 その結果、籠城から3カ月を過ぎた10月下旬になると城内の食料はほぼ尽きて「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と「信長公記」に書かれるほどの酷い惨状となります。 城主の吉川経家はこの凄惨たる状況を見て、自決と引き換えに開城を決意します。 織田信長は吉川経家を助命して家臣に加えようとしますが、吉川経家の自決の意思は硬く、山名家の重臣である森下道誉と中村春続と共に自決しました。
こうして開城した鳥取城は織田信長に「堅固な名城」と褒め称えられ、浅井氏の旧臣で秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として入城します。 その後、宮部継潤は九州征伐でも功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となりました。
江戸時代の鳥取城
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、継潤の子の宮部長房は西軍に味方します。そして、関ヶ原の戦いの後で東軍の亀井茲矩らに激しく攻められて、開城しました。 その後、鳥取城は近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により、池田長吉に6万石と共に与えられます。 池田長吉は入城後、鳥取城を近世城郭に改修します。 そして、元和3年(1617年)、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府し、鳥取城を拡張し、城下町を調えました。 その後備前岡山藩の藩主であった池田氏と所領交換が行われます。 なお、この池田氏は池田光政の従兄弟に当たる池田光仲です。 そのまま池田氏が幕末まで鳥取城を治め続けました。
明治以降の鳥取城
明治6年(1837年)に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり第4軍管になります。
明治9年(1840年)に鳥取県が島根県に編入されると、順々に建物が取り壊され、最終的に中仕切門と扇御殿化粧の間を残して解体されてしまいました。
その後、1975年(昭和50年)に中仕切り門が大風で倒れてしまい(同年修復)、現在、往年の姿を残しているのは天守台、石垣のみです。 平成5年(1993年)、鳥取城正面入口に吉川経家の銅像が建立されます。
平成17年には「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備基本計画」が策定され、その一環として令和元年11月から令和3年3月にかけて大手門の復元工事が行われました。
令和3年3月より一般公開されています。
現在の鳥取城は鳥取の観光名所の1つになっており、特に天球丸と呼ばれる球型に積み上げられた巻石垣は一見の価値ありです。

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鳥取城の戦い史上最悪の籠城戦による「渇え殺し」
戦国時代、数々の籠城戦がおこなわれましたが、山陰地方で有名な籠城戦といえば、天正9年(1581年)に豊臣秀吉が鳥取城(現鳥取県鳥取市)を攻めた「鳥取城の渇え(かつえ)殺し」でしょう。備中高松城(岡山県

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吉川経家「哀れなる義士」と惜しまれた侍
戦国時代後期、織田信長は足利義昭を擁立し畿内を支配下に治めます。更に畿内の平定が一段落すると、畿内の外に目を向けました。中国地方は羽柴秀吉に攻略を命じます。毛利家の側に属していた鳥取城も攻略の対象とな

鳥取城を藩庁とする、鳥取藩の歴史

鳥取藩3つの池田家が治める
鳥取藩は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)を治めた大藩です。石高は32万5千石と高く、江戸時代を通じて池田氏が治め続けていました。 なお、この池田氏は3つの家があり、江戸時代初期は同じ池田氏の間で領地交
鳥取藩DATA
藩庁 鳥取城
旧地域 因幡国邑美郡
石高 32万5000石
譜代・外様 外様
主な藩主 池田家

鳥取城、「鳥取の渇え殺し」の舞台となった「城郭の博物館」

鳥取県鳥取市にある鳥取城は、豊臣秀吉による兵糧攻め「鳥取の渇(かつ)え殺し」の舞台になったことで知られる城です。久松山を中心とする山城と山麓の平山城に分かれ、戦国時代から近近世までの多様な城の姿が残ることから「城郭の博物館」と呼ばれています。日本百名城にも選ばれました。

