末森城の戦い前田利家大ピンチ!佐々成政と北陸で対峙した

末森城の戦い

末森城の戦い

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事件簿
事件名
末森城の戦い(1584年)
場所
石川県
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金沢城

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織田信長の側近で豊臣秀吉の五大老の1人として政権を運営し、加賀百万石を築いた前田利家。そんな利家が大ピンチに陥った戦いが、天正12年(1584年)9月9日、能登国(現在の石川県)の末森城で起こった「末森城の戦い」です。末森城は前田家にとって重要な拠点でしたが、利家のライバル、佐々成政の奇襲に落城の危機に。果たして利家の救援は間に合うのか!? 今回は「小牧・長久手の戦い」の裏側で起きていた北陸の戦いにスポットを当てたいと思います。

末森城の戦いの主人公、前田利家と佐々成政

天正12年(1584年)9月9日に起きた「末森城の戦い」は北陸の支配を巡り前田利家と佐々成政が戦った合戦です。実は、この2人はもともと織田家の家臣で同僚でした。利家は天文6年(1537年)生まれ、成政の生年は天文5年(1536年)とも天文8年(1539年)とも言われていますが、大体同年代の2人は織田信長の家臣として活躍しました。

信長は馬廻衆や小姓などのなかから直属の精鋭部隊「母衣衆(ほろしゅう)」のメンバーを選んでいました。母衣というのはもとは戦の最中に矢や投石などから身を守るため、兜や鎧の後ろにつけたマントのような幅広の布。戦国時代にはクジラの髭などの骨組みをつけて風船のように張ることとで防御力をアップするとともに、目立たせていました。母衣を身につけられるのはエリートだけ。自慢したくなりますよね。

信長の母衣衆は「赤母衣衆」と「黒母衣衆」に分かれており、このうち赤母衣衆の筆頭が利家、黒母衣衆の筆頭が成政でした。(ただし別人が筆頭を務めた時期もあり)年も近い2人はライバル関係にあったようです。

そして天正3年(1575年)、柴田勝家が越前8郡を与えられた際、不破光治とともに3人で府中2郡を得ています。その後、3人は勝家に対する目付を担当するとともに、勝家の与力として北陸方面の統治に尽力。「府中三人衆」と呼ばれることになります。利家と成政は同じ部署の同僚のような関係だったわけですね。

ターニングポイントは「賤ヶ岳の戦い」

天正10年(1582年)6月の「本能寺の変」で織田信長が亡くなった後、後継者をだれにするのかを巡り、清洲会議で豊臣秀吉と柴田勝家が争います。その後も秀吉と勝家は勢力争いを繰り広げますが、この時点では利家・成政ともに勝家側につき、秀吉と対立しています。

ところが同年12月に勝家と秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、引き続き勝家側の武将として戦った成政に対し、利家は勝家を裏切りました。利家は当初、勝家軍として戦の最前線で後方の援護を任されていましたが、戦の最中に突如勝手に撤退して戦線を離脱。これにより勝家軍は崩れ、その結果秀吉軍に敗退することになります。消極的ではあるものの勝家を裏切り秀吉側についた利家は、戦後に秀吉から能登国(石川県北部)を安堵されるとともに、新たに加賀国(石川県南部)の2郡を得ることになります。

一方、最後まで勝家側にいた成政は、戦後不本意ながら秀吉に臣従することに。実は成政は賤ヶ岳の戦いには直接参戦していません。当時は越後国(新潟県)の上杉景勝の侵攻に耐えており、富山城に詰めていたからで、賤ヶ岳の戦いには叔父の佐々平左衛門が600人の兵を率いて参戦していました。戦後、成政は娘を秀吉に人質に差し出すとともに、自身は剃髪して降伏したことにより、越中国(富山県)を無事に安堵されました。

この賤ヶ岳の戦いで利家と成政の立ち位置は大きく変化することになります。利家はその後も秀吉のもとで出世街道を邁進します。一方の成政は後継者争いで秀吉と冷戦を繰り広げていた徳川家康・織田信雄に接近し、反秀吉の姿勢を強めていくことになるのです。

「末森城の戦い」の原因、「小牧・長久手の戦い」

豊臣秀吉と徳川家康・織田信勝の関係が徐々に悪化するなか、ついに天正12年(1584年)3月、約9ヶ月にもわたって続く「小牧・長久手の戦い」が始まり、両陣営が激突します。まずは信雄が秀吉に協力していた織田家三家老を殺害して秀吉に宣戦布告。これに対し秀吉は約10万人ともいわれる大軍を率いて出陣します。

