富山城富山県富山市

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  • 佐々成政・富山藩前田家ゆかりの城
  • 神通川の流れを防御に活かした「浮城」
  • 現在は富山市郷土博物館を中心とする富山城址公園

富山城とは、富山県富山市にあった中世から近世にかけての城である。神通川の流れを防御に活かした平城で、別名を「浮城」とも呼ばれた。戦国時代には佐々成政の居城となり、江戸時代には富山藩前田家の居城として機能した。現在は富山城址公園として整備され、天守風建物の富山市郷土博物館、石垣、堀、千歳御門などが城跡の面影を伝えている。

富山城の特長
目的 越中支配の拠点、佐々成政の居城、富山藩前田家の政庁
特長 浮城、平城、石垣、水堀、千歳御門、富山市郷土博物館
他の城との違い ・神通川の流れを防御に活かした水辺の城である
・佐々成政や富山藩前田家ゆかりの城として知られる
・現在の天守風建物は、昭和29年(1954)に建てられた富山市郷土博物館である
富山城の石垣・土塁
石垣 現存・復元整備
土塁 一部あり
種類 野面積、布積み、石垣、水堀、平城
石材 河川の玉石、自然石など
特長 富山城の石垣には、自然石を用いた野面積が見られ、河川の玉石の丸みを残した石垣が特徴である。場所によっては、正方形や長方形に加工した石を積む布積みも見られる。富山城は石垣だけで見せる城ではなく、神通川の流れや水堀を防御に活かした水辺の平城であり、現在も富山城址公園内で石垣と堀、千歳御門、富山市郷土博物館をあわせて見学できる。
富山城DATA
別称 浮城、安住城
所在地 富山県富山市
築城 1543年頃
築城者 神保長職と伝わる
住所 富山県富山市本丸1-62
電話番号 076-432-7911
開館時間 富山市郷土博物館は9時~17時。入館は16時30分まで
休館日 年末年始(12月28日~1月4日)。展示替えやメンテナンスによる臨時休館あり
入館料 大人210円、高校生以下無料。特別展開催中は料金変更の場合あり
備考 現在の天守風建物は1954年に建てられた富山市郷土博物館で、史実上の天守を復原したものではない。鉄筋コンクリート造4階建の城郭風建築で、2004年に国の登録有形文化財に登録されている。富山城址公園内には、石垣、堀、千歳御門、佐藤記念美術館などがある。
富山城への交通アクセス
JR・あいの風とやま鉄道「富山駅」南口より徒歩10分。

HISTORY 何度も攻城戦の舞台となった富山城

富山城は富山県富山市丸の内にあった平城です。戦国時代は上杉謙信の越中出兵の際に奪われたり、謙信亡き後は織田信長に侵攻されたりと何度も攻城戦の舞台になりました。松川を防御にしたため「浮城」の異名を持ち、難攻不落と謳われた富山城の歴史を紐解いていきましょう。

