HISTORY
何度も攻城戦の舞台となった富山城
富山城は富山県富山市丸の内にあった平城です。戦国時代は上杉謙信の越中出兵の際に奪われたり、謙信亡き後は織田信長に侵攻されたりと何度も攻城戦の舞台になりました。松川を防御にしたため「浮城」の異名を持ち、難攻不落と謳われた富山城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代以前の富山城
- 富山城が建てられた室町時代、畠山氏が守護職を勤めていました。しかし、畠山氏は富山に来任することはなく、越中東部を椎名氏、西部を神保氏が守護代としてこの地を治めていました。
畠山氏は室町幕府の管領を二度も務めるなど名門の家柄でしたが、応仁の乱以後は家が分裂、さらに足利将軍家や細川氏、三好氏との畿内における権力争いに明け暮れて衰退していきます。椎名氏も神保氏もさほど強い支配力を持っていたわけでもなく、隣の加賀国の影響もあって一向一揆衆の力も強まっていきます。
富山城はこのような情勢のなか、天文12年(1543年)に神保長職が越中東部のおよび新川郡への進出をもくろんで、椎名氏の支配下にあった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重に築城させたと伝わっています。
なお、近年の発掘調査によって室町時代前期の遺構が発見され、富山城の創建時期は今まで定説とされていた時代より古い可能性も出てきました。
富山城は無事に築城されましたが、17年後の永禄3年(1560年) 椎名氏を支援する上杉謙信による攻撃を受けて神保長職は城を捨てて逃亡、増山城に逃れて抵抗したものの2年後に降伏、射水・婦負二郡の支配権だけはかろうじて認められます。
その後、上杉謙信の主力軍勢は一旦富山から引き上げますが、その隙を突いて椎名康胤・越中一向一揆連合軍が富山城を奪います。天正6年(1578年)上杉謙信が急死したことをきっかけに、神保長職の嫡子である神保長住が織田信長の協力を得て河田長親・椎名小四郎ら上杉氏の越中衆に勝利します。(月岡野の戦い)神保氏は再び富山城を取り返しますが、天正9年(1582年)上杉氏についた小島職鎮、唐人親広らが富山城を急襲して神保長住を幽閉、織田信長がすぐに軍勢を派遣して富山城を取り返しますが神保長住はそのまま追放され、代わりに佐々成政が富山城の城主になりました。
- 富山城の築城~明治時代まで
- 佐々成政は富山城の大規模な改築を行ないましたが、天正10年(1583年)に本能寺の変が起こり、織田信長が志望すると佐々成政は羽柴秀吉と敵対します。天正13年(1585年)に豊臣秀吉は7万の大軍で富山城を包囲し、佐々成政は降伏しました。(富山の役)豊臣秀吉はそのまま富山城に入り、上杉景勝との対談を望みますが叶わなかったため富山城を破却、越中を後にします。
その後、越中の地は前田家に与えられ、前田利家の嫡男である前田利長が富山城を再建しました。再建された富山城は前田利長の隠居する城でしたが、広大であり改築に数年を要したと伝わっています。しかし、慶長14年(1609年)に富山城は火事により建物の大部分が焼失、俊長は改めて高岡城を築いて移り、焼け残った富山城には家臣の津田義忠が城代入りました。
寛永16年(1639年)に加賀藩第三代藩主前田利常が次男の利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立します。万治4年(1661年)、幕府の許可を得て富山城を大改築し、以来富山城は明治維新を迎えるまで富山藩の居城として機能しました。安政5年発生した飛越地震により、富山城も大きな被害を受けましたが何とか持ちこたえて、明治維新を迎えました。
- 明治以降の富山城
- 明治を迎えると廃城令によって富山城は廃城になり、残った建物は市役所や小学校、さらに陸軍の施設などに転用されます。本丸御殿は県庁舎に転用されましたが明治32年(1889年)に焼失しました。明治15年(1882年)富山城址は公園として整備され、広く市民に開放されました。
昭和29年(1954年)富山城跡の敷地一帯で富山産業大博覧会が開催され、鉄筋コンクリート構造による模擬天守が記念に建てられます。この模擬天守は犬山城や彦根城をモデルにしたもので、富山城本来の形ではありません。そのため、老朽化が進んだことを理由に建て替えられる計画が持ち上がりましたが、戦後の復興シンボルとしての歴史を考慮し、平成15年(2003年)に耐震工事に着手、平成17年(2005年)にリニューアルオープンしました。
模擬天守閣の中は博物館や展望台になっており、富山市の歴史を知ることができると同時に、景観を楽しめます。
また、平成26年(2014年)に公園の再整備工事が行われ、史実とは異なるものの城址公園としての体裁がさらに整いました。
なお、史実の富山城は松川に浮かぶような様子であり『浮城』の別名がありました。寛永16年(1639年)の富山城大改築の際には、幕府に天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で計画を提出し、許可を得ています。しかし、近年の発掘調査や江戸時代に造られた古図からも天守の存在は認められないため、計画は建てられたものの天守は築かれなかったという見方が一般的です。
このほか、嘉永2年(1849年)富山城の東の出丸の東側に千歳御殿と千歳の庭園が建築されたと記録に残っていましたが、建築から6年後の安政2年、大火により焼失、その後最後の藩主第13代藩主前田利同の居城として使われましたが、明治維新後は建物が取り壊され、敷地は「桜木町」として整備され、戦前は遊郭がおかれて歓楽街として賑わいました。
- 荒城の月と富山城
- 富山城は滝廉太郎作曲・土井晩翠作詞の唱歌「荒城の月」の着想の基になった城という説があります。荒城の月のモデルとなった城には仙台の青葉城、大分県竹田市にある岡城など複数の説があり、確定ではありませんがロマンがあります。
また、富山は滝廉太郎が幼少期の2年を過ごした地であり、富山城址公園には小規模ではありますが滝廉太郎記念館があり、富山との繋がりを知ることができます。
- まとめ
- 富山城は戦国時代に築かれて以降、何度も戦いの舞台となり豊臣秀吉によって一度は破壊されました。江戸時代初期に再興され、明治維新まで富山城の藩庁、越中前田氏の居城として機能しましたが、大火や地震によって何度か大きな被害を受けています。
現在富山城址に建つ天守は富山城には実際になかったものですが、戦災からの復興のシンボルとして市民に親しまれており、鉄筋コンクリート造りの模擬天守としては珍しく登録有形文化財に指定されています。
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