忍城の戦い豊臣軍の猛攻を耐え抜いた「浮き城」
忍城の戦い
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条家を攻めた「小田原征伐」。小田原城の包囲戦で有名ですが、豊臣軍は各地にあった北条家の支城攻めもおこなっています。そのうちの一つが武蔵国埼玉郡忍(現在の埼玉県行田市)にあった「忍城」。映画『のぼうの城』で取り上げられた「忍城の戦い」の舞台ですが、石田三成の水攻めにも負けず、小田原城が陥落するまで落城しませんでした。今回はそんな忍城の戦いについて、詳しく見ていきます。
忍城の戦いの原因となった「小田原征伐」とは
忍城の戦いが起こる直接の原因となったのは、豊臣秀吉による「小田原征伐」でした。秀吉は小田原征伐が起こった天正18年(1590年)時点では、関東と奥州以外を手中に収めており、天下統一まであと一歩の状態でした。
それを阻んだのが関東を収める北条家です。秀吉が北条家に臣従を促すため、当主の北条氏直とその父の氏政に上洛するよう求めますが、北条側はこれを拒否。北条家と縁戚関係にある徳川家康が説得したことで、ようやく名代として氏政の弟である北条氏規が上洛しました。しかし、氏規は上洛の際、秀吉に北条家が真田家と争っていた上野国・沼田(群馬県沼田市)の問題を解決するように求めます。「要望が通れば氏政を上洛させますよ」と交渉したのです。
沼田は北関東における軍事拠点として重要な場所として、北条家・上杉家・真田家の間で争われてきた領地でした。北条家→上杉家→北条家→真田家と支配者が次々と変わり、天正10年(1582年)の「天正壬午の乱」の和睦により北条家のものになる予定でしたが、真田家はこれを拒否。このため、領有権をめぐって2家の争いが続いていました。
秀吉は北条家に配慮し、沼田の3分の2を北条家、3分の1を真田家が得るよう割譲することを決定(沼田裁定)。ところが北条家は上洛時期をさらに先延ばししました。これに怒った秀吉は北条家の討伐を決意。天正17年(1589年)10月、沼田城代で北条方の猪俣邦憲が真田領内の名胡桃城を奪取した「名胡桃城事件」をきっかけに北条征伐に乗り出しました。
なぜ「名胡桃城事件」が問題になったのか。それは、秀吉が関白になった後、大名同士が勝手に争うことを禁じる「惣無事令」を発出していたからです。当初は九州が対象でしたが、その後対象範囲が拡大し、天正15年(1587年)には関東・東北も対象に加わっていました。
そして天正18年(1590年)2月、小田原征伐が始まります。秀吉率いる豊臣軍が約21万。これに対する北条軍が約5万から8万2000と、兵力的には豊臣軍が圧倒的に有利でした。秀吉は約10万の大軍で小田原城を包囲します。さらに、小田原城を孤立させるために北条方の他の城攻めを各武将に命じます。そのなかの1つが忍城でした。
成田家が治める難攻不落の城・忍城
忍城は室町時代中期から武蔵国で栄えた成田家の拠点の城でした。北を利根川、南を荒川に囲まれた低湿地帯にあり、沼地に点在する島や高地を橋で繋げて城郭を構成。島々にはあわせて約20の曲輪が点在しており、少し複雑な形の城でした。城の周りには川を利用した自然の堤防があり、城に続く道は細く、そのわきには水田や沼地がたくさん。守りやすく攻めにくい名城として知られていました。
北条討伐当時の当主は成田氏長。ところが氏長は小田原征伐の際は小田原城に詰めていたため、叔父の成田泰季を忍城の城代に据えて任せました。泰季は息子の成田長親と城を守り抜くことに。小田原征伐の際、城には兵が約500しかいませんでしたが、周辺の農民や町人、女性や子供などが食料をはじめとした必要な物資と共に入城して兵を手助けしており、合わせると約3700が籠城していました。
