信貴山城の戦い梟雄・松永久秀の最期
信貴山城の戦い
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戦国時代の「三大梟雄」として有名な武将の一人が松永久秀です。その久秀が織田信長に謀反を起こし、壮絶な死を遂げた戦いが、天正5年(1577年)10月に起こった「信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)」でした。信長が欲した茶釜「平蜘蛛」とともに爆死したという話が広く知られている久秀ですが、実際はどんな最期だったのでしょうか?今回は久秀にまつわる誤解の数々と信貴山城の戦いの結末について、詳しく見ていきます。
「通説」は嘘ばかり?史実の松永久秀とは
松永久秀は永正5年(1508年)生まれ。出身については諸説ありはっきりとはわかっていませんが、身分は低かったようです。京都など畿内を中心に「三好政権」を確立していた三好長慶に祐筆として仕えはじめたのち、室町幕府や公家、寺社との交渉役を担当するりょうになり、どんどん出世してきます。三好家の中核的存在まで上り詰めた後に織田信長仕え、本拠地である大和国(奈良県)の支配を認められました。野心家のイメージが強い久秀ですが、外交官的な役割を果たせるレベルの知識を持った文化人としての側面もあり、茶人としても有名でした。
久秀は「三つの悪事を行った」ことでも知られています。これは江戸時代中期に書かれた軍談書『常山紀談』のエピソードがもとになっているようです。本には織田信長が徳川家康に久秀を紹介する際、「この老人は世の人が為しがたいことを3つもやってのけた」と説明。信長は「将軍足利義輝の暗殺」「三好家の乗っ取り(主君殺し)」「東大寺大仏殿の焼き討ち」を挙げ、これを聞いた久秀は汗を流しながら赤面したそうです。
それでは三つの悪事について一つずつ見ていきましょう。まずは「三好家の乗っ取り」。久秀が長慶に仕えている時、長慶の弟の十河一存、三好実休と、嫡男の三好義興が相次いで死亡しました。三好実休は戦死し、十河一存と三好義興は病没とされていますが、実は久秀による毒殺だったのではという説があり、それが拡大解釈されたようです。なお、この相次ぐ不幸が長慶に与えたダメージは大きく、徐々に心を病み体調を崩すように。そして病に倒れてこの世を去ってしまいます。
二つ目は将軍・足利義輝の弑逆への関与です。永楽8年(1565年)、久秀の息子・松永久通と長慶の後を継いだ三好義継、三好三人衆が軍を率い、将軍を襲撃して殺害しました。この「永禄の変」と呼ばれる事件の黒幕が久秀と言われています。なお、久秀も軍を率いていたと誤解されがちですが、実際は大和国にいて参加していません。この黒幕説が松永久秀=陰で暗躍する悪役、というイメージを創りだしたようです。
将軍殺害後、久秀は三好三人衆と政治的な対立を深めていきます。三好義継を担ぎ上げ、協力関係にあった筒井順慶と協力して久秀方の城を攻める三好三人衆。久秀は窮地に陥りますが、そのとき三好三人衆に軽んじられ続けた義継が久秀側に寝返ります。主君が久秀についたことに対してあせる三好三人衆。一方、久秀は「主君の仇討ち」という大義名分を得たのです。
その後、三好三人衆は大和国まで攻め入ります。永禄10年(1567年)4月、東大寺付近で両軍は激突。半年間にわたる戦いは「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれており、この戦いの際、久秀は陣地として活用できそうな東大寺周辺の寺院を焼き払っています。そして10月10日、三好三人衆の本陣のある東大寺を奇襲し、その際に大仏の頭部が焼失したほか、伽藍も燃えてなくなりました。この大仏殿の焼失が三つ目の悪行とされていますが、火事は三好三人衆側の失火によるものという説や、戦の最中の過失で火事が起き、大仏殿が燃えてしまったという説もあり、真相は明らかになっていません。三つの悪行についてはいずれも物語的には面白いですが信ぴょう性の低いものだったといえるでしょう。
松永久秀、織田信長に接近
さて、その後の松永久秀ですが、東大寺大仏殿の戦いで、三好三人衆と筒井順慶を何とか退けたものの、大和国を中心に争いは依然として続いており、しかも久秀側が苦戦していました。永禄11年(1568年)6月には久秀の本拠地である信貴山城(奈良県生駒郡平郡町)が攻め落とされています。
