沖田畷の戦い龍造寺隆信vs有馬晴信・島津家久
沖田畷の戦い
天正12年(1584年)3月24日、島原半島で龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍が戦ったのが、肥前島原半島(現長崎県)で起きた「沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)」です。有馬・島津連合軍が大軍の龍造寺軍を破って大勝利をおさめたこの戦いにより、龍造寺氏の実質的なトップだった龍造寺隆信は討ち死に。その結果、龍造寺氏は衰退していくことになります。たった1日の戦がその先の九州の歴史に大きな影響を与えたのです。今回はそんな沖田畷の戦いについて分かりやすく解説します。
沖田畷の戦い前夜の九州
戦国時代の九州では大名たちの覇権争いが続いていましたが、年号が元亀から天正に変わる1573年頃には九州北東部や豊後(大分県中南部)を大友氏が、九州北西部や肥前(佐賀県)を龍造寺氏が、南九州や薩摩(鹿児島県)を島津氏が治める三国時代が訪れていました。
その後、天正6年(1578年)に日向国高城川原(宮崎県木城町)に起きた「耳川の戦い」で島津氏が大友氏を破り、大友氏は弱体化。大友氏当主の大友宗麟は何とか生き残りましたが、大きく力を削がれました。このため、九州では力をつけた島津氏と、耳川の戦いのどさくさに紛れて大友氏の領土を得た龍造寺氏の2台巨頭が争いを繰り広げていくことになります。
沖田畷の戦いのキーパーソン・龍造寺隆信
沖田畷の戦い当時、島津氏は島津義久が義弘・歳久・家久の3名の弟と協力して国を治めていました。一方、龍造寺氏は龍造寺政家が当主を務めていましたが、その父で「肥前の熊」の異名を持ち、九州三強の一人として知られる龍造寺隆信が実権を握っていました。
龍造寺隆信は肥前国を統一し、龍造寺氏を一大勢力にのし上げた英雄的人物でしたが、同時に猜疑心が強く狡猾で冷酷な人物だったと伝わっています。家臣からの人望もあまりなかったようで、家督をついだころには家臣の反乱にあって国を追われたことがあるほどです。
そんな龍造寺隆信でしたが、天正9年(1581年)に嫡男の龍造寺政家に跡を譲って隠居します。しかし、実権はあいかわらず隆信が握り続けました。隠居後は酒や女に溺れるようになり、肥満体になるとともに暴君としての性格が強く出るようになってきました。
そんななか、天正9年、筑後国(福岡県南部)の蒲池鎮漣が島津氏に内通していたことが発覚します。蒲池氏は龍造寺隆信が家を追われた際に世話になり、何度も助けられた忠臣でしたが、隆信は許しません。鎮漣を和解のためにと言って肥前国に呼び寄せてだまし討ちにし、蒲池氏の本拠地・柳川城に向かって出陣し、一族を皆殺しにしました。隆信のこの行動には部下たちは反発し、出陣しなかった部下まで現れています。さらに天正11年(1583年)には、部下の赤星統家が命令に背いたとし、人質として預かっていた統家の息子と娘を殺害。これに怒った統家は龍造寺氏を見限って島津氏につきます。このように隆信の行動に不信感を抱き、龍造寺氏を離反する者が徐々に出てきました。
沖田畷の戦い①有馬晴信の裏切り
沖田畷の戦いのきっかけとなったのが、天正12年(1584年)3月に島原の領主・有馬晴信が龍造寺氏を離反したことです。キリシタン大名として有名な晴信ですが、当初はキリスト教とは敵対的な立場にいました。しかし天正8年(1580年)にキリスト教に改宗。イエズス会からの支援を得て軍事力をつけていきます。沖田畷の戦い直前までは龍造寺氏に臣従していましたが、島津氏に鞍替えしたのです。
有馬晴信の姉(もしくは妹)は龍造寺隆信の嫡男・政家、つまり名目上の現龍造寺家当主に嫁いでおり、両家は親族関係にありました。にもかかわらず晴信は龍造寺氏と肥後(熊本県)を巡って争っている島津氏につこうと考えたのです。理由ははっきりしませんが、龍造寺隆信の非道な行いも理由の1つだったかもしれません。なお、有馬氏の縁戚の安富純冶、純泰父子は龍造寺氏に従い続けたので、晴信は親子のいる深江城(長崎県南島原市)を攻め、島津氏もこれに協力しました。
有馬晴信の離反に激怒した龍造寺隆信は、龍造寺政家に有馬氏討伐を命じます。ところが妻の出身氏族を攻めるのが嫌だったのか、政家は消極的。このため隆信は政家に留守を任せ、自ら有馬氏討伐に2万5000(諸説あり)の大軍を率いて出陣することを決意します。隆信の右腕的存在の軍師・鍋島直茂をはじめ、周囲からは有馬攻めを止める声もありましたが、隆信は聞き入れませんでした。
