応永の乱足利義満を支えた大内義弘はなぜ反旗を翻したのか

応永の乱

応永の乱

記事カテゴリ
事件簿
事件名
応永の乱(1399年)
場所
大阪府
応永の乱とは
  • 応永の乱とは、応永6年(1399年)に有力守護大名の大内義弘が室町幕府第3代将軍・足利義満に反旗を翻し、和泉国堺で起こした戦いである。
  • 大内義弘は明徳の乱の鎮圧や南北朝合一に貢献し、周防・長門など6か国の守護を務めるまでに勢力を拡大した。
  • 将軍権力の強化を進める足利義満は有力守護大名の勢力を抑えようとしており、義弘との関係も次第に悪化していった。
  • 対立の背景には、九州出兵に対する恩賞への不満、和泉・紀伊の守護職没収の噂、朝鮮との外交・交易をめぐる利害の衝突などがあったとされる。
  • 義弘は鎌倉公方の足利満兼と密約を結び、各地の反幕府勢力にも挙兵を呼びかけ、義満への対抗を図った。
  • 義弘は約5000の兵を率いて堺に籠城し、湿地や海に囲まれた地形を活かして防御施設を築き、幕府軍の攻撃に備えた。
  • 各地の反幕府勢力との連携が実現せず孤立した義弘は、12月21日の幕府軍による火攻めを伴う総攻撃で敗れ、戦死した。
  • 応永の乱は足利義満による将軍権力の強化につながり、大内氏は守護国を削減されたものの、その後も周防・長門を中心に勢力を維持した。

室町幕府の第3代将軍・足利義満は、有力な守護大名の勢力を抑え、将軍の権力を強めていきました。その過程で起こったのが、応永6年(1399年)の「応永の乱」です。反旗を翻した大内義弘は、明徳の乱の鎮圧や南北朝合一に貢献した、もともとは義満側の人物でした。ところが両者の関係は悪化し、義弘は和泉国の堺で幕府軍と戦うことになります。今回は応永の乱について詳しく解説します。

大内義弘とは

応永の乱の首謀者・大内義弘は、延文元年/正平11年(1356年)に大内弘世の子として生まれました。父の弘世は、南北朝の争乱のなかで大内氏の勢力を拡大した人物です。もとは周防・長門を本拠地として南朝方についていましたが、後に周防・長門両国の守護職を認めることを条件として北朝・室町幕府側に転じます。その後、石見の守護も命じられ、勢力圏は3ヶ国に及びました。

弘世は今川貞世の九州統治を手助けすべく九州に幾度となく出兵しました。義弘も幕府方の武将として活動し、若いころから九州での戦いに参加しています。

当時の九州では、後醍醐天皇の皇子・懐良親王を中心とする南朝方が、菊池氏の支援を受けて強い勢力を持っていました。幕府は何度か九州を得ようと弘世をはじめとした人材を派遣しますが、なかなかうまくいきません。

このため、応安3年(1370年)、幕府はついに足利一族の今川貞世(了俊)を九州統治を担う「九州探題」に任命し、派遣することを決定します。応安4年/建徳2年(1371年)、貞世は九州へ下向しますが、その前に海峡を隔てた地にあり、対九州の最前線だった周防国府に立ち寄り、大内氏に助力を求めました。

これを受けた弘世・義弘親子は貞世とともに九州に兵を率いて渡り、大宰府を攻略。その後親子間で意見が対立し、弘世は本国に帰国しました。

一方の義弘は九州各地を転戦し、菊池氏ら南朝方との戦いで功績を重ねました。義弘はこの時の功により、豊前(現福岡県東部・大分県北部)の守護職を得ます。

天授6年/康暦2年(1380年)11月15日(10月15日説も)に弘世が没すると、家督争いに勝利した義弘は父の跡を継ぎ、周防・長門守護を継承。石見は家督争いの相手である弟の大内満弘が得ました。

足利義満に接近、明徳の乱や南北朝合一で活躍

そんな義弘が室町幕府三代将軍の足利義満と接近したのは康応元年(1389年)のことでした。義満は各地の有力守護大名との関係強化を図り、その一環として同年3月に厳島詣でを実施。義弘は義満を歓待し、帰京に同行しました。以後、義弘は在京して幕政に参画するようになります。

義弘の名を高めたのが、元中8年/明徳2年(1391年)に起きた「明徳の乱」です。11ヶ国の守護職を保有する有力守護の山名氏が室町幕府に対して起こした反乱で、中央集権化をめざす足利義満が、山名氏内の跡継ぎ問題による対立を利用して起こしたものでした。

義弘は幕府軍として戦い、乱の鎮圧に貢献しました。その功績によって和泉・紀伊の守護職を与えられ、大内氏で周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ねるようになりました。

翌明徳3年/元中9年(1392年)には、南北朝合一にも尽力しました。どのような役割を果たしたかははっきりとはわかっていませんが、和睦の仲介にかかわっていたようです。三種の神器が南朝から北朝に受け渡される際、義弘は三種の神器の護衛として参加しています。