小牧・長久手の戦いの中心地は尾張国(愛知県)北部ですが、連動して北陸や関東、四国で戦いが発生しており、この北陸の戦いが前田利家と佐々成政が関わった「末森城の戦い」です。小牧・長久手の戦いの当初は利家・成政ともに秀吉軍側でしたが、成政は途中で家康軍側に呼応して秀吉と敵対します。このため、北陸では秀吉方の利家VS家康方の成政が争うことになります。

両者の初戦は「朝日山城の戦い」

佐々成政は7月、前田利家に次男の前田利政と自分の娘の縁談を持ちかけます。実はこれは成政による利家を油断させるための計略でした。それを悟った利家は加賀国と越中国の国境の街道に山城を築城・改修し、警戒を強めました。「朝日山城」もその1つで、利家の家臣・村井長頼達が築城しました。

成政は8月、部下の佐々平左衛門、前野小兵衛らに築城中の朝日山城を攻撃させます。これが「朝日山城の戦い」です。戦いでは成政軍が一時城を占拠するところまでいきましたが、利家が出した援軍により城は奪還されてしまいます。そして利家軍はそのまま突き進み、成政方の松根城を攻略しています。

末森城の戦い①佐々成政、末森城を攻撃

そして9月9日、佐々成政は突然1万5000の大軍を率いて末森城攻めに向かって出発。坪山砦に本陣を置いて末森城を包囲し、翌10日から攻撃を開始しました(※日付については諸説あり)。これに対し、末森城を守る前田家の重臣、奥村永福・千秋範昌たち1500人(500人という説も)の兵は城に籠城して必死に抵抗。この時、城の外に討って出た城代の土肥次茂などが討ち死にしています。その後、成政軍の猛攻に二の丸や三の丸は落とされましたが、本丸だけは何とか踏みとどまりました。

成政軍の攻撃を必死に耐える中、永福はもはやこれまでと切腹を考えました。この時永福をとどめたのが妻のおつね。楠木正成が鎌倉幕府軍100万を相手に千早城を籠城して城を守り切った例を挙げ、「たがが佐々成政1軍に囲まれただけのこと。何を気弱なことを申されるのですか」と夫を鼓舞しました。さらに、病弱なのにもかかわらず自ら得意の薙刀で武装して城の中を回って兵を励まし、食事を差し入れ怪我人を看病したという話が伝わっています。

末森城の戦い②前田利家、救援に急ぐ

末森城の戦いの一報は9月10日午後(諸説あり)には金沢城にいる前田利家のところに届いていました。末森城は加賀・能登・越中の国境にある交通の要所。利家にとって末森城を佐々成政に取られてしまうと、加賀・能登が分断されてしまいますし、城の南には本拠地の金沢城があります。このため末森城は何としても守り切らなければいけない重要拠点です。利家は大いに焦ります。

利家は急ぎ援軍を出すことを決定。このとき、豊臣秀吉からは「金沢の城の守りに専念するように」と言われていたことから家臣の反対を受けますが、利家は自ら軍を率いての出陣を決意します。

なお、このとき出陣するかしないかを迷っている利家に対し、妻のまつが「そんなにお金を貯めるのが大切なら、いっそ金銀に槍を持たせてみてはいかがですか?」と皮肉を言って、利家がため込んだ金銀の入った袋を渡したというエピソードが残っています。利家はケチとして有名でした。まつは「ためたお金を使うのは今でしょ!」と利家に発破をかけたわけです。利家はまつの行動に激怒するとともに奮起し、出陣を決意した、というエピソードは、しっかりものの妻として有名なまつらしいですね。

さて、利家軍は末森城に行く途中で津幡城に入城し、息子の前田利長軍と合流します。軍勢は総数2500になりました。ちなみにこの軍には傾奇者として有名なあの前田慶次も参加しています。

利家は城内で軍議を開き、周辺の住民から成政軍の布陣の様子を聞き取り調査して現状を把握します。北川尻に成政の部下の神保氏張が4000の兵を置いて利家を待ち伏せしていることが分かり、進軍ルートを悩む利家。ここで城近くの高松村の農民、桜井三郎左衛門が利家に成政軍の背後に近づくことができる海岸沿いの裏道を提案しました。利家はこれを採用してその晩に城を出立します。雨の中海岸沿いを北上して成政軍の背後をつき、9月11日の夜明けに奇襲をかけました。