沖田畷の戦い②有馬晴信、島津氏に救援要請
龍造寺氏が大軍を率いてきたのに慌てた有馬晴信は、島津軍に援軍を要請します。ところが、島津軍は龍造寺軍と肥後を巡って争っている最中で、島原に援軍を出すことは難しい状況でした。さらに筑前(福岡県)には勢力が衰えたとはいえ大友宗麟の軍勢がおり、肥後をめがけて南下してくる可能性があります。
とはいえ島原を見捨てるわけにもいきません。頼ってきた有馬晴信を見捨てることは、他の国人や部下たちの離反を招きかねないからです。さらに敵将は龍造寺隆信。このため、島津義久は末弟の島津家久を約3000(※諸説あり)の部下たちと共に島原に送ります。「武勇は鬼神の如し」と言われた新納忠元や伊集院忠棟、川上忠智など優れた精鋭たちも同行しました。
島津家久は祖父の島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていた人物。彼の活躍が、沖田畷の戦いの勝敗を分けることになるのです。
沖田畷の戦い③島津家久の「釣り野伏」作戦
3月22日、島津家久率いる島津軍は、龍造寺軍に先んじて有馬晴信のいる日野江城(長崎県南島原市)に到着します。その後開かれた軍議では、龍造寺軍の兵の多さから、持久戦に持ち込んで島津軍本隊の援軍を待つ作戦が提案されました。連合軍は合わせて約5000~6000程度。兵力的な不利さから考えると当然のことで、島津軍としても当初はそのつもりで家久を派遣したのでしょう。ところが家久は積極的に打って出ることで、龍造寺軍に打撃を与えようという強気な作戦を提案します。
作戦のポイントは島原の北にある「沖田畷」(長崎県島原市)に陣を構えて龍造寺軍を迎え撃つこと。この「畷(なわて)」というのは田んぼと田んぼの間にある狭い道のことです。当時の沖田畷は東に浜道、西に前山がある海と山に囲まれた湿地帯で、中央部は胸までつかるほどの深い湿地と田が広がっていました。湿地帯には2、3人程度が横並びにぎりぎり通れる細い一本道があるだけ。この場所で迎え撃てば、大軍の力を削ぐことができます。そして龍造寺軍を湿地帯まで引き込んだところで、左右から別動隊が龍造寺軍を攻める。いわゆる「釣り野伏」の作戦です。
釣り野伏は島津氏のお家芸として知られる包囲作戦で、部隊を左・中央・右の3つにわけ、中央の部隊が囮として正面から敵と戦い、負けたふりをして後退。釣られて追撃してきた敵を左右の伏兵、つまり「野伏」が攻撃し、囮の軍も反転して包囲殲滅するというものです。敵よりも少ない兵力で戦うのには適した作戦でした。
これに賛同した武将たちにより、作戦は実施されることに。有馬・島津連合軍は森岳城(島原城、長崎県島原市)を本陣に置き、城の防備を固めるとともに、畷をふさぐように横に大きく大木戸や堀を設置し、龍造寺軍を迎え撃つ準備を進めました。海岸線の浜手には伊集院忠棟たち約1000の兵を配置し、新納忠元ら1000は山裾に隠れました。大木戸には龍造寺隆信に子供を殺された恨みを持つ赤星統家ら50人を置き、家久軍は森岳城の背後に控えました。
一方の龍造寺軍は、鍋島直茂が島津氏の援軍を察知し、龍造寺隆信に警戒するようと進言していましたが、2万5000の大軍を率いている隆信は耳を貸すことがありませんでした。軍事的優位に立っていたことなどから、油断が生じていたようです。慎重派な直茂は長期戦に持ち込み、島津軍が撤退した後に有馬氏を攻め滅ぼすように提案していましたが、隆信が聞き入れることはありませんでした。この進言を無視したことが、隆信の敗退につながります。
沖田畷の戦い④龍造寺隆信が討ち死に
そしていよいよ3月24日、沖田畷の戦いが始まります。寺中城(三会城、長崎県島原市)を出発した龍造寺軍は未明に沖田畷に進軍。森岳城を攻める龍造寺隆信率いる本隊、山手を攻める鍋島直茂軍、浜手を攻める江上家種・後藤家信(隆信の息子達)らの3つに軍を分けて進みます。偵察により大木戸に寡兵しかいないことを確認した龍造寺隆信はさぞかし油断したことでしょう。そのまま本隊の先陣に大木戸を攻めさせました。
大木戸の前方にいた兵たちは龍造寺軍の先陣を見て、作戦通り退却。調子に乗って追撃した龍造寺軍は徐々に湿地のなかで身動きがとれなくなります。そこを鉄砲で叩く有馬・島津連合軍。先陣は崩壊し、先陣を救うために向かう第2陣も狭い一本道をなかなかうまく進めず苦戦します。