こうした中で久秀がとった策は、織田信長の力を利用することでした。久秀は永禄9年(1566年)ころから信長と連絡を取り合っており、永禄11年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛する際に協力しています。そして上洛に成功した信長のもとにかけつけ、茶道具の名物として有名な茶入れ「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を信長に献上。戦国時代、茶道具の名品収集は武将たちの間で流行しており、富と権力を表す一種のステータスでした。有名な茶入れを献上したこともあり、久秀は大和国の支配を認められています。
その後、信長は三好三人衆を駆逐して畿内を平定。久秀は信長の助けを得て大和国を取り戻し、信長の下で活躍することになります。元亀元年(1570年)に信長が朝倉義景を攻めた際、信長は浅井長政に裏切られて窮地に陥ります。この時の「金ヶ崎の戦い」で久秀は朽木元網を説得し、信長が京に戻るのを手助けしました。
「信長を2度裏切った」男
織田信長の下で活躍する松永久秀でしたが、その野心は途切れることはなく、なんと信長を2回も裏切っています。1回目は信長が将軍・足利義昭と対立を深めていった際のこと。義昭は信長を排除しようと、各地の武将に信長を討つ、つまり「信長包囲網」の一員となるよう呼びかけており、各武将がこれに応えあちこちで戦が発生しました。このうち第2次包囲網に応えたのが武田信玄や三好三人衆、浅井氏、朝倉氏に石山本願寺など。そのなかに久秀と松永久通の姿がありました。
元亀3年(1572年)、信玄が西上作戦をスタート。上洛を前提にしていたとも、信長を倒すためとも言われているこの作戦で、信玄は信長と徳川家康を攻めます。こうした動きを受け、久秀も三好三人衆と手を組み、信長に反旗を翻します。長年敵対していた相手ですが、信長という強敵に対し手を結ぶことにしたのでしょう。しかし翌年4月に信玄は病死。足利義昭も挙兵するも信長に敗退し、義昭の妹婿にあたる三好義継のところに追放されてしまいます。信長包囲網は一気に崩れさりました。
ところが懲りない義昭は再び信長の討伐を大名に向かって呼びかけます。このため信長は三好家を攻め、天正元年(1573年)11月、若江城の戦いで義継は自害し三好本家は滅びました。久秀は義継とともに挙兵していましたが、12月に信長の降伏勧告を受け入れる形で多聞城を無血開城。翌年岐阜の信長のもとを訪れ、信長に名物を大量にプレゼントして助命嘆願しています。その成果か、それとも信長が久秀を高く評価していたからかは分かりませんが、久秀は許されました。ただし、大和国の大半と多聞城は信長が没収。さらに孫を人質として差し出すはめになりました。その後、天正2年(1574)に久秀は出家して「道意」と名乗るとともに隠居。久道が後を継いで信長に出仕しました。
本願寺攻めの途中に2度目の裏切り
再び松永久秀が表舞台に現れたのが天正4年(1576年)のこと。織田軍の石山本願寺攻めに参戦したのです。久秀は松永久通とともに大坂の天王寺砦(大阪府大阪市天王寺区)の守備を担当していましたが、天正5年(1577年)8月、突如戦から兵を引き上げるとともに信貴山城に立てこもってしまいます。驚いた織田信長は久秀と親しかった側近の松井友閑を久秀のもとに使者として派遣し、「謀反の理由があるなら教えてほしい。望みがあるなら聞き入れる」と伝えます。
久秀の2度目の裏切りにもかかわらず信長が下手に出ているという異例の事態が起きていますが、当時は第3次信長包囲網の真っ最中。石山本願寺、上杉謙信、毛利輝元、武田勝頼などが包囲網に参加し信長を苦しめていました。信長が石山本願寺と戦い続けるなか、北では上杉謙信が能登国(石川県)を平定しようと信長方の七尾城を攻めています。信長は七尾城を救援するため、柴田勝家を大将に豊臣秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政などを北陸に派遣していました。そんな敵が一斉に攻めてきている状態の中で久秀が裏切ったわけですから、信長としてはさらに面倒なことにならないよう、謀反を何とか防ぎたかったのかもしれません。
また、この時信長は今回の裏切りを許す代わりに名物の茶釜「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を差し出すように久秀に迫ったという話もあります。古天明平蜘蛛は信長が執心した名物で、幾度か久秀に譲ってほしいと願っていたものです。ところがこれらを久秀は無視し、交渉は決裂。信長は人質を処刑するとともに久秀を討ち取ることを決意します。信貴山城の戦いの始まりです。