そんな忍城を攻めることになったのは秀吉子飼いの部下・石田三成。秀吉は6月の初めに2万3000の軍勢を率いて忍城を攻めるよう、三成に命じました。三成が選ばれたのは、秀吉が親心を出したからだと言われています。これまで三成は兵站や内政などの裏方として活躍していた、官吏色が強い武将でした。このため、秀吉が子飼いの部下である三成に武功を立てさせようとして抜擢した、というのです。ちなみに、三成に加え大谷吉継や長束正家といった、後の関ヶ原の戦いで三成の西軍に加わるメンバーも忍城攻略軍に加わっています。
忍城の戦い~石田三成VS成田長親
豊臣秀吉の命を受けた三成たち豊臣軍は、館林城を説得開城させたのち、忍城付近に到着。城の大宮口に本営を設けて城を包囲し、6月4日から攻撃を開始しますが、城の守りの硬さから攻めあぐねます。6月8日には前田利家や植田景勝、真田昌幸や浅野長政などが合流して忍城を攻めますが、成田氏長の娘である戦姫・甲斐姫の活躍もあり、苦戦しました。その後、長政たちは忍城から離脱し別の城を攻めに移動します。
一方の成田家ですが、実は大変な事件が発生していました。なんと6月7日、城代の成田泰季が病没して(戦死したという説も)しまうのです。急遽後を継いで城代となったのは息子の成田長親。目立った戦功のない「凡人」として知られていた、『のぼうの城』の主人公です。こうして三成率いる豊臣軍VS長親率いる成田軍の戦いが始まるのです。
石田三成が「水攻め」を開始
忍城攻めを苦戦する石田三成。陣の位置を丸墓山古墳に移動させて忍城を包囲しましたが、なかなかうまくいきません。そこで三成が実行したのが「水攻め」です。堤防を作って荒川と利根川をせき止め、川の堤を切って城を水没させようという計略でした。おりしも時期は6月の梅雨。川の水嵩も増して水攻めには絶好の環境です。
三成は水攻めのために急ピッチで堤防を作ります。そして城の南に28km(14kmの説も)にも及ぶ長い堤防を作ります。6月9日から近隣の農民などの手を借り、数十万人の人々が連日作業をした結果、6月14日に堤は無事に完成しました。今では「石田堤」と呼ばれる堤防ができると、三成は水攻めを開始します。
周辺が沼地の忍城への水攻めは効果的に思えたかもしれません。実際、外曲輪は水没しましたし、城内に流れ込んだ水により溺死した兵士もいました。ところが本丸部分は水没せず、まるで水の上に浮かんでいるかのような優雅な姿を見せていました。このため、忍城はこれ以降「浮き城」と呼ばれることになります。
その後、豪雨により一時本丸も沈みそうになるのですが、その豪雨のせいで6月18日には石田堤が決壊。このとき豊臣軍の約270名が濁流にのみこまれて死んだほか、周囲が泥沼のようになり、歩くのにも苦労するようになってしまったのです。もちろん馬での移動などもってのほか。忍城はさらに攻めにくくなったのでした。
石田堤が決壊した理由としては、突貫工事だった堤防にダメージがあったからだとも、民から慕われていた成田家のため、工事に加わった農民たちがわざと手抜き工事をしたとも、成田側の決死隊がこっそり堤防を壊したからとも言われています。成田側によって堤防を破壊したという説によれば、下忍口を守備していた本庄泰展の配下の脇本利助、坂本兵衛たちが夜に城を抜け出して堤防を破壊したとのこと。これが大成功したというわけです。
いずれにせよ水攻めは三成にとっては大きな失敗でした。この忍城の水攻めの失敗から、三成は後世「戦下手」「城攻め下手」として知られるようになります。
「水攻め」は秀吉の命令だった!?