富山城の歴史
1543年頃 神保長職により富山城が築かれたと伝わる
戦国時代 神保氏、上杉氏、織田氏などが越中支配をめぐって富山城を争う
1581年 佐々成政が越中へ入り、富山城を拠点とする
1585年 豊臣秀吉の越中攻めにより佐々成政が降伏する
1605年 前田利長が隠居城として富山城に入る
1609年 富山城が火災で焼失し、前田利長は高岡城を築く
1639年 加賀藩から富山藩が分藩し、前田利次が初代富山藩主となる
江戸時代 富山藩前田家の居城として、富山藩の政庁となる
1871年 廃藩置県により富山藩が廃止される
明治時代 城内の建物や堀の多くが失われ、城跡は市街地化する
1954年 戦後復興の象徴として、現在の天守風建物が建てられる
2004年 富山市郷土博物館、富山城が国の登録有形文化財となる
2017年 続日本100名城に選定される
江戸時代以前の富山城
富山城が建てられた室町時代、畠山氏が守護職を勤めていました。しかし、畠山氏は富山に来任することはなく、越中東部を椎名氏、西部を神保氏が守護代としてこの地を治めていました。
畠山氏は室町幕府の管領を二度も務めるなど名門の家柄でしたが、応仁の乱以後は家が分裂、さらに足利将軍家や細川氏、三好氏との畿内における権力争いに明け暮れて衰退していきます。椎名氏も神保氏もさほど強い支配力を持っていたわけでもなく、隣の加賀国の影響もあって一向一揆衆の力も強まっていきます。
富山城はこのような情勢のなか、天文12年(1543年)に神保長職が越中東部のおよび新川郡への進出をもくろんで、椎名氏の支配下にあった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重に築城させたと伝わっています。
なお、近年の発掘調査によって室町時代前期の遺構が発見され、富山城の創建時期は今まで定説とされていた時代より古い可能性も出てきました。
富山城は無事に築城されましたが、17年後の永禄3年(1560年) 椎名氏を支援する上杉謙信による攻撃を受けて神保長職は城を捨てて逃亡、増山城に逃れて抵抗したものの2年後に降伏、射水・婦負二郡の支配権だけはかろうじて認められます。
その後、上杉謙信の主力軍勢は一旦富山から引き上げますが、その隙を突いて椎名康胤・越中一向一揆連合軍が富山城を奪います。天正6年(1578年)上杉謙信が急死したことをきっかけに、神保長職の嫡子である神保長住が織田信長の協力を得て河田長親・椎名小四郎ら上杉氏の越中衆に勝利します。(月岡野の戦い)神保氏は再び富山城を取り返しますが、天正9年(1582年)上杉氏についた小島職鎮、唐人親広らが富山城を急襲して神保長住を幽閉、織田信長がすぐに軍勢を派遣して富山城を取り返しますが神保長住はそのまま追放され、代わりに佐々成政が富山城の城主になりました。
富山城の築城~明治時代まで
佐々成政は富山城の大規模な改築を行ないましたが、天正10年(1583年)に本能寺の変が起こり、織田信長が志望すると佐々成政は羽柴秀吉と敵対します。天正13年(1585年)に豊臣秀吉は7万の大軍で富山城を包囲し、佐々成政は降伏しました。(富山の役)豊臣秀吉はそのまま富山城に入り、上杉景勝との対談を望みますが叶わなかったため富山城を破却、越中を後にします。
その後、越中の地は前田家に与えられ、前田利家の嫡男である前田利長が富山城を再建しました。再建された富山城は前田利長の隠居する城でしたが、広大であり改築に数年を要したと伝わっています。しかし、慶長14年(1609年)に富山城は火事により建物の大部分が焼失、俊長は改めて高岡城を築いて移り、焼け残った富山城には家臣の津田義忠が城代入りました。
寛永16年(1639年)に加賀藩第三代藩主前田利常が次男の利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立します。万治4年(1661年)、幕府の許可を得て富山城を大改築し、以来富山城は明治維新を迎えるまで富山藩の居城として機能しました。安政5年発生した飛越地震により、富山城も大きな被害を受けましたが何とか持ちこたえて、明治維新を迎えました。
明治以降の富山城
明治を迎えると廃城令によって富山城は廃城になり、残った建物は市役所や小学校、さらに陸軍の施設などに転用されます。本丸御殿は県庁舎に転用されましたが明治32年(1889年)に焼失しました。明治15年(1882年)富山城址は公園として整備され、広く市民に開放されました。
昭和29年(1954年)富山城跡の敷地一帯で富山産業大博覧会が開催され、鉄筋コンクリート構造による模擬天守が記念に建てられます。この模擬天守は犬山城や彦根城をモデルにしたもので、富山城本来の形ではありません。そのため、老朽化が進んだことを理由に建て替えられる計画が持ち上がりましたが、戦後の復興シンボルとしての歴史を考慮し、平成15年(2003年)に耐震工事に着手、平成17年(2005年)にリニューアルオープンしました。
模擬天守閣の中は博物館や展望台になっており、富山市の歴史を知ることができると同時に、景観を楽しめます。
また、平成26年(2014年)に公園の再整備工事が行われ、史実とは異なるものの城址公園としての体裁がさらに整いました。 なお、史実の富山城は松川に浮かぶような様子であり『浮城』の別名がありました。寛永16年(1639年)の富山城大改築の際には、幕府に天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で計画を提出し、許可を得ています。しかし、近年の発掘調査や江戸時代に造られた古図からも天守の存在は認められないため、計画は建てられたものの天守は築かれなかったという見方が一般的です。
このほか、嘉永2年(1849年)富山城の東の出丸の東側に千歳御殿と千歳の庭園が建築されたと記録に残っていましたが、建築から6年後の安政2年、大火により焼失、その後最後の藩主第13代藩主前田利同の居城として使われましたが、明治維新後は建物が取り壊され、敷地は「桜木町」として整備され、戦前は遊郭がおかれて歓楽街として賑わいました。
荒城の月と富山城
富山城は滝廉太郎作曲・土井晩翠作詞の唱歌「荒城の月」の着想の基になった城という説があります。荒城の月のモデルとなった城には仙台の青葉城、大分県竹田市にある岡城など複数の説があり、確定ではありませんがロマンがあります。
また、富山は滝廉太郎が幼少期の2年を過ごした地であり、富山城址公園には小規模ではありますが滝廉太郎記念館があり、富山との繋がりを知ることができます。
まとめ
富山城は戦国時代に築かれて以降、何度も戦いの舞台となり豊臣秀吉によって一度は破壊されました。江戸時代初期に再興され、明治維新まで富山城の藩庁、越中前田氏の居城として機能しましたが、大火や地震によって何度か大きな被害を受けています。
現在富山城址に建つ天守は富山城には実際になかったものですが、戦災からの復興のシンボルとして市民に親しまれており、鉄筋コンクリート造りの模擬天守としては珍しく登録有形文化財に指定されています。