このように義弘と足利義満との関係は当初は良好なものでした。しかし、功績を重ねて大きくなったその力はやがて義満の警戒を招くことになります。

義満との関係に亀裂が生じる

義満は応永元年12月(1395年1月)に将軍職を子の義持に譲り、応永2年(1395年)6月20日には出家しました。ただし、出家したとはいえ、義満はその後も幕府の実権を握り続けます。

義満の出家に伴い、皇族や守護のなかには義満に従って出家する者もおり、義弘もそのうちの一人でした。この時点では義満と義弘の関係は良好でした。

室町幕府は各地の守護大名の協力によって成り立つ政権でしたが、領国に軍事的な基盤を持つ守護は、将軍に対抗する存在にもなり得ました。義満はその勢力を抑えるため、跡継ぎ争いなどに介入して内紛を誘発します。明徳元年(1390年)の土岐康行の乱や、翌年の明徳の乱がその一例です。

そうしたなか、義満と義弘の関係も徐々に悪化していきます。応永4年(1397年)、義満は京都北山に自らの邸宅として北山第の造営を始めました。後に鹿苑寺(金閣寺)となる場所です。室町時代の日記『臥雲日件録抜尤』によれば、義満が諸大名に土木工事の負担を命じた際、義弘だけが「武士は弓矢をもって奉公するものであり、工事に使役されるものではない」と断ったとされています。

とはいえ、この一件だけで義弘が応永の乱を起こしたとは考えにくいでしょう。乱後間もないころに成立したとされる軍記物語『応永記』によれば、原因とされているのは主に4つです。

対立の背景①九州出兵と恩賞への不満

応永2年(1395年)、長年にわたって九州の統治にあたってきた今川貞世が九州探題を解任され、後任には渋川満頼が任命されました。当時の九州のほとんどは足利氏の支配を受けていましたが、一部は争いが続いていました。満頼は少弐氏や菊池氏らの抵抗を受けたため、幕府は大内氏や大友氏に支援を命じます。

義弘は弟の大内満弘や大内盛見を九州へ派遣し、幕府側の軍事行動を支えました。ところが、応永4年(1397年)末には少弐氏らとの戦いで満弘が戦死してしまいます。

しかし、義満は満弘の子に恩賞を与えず、大内氏に加増するなどのフォローもしませんでした。加えて前述の通り北山第の負担を命じたわけですから、義弘が大内氏に対する義満の扱いに不信感や不満を持つのも無理はないかもしれません。

対立の背景②義弘討伐の密命説

義満が九州の少弐氏や菊池氏に対し、義弘討伐の密命を出していた、という説があります。証拠はありませんが、義満は似たようなことを明徳の乱の際にやっていたことは確かです。

対立の背景③和泉・紀伊国没収の噂

当時、義満が義弘に明徳の乱の褒賞として与えた和泉・紀伊両国を没収しようとしている、という噂がありました。あくまで噂ですが、実は義満が義弘に反旗を翻させるためにわざと流したのでは、という説もあります。

対立の背景④だまし討ちへの警戒

こちらは①の九州問題と絡んだ話です。義弘は応永5年(1398年)10月に九州に出陣します。その後、応永6年(1399年)に九州から和泉国堺に移動しますが、この間の義弘の動きははっきりしていません。

堺に到着したのち、義弘は閉じこもって義満の上洛命令になかなか従いませんでした。『応永記』によれば、義弘は「義満は京都で自分をだまし討ちしようとしている」と判断したのです。

軍記物語の内容をそのまま事実と受け取ることは難しいですが、幕府への奉公によって勢力を伸ばした義弘と、その力を抑えようとする義満との間には深い溝が生まれていました。

対立の背景⑤朝鮮貿易と勢力拡大

『応永記』の4つの原因に加え、義満が義弘を討伐しようと画策したのは、義弘の対外活動をめぐるより大きな問題があったとされています。もともと対外関係では九州探題の今川貞世が高麗や朝鮮との交渉で重要な役割を担っていました。貞世の失脚後は、義弘が朝鮮との外交・交易で存在感を強め、交易の利益に加え政治的な立場も強化していきました。

しかし、義満も対外関係を重視し、貿易を主導しようとしたことから、義満と義弘の関係が悪化していったと言われています。特に義満は明との貿易に積極的で、義弘に利権を奪われることを危惧していました。

こうしたさまざまな要因が重なり、応永の乱につながっていくのです。

応永の乱①義弘が鎌倉公方と連携

それでは応永の乱についてみていきましょう。応永6年(1399年)10月13日、義弘は九州から軍勢を率いて堺に到着しました。しかし、そのまま京都に入ることはせず、堺にとどまります。義満は何度も使者を送り、義弘に上洛を求めました。しかし義弘は上洛を拒否します。

さらに、義弘は鎌倉公方を務める足利満兼と密約を結びます。鎌倉公方は鎌倉を拠点に東国を統治する足利氏の一族で、政治基盤の違いなどから京都の将軍とは対立することもありました。義弘はこの関係を利用し、満兼と結んで義満に対抗しようとしたのです。