突然の奇襲に対応できない成政軍に対し、末森城で籠城中の奥村永福も援軍に応えて攻撃をしかけます。結局成政は末森城を諦め、越中に退却しました。こうして末森城の戦いは終了。死傷者は各軍約750人ずつだったと言われており、激戦っぷりが分かります。特に利家・永福軍の受けた損害は相当のものでした。

タダでは帰らない佐々成政、鳥越城を占拠

末森城を諦めた佐々成政でしたが、そのまま土産もなしに越中に戻りません。帰りがけに鳥越城を占領しています。実は、鳥越城を守っていた目賀田又右衛門と丹羽源十郎は「末森城が佐々成政に落とされた」という誤報(成政の流した偽りの情報とも)を信じて城を捨てていたのです。それを知った成政は鳥越城を楽々とゲット。部下の久世但馬を据え、富山城に戻りました。

それを知った前田利家は大激怒。10月14日に自ら兵を率いて鳥越城を攻めますが、但馬率いる佐々勢の激しい抵抗にあい、結局は奪還を諦めます。天正13年(1585年)にもう一度攻めましたが、結局奪還できないままでした。

その後、鳥越城から逃げた目賀田又右衛門は利家に必死に許しを請いますが、当然利家が許すはずもなく、結局は前田家から追放されてしまいました。その後、又右衛門は同じ六角氏の家臣だった蒲生氏郷を頼り、前田家に帰れるようとりなしてもらいますが、利家はこれを拒否。結局又右衛門の帰参は許されませんでした。

「小牧・長久手の戦い」終結も、粘る佐々成政

末森城の戦いが終わってからも前田利家と佐々成政の争いは続きました。そんななか、天正12年(1584年)11月、小牧・長久手の戦いに終止符が打たれます。織田信雄が豊臣秀吉と単独で和議を結んでしまうのです。戦う理由がなくなった徳川家康も停戦します。

これに不服を抱いた成政は12月、急遽家康のいる三河国(静岡県)の浜松に向かいます。時期は冬。極寒の北アルプスを決死の思いで踏破しましたが、家康は戦の再開を拒否します。そもそも主君だった織田信長の次男、織田信雄の味方をするという大義名分が消えたわけですから、再挙しても家康に得はありません。事実、このあと家康は秀吉と和睦を結んでいます。

諦めきれない成政は信雄や滝川一益などに働きかけますが、賛同してもらえません。結局成果を出せないまま越中に帰国しました。

その後の佐々成政と前田利家

末森城の戦いの後も前田利家と佐々成政の戦いは続きます。利家は上杉景勝の協力を得ながら越中を攻撃。成政はしばらく守りに徹していました。そんななか、天正13年(1585年)8月、ついに豊臣秀吉が動きます。小牧・長久手の戦い後も反秀吉の姿勢を貫く成政を討伐するため、富山城を攻めたのです。

秀吉は成政がいる富山城を約10万の大軍で取り囲みます。かなわないと思ったのか、成政は織田信雄の仲介をうけて秀吉に降伏。秀吉に新川郡以外の領土を没収されてしまいました。「富山の役」と呼ばれるこの戦いには、もちろん利家も秀吉軍として参加。1万の兵を率い、本隊が来る前に先発隊として成政軍と戦っています。

その後の成政は秀吉配下の将として過ごしますが、天正15年(1587年)の九州征伐で活躍したことから肥後国(熊本県)をまかされることになります。ようやく表舞台に戻ってきた!成政はさぞ嬉しかったことでしょう。ところが肥後では国人一揆に苦しめられます。そして一揆を収めきれなかった咎で秀吉から切腹を命じられ、天正16年(1588年)7月、尼崎で切腹して果てました。

一方の利家は富山の役の結果、息子の前田利長が越中国4郡のうち3郡を任されることに。その後、越前国を治めていた丹羽長秀の死により国替えが発生し、越前国も治めることになり、「加賀百万石」の大大名となっていったのです。

利家はその後も九州征伐や小田原征伐などで活躍し、秀吉の天下取りを支えていきます。最終的には秀吉の元、五大老にまで出世しました。秀吉亡き後は跡継ぎの豊臣秀頼の後見役として分裂する豊臣家中を何とか取りまとめようと尽力します。ところがその途中、利家は病に倒れてしまいます。どうやら内臓系のがんだったようで、徐々に弱っていく利家。そして慶長4年(1599年)4月、大阪の自宅で病没します。秀吉亡き後8ヶ月後のことでした。

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栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。