信長は松永久秀を攻めるための先発隊として筒井順慶や明智光秀、細川藤孝を派遣します。10月1日には先発隊が信貴山城の支城となっていた片岡城(奈良県北葛城郡上牧町)を約5000の兵で攻めました。これに対して松永軍は海老名友清、森正友らが1000の兵で城を守っていましたが、あえなく落城。戦いは激戦だったようで、松永軍は友清・正友を含む150名が討ち死しています。
松永久秀はなぜ信長を裏切ったのか
なぜ松永久秀はこのタイミングで織田信長を裏切ったのか。その理由の1つが、久秀が治めていた大和国にあります。久秀の支配を離れた後、大和守護は塙直政を経て筒井順慶が就任しました。順慶は久秀にとって大和国の支配権を長らく争っていた宿敵です。しかも、久秀の自信作である名城・多聞山城は順慶により破却させられてしまう始末。多聞山城といえば4層の櫓を持った豪華絢爛な城として有名で、信長が安土城を築城する際に参考にしたともいわれています。そんな城を宿敵に壊されてしまい、久秀はさぞ悔しかったことでしょう。
タイミング的には石山本願寺と上杉謙信が信長と戦っている真っ最中。柴田勝家ら織田軍の主力部隊は謙信を抑えるために北陸に出陣中。さらに毛利輝元が本願寺をサポートしており、7月の第一次木津川口の戦いでは毛利水軍が織田水軍を破り、織田軍の包囲網のなかにあった本願寺に兵糧や物資を運び込むことに成功したばかりでした。信長を裏切るなら今!といったところだったのでしょうか。
ところが、謙信は北条氏政の関東出陣などの影響からか10月には進軍をストップ。これを見た信長は北陸軍から織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹波長秀などを呼び戻して信貴山城攻めに加えます。これにより織田軍は4万にまで膨れ上がりました。
裏切り者に負けた信貴山城の戦い
そして10月5日、いよいよ信貴山城での戦いの始まりです。織田軍は4万の兵で信貴山城を攻めますが、松永久秀率いる8000の兵たちの必死の抵抗により攻め切れません。しかし、久秀が窮地にあることは変わりませんでした。そこで久秀は石山本願寺の顕如に援軍を要請しようと森好久を石山本願寺に派遣しました。
10月8日、好久は鉄砲隊200を引き連れて城に無事に帰還。さらに援軍が来るとの報を聞き、久秀はこれで勝機が見えたと大喜びしましたが、実は好久、もとは織田方の筒井順慶の家臣でした。彼は信貴山城を出発した後、本願寺に行かずに順慶の家臣である松倉重信のもとに行き、信貴山城の情報をリークしていたのです。そう、好久は裏切り者だったのです!城に連れて戻った鉄砲隊は重信の兵士、つまり敵兵でした。
10月9日夜から織田軍と松永軍は再び戦闘は開始します。筒井順慶は先頭に立って松永軍を攻めたてました。織田軍は一時撃退されかけて撤退した場面もありましたが、好久が寝返り鉄砲を活用して城内に火を放ったことで松永軍は大混乱に陥ります。そのすきを逃さず攻める織田軍。結局松永軍は総崩れになり、久秀は10月10日に久通と自害します。享年68歳でした。なお、偶然にもその日は東大寺大仏殿の戦いで大仏殿に火がかけられた日だったことなどから、当時の人々は神罰(神仏習合のため)だと噂したと『信長公記』に記されています。
「平蜘蛛ごと爆死」は嘘だった!?
松永久秀の死についてよく知られている通説というのが、名物・古天明平蜘蛛とともに爆死した、というもの。久秀は「日本史上初の爆死した大名」として有名になっていますが、実はこれは後世の創作です。当時の人々の日記によれば、実際は切腹・または自身の放火により焼死したようで、安土城にはその焼け焦げた首が送られています。平蜘蛛については『信長公記』によれば死ぬ際に打ち砕いたようです。
爆死はどうやら江戸初期の『川角太閤記』に、「久秀の首は平蜘蛛と同じように、鉄砲の火薬でみじんに砕けた」とある逸話が徐々に拡大解釈されていったようです。研究者によると爆死説は第2次世界大戦後発生した比較的新しい説とのこと。先に述べた三つの悪事や爆死説から三大梟雄の1人として腹黒い極悪人のような存在で描かれることが多い久秀ですが、近年の研究では評価が見直されてきています。「新しい」久秀が物語や小説で普通に描かれるようになるのも遠い話ではないのかもしれませんね。
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- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。