不名誉なレッテルを貼られた三成ですが、実はこの水攻め、秀吉からの指示という説が有力で、三成自身は水攻めには消極的でした。当時の資料を見ると、6月12日に秀吉から三成に対し、水攻めを指示する書状が出されています。
秀吉が水攻めにこだわった理由。それは天正10年(1582年)、秀吉が織田信長の命を受けた中国攻めの最中、備中高松城に水攻めをして成功したことに関係があります。この時は城の近くを流れる足守川の水を引き込むため、全長約3km、高さ約7kmの堤防をわずか12日間で築き上げ、水攻めを実施。城を孤立させて苦しめ、毛利方からの講和を引き出しました。
備中高松城のときの成功に加え、水攻めは大規模な土木工事を伴うため権力者でしかなしえない技。インパクトも強いのでパフォーマンスとして効果的です。秀吉は忍城で水攻めをおこなうことで、天下に自らの力を示そうと考えたのかもしれません。
秀吉の書状に対し、三成は6月13日、浅野長政と木村重茲に出した書状で「水攻めではなく直接城を攻めたほうが良いのでは」と提言しています。書状の中には「城攻めをしている武将たちは水攻めだと決めてかかっており、忍城に全く攻め寄せる気がない」と武将たちのやる気のなさに対し愚痴のような言葉も書いています。
結局、その後に秀吉から改めて水攻めの指示があったことで三成は水攻めを実施せざるを得ませんでした。ちなみに堤防が一度壊れた後も堤防の整備は続けられており、7月になってからも堤の補強が続いています。秀吉は最後まで水攻め策にこだわっていたようです。
北条家の最後の砦となった忍城
苦戦が続く豊臣軍ですが、6月末(7月初めとも)には浅野長政や真田昌幸が援軍を率いて戻ってきており、再度攻撃のチャンスが訪れます。勢いに乗った豊臣軍は成田軍に対し快進撃を見せ、城門の1つを奪う寸前までいきました。
その時活躍したのが成田氏長の長女・甲斐姫です。当時の資料からは詳細は分からず、江戸時代に書かれた軍記物「成田紀」などからその姿を推察するしかありませんが、戦に秀でた戦姫だったようです。戦の際はまだなんと19歳だったようですが、豊臣軍の侵入を阻止するために、自ら刀を手に取り200人の兵を率いて出陣しました。成田家に伝わる名刀「波切」と短刀を手に、甲冑に赤い陣羽織をまとった甲斐姫が豊臣軍を蹴散らす姿は味方にさぞかし力を与えたことでしょう。
ちなみに、長親も出陣しようとしましたが、甲斐姫に止められています。戦ではあまり活躍の場がなかった長親ですが、家臣たちの争いを仲裁するなど、城代として成田家の団結に一役買っていたようです。
一方の豊臣軍ですが、決着をめざして7月5日に総攻撃を実施。出城を攻め落とすなどの成果を得ますが、ここでも甲斐姫が活躍。結局双方それなりの被害を出し、痛み分けとなりました。7月6日には上杉景勝、前田利家などの援軍が到着し、引き続き城攻めを継続しますが、戦況は変わりません。
忍城で激戦がくりひろげられる一方、小田原では7月5日、ついに小田原城が陥落。これで忍城の戦いも終了と思いきや、小田原城が豊臣軍に受け渡された後も成田軍の籠城は続きました。小田原城陥落の連絡を豊臣軍から受けていましたが、信じていなかったようです。
このため、小田原城にいた成田家当主・氏長が忍城で立てこもる一同を降伏するよう説得。そして7月16日、忍城は開城しました。立てこもった人々は甲冑を身に着けて馬に乗りながら堂々と城を去ったと伝わっています。こうして忍城の戦いは終了しました。結局小田原城が落ちるまで忍城は落城しませんでした。このため忍城は「小田原討伐で唯一落ちなかった城」として知られることになるのです。
忍城の戦い後の成田家
小田原征伐の後、豊臣秀吉は東北を平定し、朝鮮出兵に乗り出します。そして秀吉が死んだ後、後継者争いが起こり、関ヶ原の戦いで石田三成が徳川家康と戦って敗れ、260年続く江戸時代が始まるのは皆さんご存じでしょう。
一方、敗れた成田家はその後どうなったのでしょうか。成田氏長は領地を没収され、娘の甲斐姫と共に蒲生氏郷の預かりとなり、越前国の北ノ庄城(福井県福井市、後の福井城)に住むことになります。北ノ庄城に移った氏長・甲斐姫親子ですが、氏長が留守にしたすきに家臣の浜田将監・十左衛門兄弟が反乱を起こし、甲斐姫の義母が殺害される事件が発生します。これに怒った甲斐姫は浜田兄弟に戦いを挑み、見事討ち取りました。
この武勇伝を知った秀吉は甲斐姫を側室として召し上げることに。甲斐姫はその美しさでも知られていたので、女好きとして有名な秀吉にとっては自分のものにしたかったのでしょう。その効果か、氏長は天正19年(1591年)に下野国・烏山(栃木県那須烏山市)2万石を与えられて返り咲きました。
一方、成田長親は氏長たちと同じく蒲生氏郷のもと下野国に移住しましたが、氏長に、忍城の戦いの時豊臣軍と内通していたのではと疑われた(濡れ衣だった)ことをきっかけに剃髪して隠居しました。その長男の長季は忍城の新城主となった松平忠吉に仕えていましたが、忠吉が関ヶ原の戦いの後尾張国(愛知県)に移封されたことで尾張国に移り住んでおり、長親は息子について尾張国に移住。その地で生涯を閉じました。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。