富山城と関連する事件を読む

末森城の戦い前田利家大ピンチ!佐々成政と北陸で対峙した
末森城の戦いとは 天正12年(1584年)9月9日、能登国の末森城で前田利家と佐々成政が戦った合戦である。 小牧・長久手の戦いと連動して北陸で起きた、豊臣秀吉方の前田利家と徳川家康方に呼応した佐々成政

富山城を藩庁とする、富山藩の歴史

富山藩加賀藩の支藩
富山藩とは 富山藩とは、寛永16年(1639年)に加賀藩第3代藩主・前田利常の次男である前田利次によって、10万石で開かれた加賀藩の支藩である。 藩主は明治維新まで前田家が務め、関係する城として富山城
富山藩DATA
藩庁 富山城
旧地域 越中国新川郡富山
石高 10万石
譜代・外様 外様
主な藩主 前田氏
推定人口 12万人(明治元年)

加賀藩の前田利常が次男の利次に富山10万石を与えたのがはじまり。2代・正甫は富山の薬売りの原型を築く。

富山城、前田家ゆかりの富山のシンボル

富山県富山市にある富山城は、続日本100名城に選ばれた富山のシンボル的存在のお城です。江戸時代は富山藩前田家の居城で、現在は富山城址公園として整備されています。昭和29年(1954年)には模擬天守が建てられました。