軍記物などによれば、義弘は九州に向かう前、満兼の父である足利氏満に同盟を働きかけます。しかし、応永5年(1398年)11月4日に氏満が病没したため、改めて今川貞世の仲介で満兼と密約を結びました。一方、貞世は後に『難太平記』で仲介を否定し、応永の乱は義弘が単独で起こしたものだと弁明しています。

こうして鎌倉公方と密約を結んだ義弘は、義満の使いとして訪れた禅僧の絶海中津に「義満の政道を諫めるために鎌倉公方と同盟を結んだ」とし、上洛は「公方様との約束を違える」と拒否しています。

実は、堺についた当初は室町幕府と和睦するか戦をするかは決まっておらず、家臣の中でも意見が割れていました。

しかし、義満と義弘の交渉は決裂。鎌倉公方との同盟が発覚したことで、義満は義弘追討を決意します。

応永の乱②堺に防御施設を築いて籠城

義満は諸国の武士や寺院に義弘を討伐するよう呼びかけるとともに、足利一門の兵を集め、11月8日に総勢約6000の兵(※諸説あり)を先に和泉に出陣させました。義満自身は本陣と定めた東寺に約2000の兵とともに入ります。さらに畠山、斯波をはじめとした多くの有力守護からなる3万の兵が付き従いました。

一方の義弘は、興福寺や叡山、山名一族、美濃の土岐詮直や近江の京極秀満、南朝方だった菊池氏や楠木氏などに挙兵を求め、5000の兵とともに堺に籠城しました。

堺は西側に海があり、東側には湿潤な土地が広がっていました。陸から攻める軍の動きを制限しながら、海上からの支援も期待できる地形です。義弘は物見櫓にあたる井楼を48、矢を射るための櫓を1700設け、幕府軍の攻撃に備えたと言われています。

応永の乱③開戦するも、味方との連携は実らず

11月29日、両軍は戦闘に入りました。義弘の軍は幕府軍の攻撃を退け、堺の防御はすぐには崩れませんでした。激戦の結果、この日の戦いでは多くの戦死者が出たと伝わっています。

幕府軍をうまくしのいだ義弘としては、各地の反幕勢力の挙兵に期待しつつ、堺に籠城する考えだったと推察されます。こうした動きに応え、土岐詮直は尾張に討ち入りますが逆に討伐されてしまいます。ほかの反幕府勢力の武将たちも次々と挙兵するも鎮圧されていきました。

鎌倉公方の満兼はといえば、側近の上杉憲定の反対にあい、なかなか挙兵できません。11月21日には幕府を助けるという名目のもと1万の兵を率いて西上しますが、なかなか先に進めませんでした。実は義満が憲定に対し、満兼の西上を抑えるよう働きかけていたのです。

こうして義弘は堺で孤立してしまいます。

応永の乱④火攻めで堺陥落、義弘の最期

12月21日午前6時ころ、幕府軍は2度目となる総攻撃を行いました。この戦いで大きな効果を発揮したと伝えられるのが、火攻めです。幕府軍によって放たれた火は、強風にあおられて広がり、義弘の築いた井楼や櫓を焼き払ってしまいました。さらに、行軍を阻んでいた東側の湿地帯では、幕府軍が予め深田に切った草を埋め込んで道を作っておいたため、行軍しやすくなってきました。

入念な準備の結果、幕府軍は堺城に攻め込むことに成功し、城は陥落しました。義弘もこの日の戦いで命を落としてしまいます。

『応永記』によると、義弘はさまざまな武将たちと渡り合い、寡兵ながら奮戦します。最後はただ一人残った側近の森民部丞とともに、畠山満家を討ち取るために突撃します。「天下無双の名将大内左京権大夫義弘入道だぞ、討ち取って御所(義満)の御目にかけよ」と叫んで斬りかかりますが、100名あまりの兵に取り囲まれて壮絶な最期を遂げました。享年44でした。

義弘とともに籠城していた弟の大内弘茂は、幕府に降伏しました。これにより堺での戦いは決着し、応永の乱は幕府側の勝利に終わります。鎌倉公方の足利満兼の援軍は間に合わず、反幕府勢力による連携は崩れました。

幕府への奉公によって6カ国の守護にまで上りつめた義弘。最期はその幕府と戦って生涯を終えたのです。

応永の乱後の大内氏

義弘の死後、幕府は大内氏の和泉・紀伊・石見・豊前の守護職を取り上げ、降伏した弘茂には周防・長門を安堵しました。

しかし、本国に残っていた義弘の弟・大内盛見はこの処置に従わず、弘茂と家督を争います。最終的には盛見が勝利し、幕府も九州統治の必要性などから、その継承を認めることになりました。義弘は敗死しましたが、大内氏はその後も存続したのです。

【参考文献など】
  • 「足利義満」森茂暁/著(KADOKAWA)
  • 「大内義弘-天命を奉り暴乱を討つ」平瀬直樹/著(ミネルヴァ書房)
  • 「大内義弘」松岡久人/著(戎光祥出版)
  • 大内文化まちづくり
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。