鳥取城
鳥取城の歴史
鳥取城は16世紀中ごろ、守護大名の山名氏一族の争いのなかで建てられました。元は因幡山名氏の城だったとも、対立する但馬山名氏の付城だったとも言われています。鳥取城のある久松山は、堅固な防御性と山頂からの優れた眺めから「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と絶賛されており、織田信長も「名城」と評価しました。
元正元年(1573年)、山名氏の争いのなか、鳥取城の城主に毛利氏の援助を受けた山名豊国が就任しました。天正8年(1580年)に豊国は羽柴秀吉に攻められ、単身で秀吉の陣中を訪れて降伏。このため鳥取城には毛利方から吉川経家が送り込まれ、城主になりました。
天正9年(1581年)、秀吉と豊国は鳥取城攻めを実施。籠城する経家に対し、秀吉は12万の大軍で城を取り囲んで約3ヶ月に渡る厳しい兵糧攻めをおこないました。
秀吉軍は城を取り囲む包囲網を築いたほか、周囲の毛利方の支城を攻略し、毛利方による海路での救援を阻みました。さらに織田方に寝返った宇喜多直家らが毛利軍を攻めて救援を妨害しました。
このとき鳥取城内には兵士たちに加え、秀吉に村を襲われて逃げてきた2000人以上の領民が籠城していました。補給路を断たれた人々は草木や牛馬まで食べつくした挙句、死肉を食べるほどの飢えに苦しんで次々と餓死していきます。その凄惨な地獄絵図のような光景は「鳥取の渇え殺し」の名とともに今も語り継がれています。
鳥取城の戦いは結局、吉川経家が自らの命と引き換えに兵士や農民たちを助けるよう懇願し、自決したことで集結。城は開城しました。その後、豊臣秀吉は鳥取城の城代として宮部継潤を据えました。後に継潤は鳥取城5万石の城主になり、九州平定や小田原征伐などで活躍しています。
その後、秀吉は側近の宮部継潤に城を任せます。継潤は鳥取城の大規模改修を実施し、石垣や天守を築きます。死後、その跡を継いだ宮部長房は慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで西軍方についたため、鳥取城は東軍に攻められて開城。戦後は長房に代わり、池田長吉が6万石で西国大名の抑えとして鳥取城に入り、再び城を改修します。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、元和3年(1617年)に池田光政が因幡・伯耆32万5000石で入り、鳥取藩が誕生。この時光政は鳥取城の規模を拡張し、山麓に平城を整備して政庁としました。
寛永9年(1632年)には光政は国替えを命じられます。相手は父・池田忠雄の死により、わずか3歳で家督を継いだ池田光仲で、幼少のために山陽道の要所・岡山を治めるのは難しいと判断されたのです。その後、鳥取藩は光仲を藩祖とする鳥取池田家12代が明治維新まで治めました。
明治維新後は廃城令により廃城となり、その後は陸軍省の所管となり建物は再利用されました。しかし、明治12年(1879年)にはほぼすべてが解体されています。大正12年(1923年)には久松公園として整備されますが、昭和18年(1943年)の鳥取大地震によって大きな被害を受けました。唯一現存していた中仕切門は昭和50年(1975年)に倒壊しましたが、同年秋に木造復元されています。
平成24年(2012年)には巻石垣が復元され、令和3年(2021年)3月には大手門が木造復元されました。現在も建物や登城路の復元整備が進んでいます。
鳥取城の見どころ①天球丸の巻石垣
鳥取城では全国唯一の球状の「巻石垣」が見学できます。横幅約12m・高さ約5.5mで、背後の石垣の崩落を防ぐため、文化4年(1807年)頃に築き足されました。球状の薪石垣が城郭に使われたのが確認されているのは鳥取城のみという、貴重な石垣です。
鳥取城の見どころ1 鳥取城の見どころ2 鳥取城の見どころ3
鳥取城の見どころ②山麓の山下ノ丸
比較的見学しやすく、見どころが詰まっているのが山麓の山下ノ丸です。天球丸、二の丸、三の丸などから構成され、江戸時代以降の近世城郭の姿を今にとどめます。
山頂の天守が燃えたのちに天守の代わりとして位置付けられた二の丸の御三階櫓の石垣や、復元された西坂下御門等もこの区画にあります。復元された正面玄関にあたる擬宝珠橋とその先の中ノ御門は当時の姿を偲ばせます。
石切場や嘉永2年(1849年)に作られた二の丸の登石垣、宮部時代の石垣、石切り場など、石垣好きにとって見どころも多いですよ。
鳥取城の見どころ4 鳥取城の見どころ5 鳥取城の見どころ6
鳥取城の見どころ③山城の山上ノ丸
鳥取城の山城部分にあたる「山上ノ丸」は、戦国時代から江戸時代初めの城郭の姿を今に伝えています。訪問する際は山登りに適した服装がおすすめで、山頂の天守跡までは天球丸の登山口から片道約40分です。本丸からは鳥取平野や鳥取砂丘、日本海に遠く大山まで望めます。
このほか、本丸跡には天守台が残っています。一辺が約20mで鳥取城の櫓台としては最大規模です。
鳥取城のおすすめフォトスポット
山上ノ丸からの絶景はぜひ撮影したいところ。「日本にかくれなき名山」の姿が実感できます。擬宝珠橋と中ノ御門と久松山を水堀越しに撮影する構図は城らしさが味わえます。コロンと丸い巻石垣も忘れずに撮影したいところです。
鳥取城の見どころ7 鳥取城の見どころ8 鳥取城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。