富山城
富山城の歴史
富山城は天文12年(1543年)頃、越中国(現富山県)西部の守護代である神保長職が東部進出をもくろんで築城した城です。北を流れる神通川を天然の堀とみたて、川の水を引き込むかたちで四方を水堀で囲んだ堅城でした。当時は川に浮かぶように見えたようで、「浮城」の別名でも知られています。
室町時代から越中国は畠山氏が守護職を務めていましたが、実際は守護代として東を椎名氏、西を神保氏が統治していました。神保氏と椎名氏の争いが激化するなか、永禄3年(1560年)に神保氏は椎名氏についた上杉謙信らに攻められます。その際神保長職は富山城に火をかけて逃亡。富山城は上杉の手に落ちますが、その後椎名氏、神保氏、一向一揆勢との戦いの舞台となり、城の支配者は二転三転します。
上杉謙信の死後は織田信長らの援軍を受けた神保長住が富山城を取り返しますが、上杉方に富山城を攻められて城内に幽閉されてしまいます。変わって城主となったのは佐々成政で、富山城の大規模改修も行っています。
本能寺の変後は豊臣秀吉が富山の役で成政を下し、この際富山城は破却されます。越中3郡は前田家のものになり、その後関ヶ原の戦いで東軍方についた前田利長が富山城を再建。慶長10年(1605年)から本格的に城と城下町が整備されました。城は本丸に西の丸・東出丸・二の丸、それらを取り囲む三の丸からなり、石垣は門付近のみに限定され、それ以外は土塁で囲まれていたようです。
寛永16年(1639年)、加賀藩第3代藩主の前田利常が次男の利次に分家させる形で富山藩10万石を設立します。富山城はその後、火事や洪水の被害にあいながらも富山前田氏の居城として明治維新まで存続しました。
明治維新後は廃城となり、本丸御殿は県の庁舎になるなど一部は再利用されましたが、建物のほとんどは破壊されました。さらに火災や第二次世界大戦の富山大空襲などの被害を受けて建物のほとんどは消失してしまいます。
昭和29年(1954年)、富山城址の一帯で富山産業大博覧会が開催され、その際に鉄筋コンクリート造りで模擬天守が建てられました。模擬天守は博覧会後、郷土博物館になり、平成16年(2004年)に国の登録有形文化財に登録されました。翌年には耐震補強工事を経てリニューアルオープンしています。
なお、富山城は『荒城の月』のモチーフになった城としても知られています。これは滝廉太郎が小学生時代の数年を富山に住んでおり、作曲の際に富山城を照らす月の夜からインスピレーションを得たからなのだそうです。
富山城の見どころ①模擬天守・富山市郷土博物館
模擬天守として昭和29年(1954年)に建てられた「富山市郷土博物館」は、鉄筋コンクリート造りで3層4階の天守、2層2階の小天守状櫓等から成り立っています。実は富山城は天守がなかったようです。天守建設の計画はあり、幕府の許可を経て天守台まで整備したものの、藩の財政事情から建てられなかったようです。このため模擬天守は彦根城や犬山城、大垣城など他の城を参考に作られました。
内部は博物館となっており、発掘調査で発見された出土品や史料などが模型や映像とともに展示されています。前田利長の140cmの兜は必見です。4階は展望台で、富山の街が一望できます。
富山城の見どころ1 富山城の見どころ2 富山城の見どころ3
富山城の見どころ②江戸時代の面影を残す千歳御門
富山城で唯一江戸時代から現存する建築遺構として知られる「千歳御門(埋門)」は富山城で必ず訪れてほしいスポットです。もとは嘉永2年(1849年)に、富山藩10代藩主の前田利保が隠居所として東出丸に築いた「千歳御殿」の正門として設けられました。明治時代初期に一度解体され赤祖父家に移されたことで戦火を免れ、所有者の寄贈により平成18年(2006年)から平成20年(2008年)に公園内に移築されています。
門は総欅造りで「三間医薬門」という格の高い作り。屋根は切妻造の本瓦葺きで赤瓦が使われています。軒丸瓦には富山前田家の家紋「丁子梅鉢紋」の姿が見られます。
富山城の見どころ4 富山城の見どころ5 富山城の見どころ6
富山城の見どころ③石垣と鏡石
富山城は初期のころは石垣がなかったようですが、前田利長以降の改修の際に石垣が造られました。とはいえ門付近のみで、本丸南西側の鉄門、本丸北東隅の搦手門、二ノ丸の二階櫓御門に築かれていました。積み方は野面積みが主ですが、布積みの部分もあります。
鉄門石垣は布積みで、角石の星形の刻印をはじめさまざまな刻印が見られます。また、鉄門跡の枡形内にある大きな6個の鏡石も見どころの一つです。
搦手石垣は千歳御門まで続く精緻な石垣が魅力的。また、佐藤記念美術館付近の石垣には寛文期の石垣と明治時代に積みなおされた石垣が混在している部分があるので、ぜひ探して比べてみましょう。
富山城の見どころ7 富山城の見どころ8 富山城の見どころ9
富山城のフォトスポット
千歳御門前から、門と門の奥にある富山市郷土博物館を合わせて撮影するのがおすすめです。また、富山城址公園の南西広場にはフレーム形のモニュメントがあり、フォトスポットとして有名です。堀越しの撮影や、春の桜とのコラボもおすすめですよ。
富山城の見どころ10 富山城の見どころ11 富山城の見どころ12
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。