第2陣がなかなか前進しないことを気にかけた龍造寺隆信は前線の状況を確認するため、使者として吉田清内を派遣します。ところがこの清内、隆信が命じてもいないのに前線の武将達に「命を惜しまずどんどん攻撃せよ」と触れ回ってしまうのです。前線の危機的状況を見ての勝手な判断だったの、隆信の怒りを恐れてのことだったのか、理由はよくわかっていませんが、これを聞いた龍造寺軍の武士たちはいきり立ち、前進しようと湿地帯を突き進みます。そして身動きが取れなくなって有馬・島津連合軍に次々と討ち取られてしまいました。これを見た島津家久は全軍突撃を命令。戦いは銃撃戦から刀を使った白兵戦へと変化し、かなりの激戦が繰り広げられました。
一方、浜手を進んでいた江上家種・後藤家信たちは、天草伊豆守の軍船からの砲撃にたじたじ。軍船はキリシタン大名の有馬晴信のコネをフル活用したもので、軍船には半筒砲が二門積み込まれており、アフリカのカフル人やインドのマラバル人が砲撃に参加するという国際色豊かなチームでした。この砲撃で江上家種・後藤家信は前進できず、結局敗走してしまいます。さらに連合軍は有馬軍の主力と伊集院忠棟らで浜手から本陣を攻撃。浜手周辺は敵味方入り混じっての大混戦が起こりました。なお、山手を攻めていた鍋島直茂軍は島津軍の伏兵たちと戦った結果、敗退しています。
激しい戦いが続く中、徐々に劣勢となっていく龍造寺軍。これを見た龍造寺隆信は自ら前線で指揮を取ることで戦いを勝利に導こうとします。今までの戦の経験を踏まえての策だったのでしょうが、この場合は愚策でした。島津家久の家臣・川上忠堅らの隊が、小高い場所で床机に腰掛けて戦を指揮している隆信を見つけてしまったのです。隆信は忠堅に切りかかられ、首を落とされてしまいました。享年56歳。当時隆信は太っており、移動の際は6人が担ぐ駕籠に乗っていました。このため急な攻撃に対応できなかったようです。
こうして沖田畷の戦いは島津家久の作戦がピタリとはまり、有馬・島津連合軍の勝利に終わりました。龍造寺軍は本拠地の佐賀城(佐賀県佐賀市)まで退却。鍋島直茂や江上家種などは何とか逃げ延びましたが、重臣達を多数失ったことで龍造寺氏は弱体化しました。
沖田畷の戦い⑤受け取りを拒否された隆信の首
沖田畷の戦いで首を落とされた龍造寺隆信ですが、その首はどうなったのでしょうか。首は島津家久から島津義久の元に送られた後、龍造寺氏に返される予定でした。ところが龍造寺氏は受け取りを拒否。しかも拒否したのは隆信の母・慶誾でした。この慶誾は隆信の後ろ盾的存在で、鍋島直茂を龍造寺氏に引き入れたのもこの人物。なぜ受け取りを拒否したのかは謎ですが、首は願行寺(熊本県玉名市)に埋葬されることになりました。
ちなみに、首の受け取りを拒否したのは鍋島直茂だったという説もあり、弔い合戦もしない状態で先の主君の首を受け取るのは道義に反するという理由で拒絶したとされています。なお、胴体の方は龍泰寺(佐賀市赤松町)に葬られましたが、墓はその後、別の寺に移転しています。
沖田畷の戦い後の龍造寺・有馬・島津氏
沖田畷の戦い後、龍造寺氏は従属していた国人たちが島津氏に寝返るなか、龍造寺隆信の息子・政家が祖母の慶誾とともになんとか国政を担います。島津対策として鍋島直茂を養子として迎え、勢力の立て直しを図りました。龍造寺氏は島津氏とも講和を果たしますが、豊臣秀吉と接近し、九州征伐の際は島津氏を攻めています。その後、龍造寺政家の息子・高房が家督を相続しますが、実権は直茂が握ることに。最終的には主家である龍造寺家から直茂が家督を引き継ぎ、佐賀藩は鍋島氏のものになりました。
有馬氏は九州征伐の際は豊臣方につき、関ヶ原の戦いでは東軍につくといったように、うまく情勢を見極めながら存続。有馬晴信はキリスト教徒が関わった詐欺事件「岡本大八事件」で切腹に追い込まれますが、息子の有馬直純は肥前日野江藩(のちの島原藩、長崎県島原周辺)の藩主となった後、日向国県藩(延岡藩、宮崎県延岡地方)に転封されています。
一方、島津氏は沖田畷の戦いにより勢力範囲を筑前・筑後(福岡県)まで拡大。九州統一に向けて進みますが、あと一歩のところで豊臣秀吉の九州征伐に敗れます。とはいえ薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵されました。その後、関ヶ原の戦いでは島津義弘が西軍につきますが、敗退の際の前進退却は「島津の退き口」として爪痕を残し、関ヶ原の戦い後も存続を許され、一族で薩摩藩を治めていくことになるのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。