明徳の和約と南北朝合一約60年続いた南北朝時代を終わらせた歴史的和睦

明徳の和約と南北朝合一

明徳の和約と南北朝合一

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事件簿
事件名
明徳の和約と南北朝合一(1392年)
場所
京都府
明徳の和約とは
  • 明徳の和約とは、元中9年・明徳3年(1392年)に南朝と北朝の間で結ばれ、約56年続いた南北朝の分裂を終結させた和約である。
  • 南朝の後亀山天皇が三種の神器を北朝の後小松天皇へ譲渡したことで、二つに分かれていた朝廷が合一した。
  • 和約は室町幕府第3代将軍・足利義満の主導で進められ、細川頼之や大内義弘らが南朝との交渉に関わった。
  • 条件には三種の神器の譲渡、南朝の大覚寺統と北朝の持明院統による皇位の交互継承、両統への領地配分が定められた。
  • 三種の神器を正式に譲る形を取ることで、南朝を正統な皇統として扱い、その体面を保つ配慮がなされた。
  • 足利義満は南朝と守護大名が結びついて反乱を起こす余地をなくし、統一された朝廷への影響力を強めようとした。
  • 合一後、北朝は後亀山天皇からの正式な譲位を認めず、義満の死後には両統迭立の約束も反故にされた。
  • 和約への不満を抱いた南朝の皇族や遺臣は後南朝として抵抗を続け、南北朝の対立は合一後も長く尾を引いた。

鎌倉幕府の滅亡後、日本では天皇が一度に二人存在するという異例の時代が約60年にわたって続きました。それが「南北朝時代」です。京都の北朝と吉野の南朝が互いに正統な朝廷を名乗り、武士や公家も二つの朝廷に分かれて争いました。この長い分裂にひとまず終止符を打ったのが、元中9年/明徳3年(1392年)に結ばれた「明徳の和約」です。今回は明徳の和約と南北朝合一について、詳しく解説します。

南北朝分裂の遠因となった鎌倉中期の皇位継承問題

南北朝の分裂のきっかけとなったのは、後嵯峨上皇の跡継ぎ問題です。政務の実権を握っていた「治天の君」こと後嵯峨上皇は、明確な皇位継承順位と次代の治天の君を決めないまま、文永9年(1272年)に亡くなります。

このため、上皇の第三皇子である後深草天皇を担ぐ持明院統と、第七皇子の亀山天皇を担ぐ大覚寺統が対立します。これに対し、鎌倉幕府は文保元年(1317年)、各系統が10年ごとに交代で皇位につく「両統迭立」を提案。その後慣例化していきます。

ところが文保2年(1318年)2月に第96代天皇として即位した、大覚寺統の後醍醐天皇はこうした両統迭立の枠組みにとらわれず、自らの系統による皇位継承を目指しました。 後醍醐天皇は数度の討幕計画の結果、隠岐島に流されますが脱出し、足利尊氏の味方を得て政権を樹立。元弘3年・正慶2年(1333年)から「建武の新政」と呼ばれる自らを中心においた新体制を開始しますが、武士たちとの対立が深まり、わずか数年で失敗しました。

建武3年/延元元年(1336年)、後醍醐天皇と対立した足利尊氏は持明院統の光厳上皇を擁立し、後醍醐天皇軍を破って京に入りました。そして、同年8月に光厳上皇の弟・豊仁親王を光明天皇として即位させました。これが北朝です。

一方、後醍醐天皇は皇位の正当性を示す「三種の神器」とともに京を脱出して奈良県吉野へ移り、吉野朝廷、すなわち南朝を開きました。こうして日本には二人の天皇と二つの朝廷が存在する南北朝時代が始まったのです。

武士たちに利用された南北朝の争い

朝廷が北朝と南朝に別れるとともに、武士たちも南朝派と北朝派に分かれ、各地で争いを繰り返しました。南朝は、後醍醐天皇から受け継いだ「三種の神器」を保持し、自らこそ正統な皇統であると主張していました。一方の北朝は、京都を拠点とし、室町幕府の支援を受けて政治を行っていました。

この争いはなんと56年も続くことになりますが、長引いた原因は、両朝の対立が守護大名たちにより政治利用されたためです。室町幕府の成立初期は、幕府の権力はそこまで強くなく、地方の有力守護大名たちがかなりの力を持っていました。

このため、室町幕府と対立した守護大名が権威を求めて南朝に接近し、南朝の後ろ盾のもとで反乱を起こしました。例えば観応元年/正平5年(1350年)10月から始まった、足利尊氏・重臣の高師直と、尊氏の弟・足利直義が争った「観応の擾乱」では、直義が南朝と手を組んでいます。

「正平の一統」で南北朝が一時統一

「観応の擾乱」では直義が勝利し、政治的な主導権を握りました。また、このとき、一時的に南朝と北朝が、南朝が優勢な形で和睦します(正平の一統)。北朝方の崇光天皇と皇太子の直仁親王は廃され、天皇は南朝の後村上天皇に、年号は「正平」に統一されました。

これで落ち着けばよかったのですが、尊氏は南朝の綸旨を得た上で、京を息子の義詮に任せて再び直義討伐に乗り出し、直義を下しました。その後、直義が急死すると(※尊氏の毒殺説も)、南朝は尊氏排斥に乗り出します。

実は、尊氏が直義追討に注力している間に南朝は北朝の神器を接収。さらに京を奪還しようと武力行使に出たのです。閏2月には南朝軍が義詮を破って京を奪取し、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子の直仁親王を山城男山(現京都府八幡市)に遷しています。

敗れた義詮は近江に逃れて軍勢を整えて京を取り返しますが、3人の上皇と廃太子を連れ去られ、さらに三種の神器まで南朝方に奪われてしまいました。

これでは北朝方の次代の天皇を選ぶべき上皇がいません。このため、足利義詮ら幕府は苦肉の策として、光厳上皇の母・広義門院の令旨を得て、光厳上皇の皇子・弥仁親王を「後光厳天皇」として即位させました。

南北朝合一への模索

その後、南朝と北朝は京を巡って幾度も争います。しかし、南朝の中にも北朝と和睦すべきだと考える和平派がいました。南朝の後村上天皇は北朝に和睦を提案しますが失敗。次代の南朝天皇である長慶天皇は主戦派だったため、この時代は一度も和睦の話が出ませんでした。

しかし、南朝は何度も北朝と戦うなかで思うような戦果を出せず、有力武将を失い、次第に経済力・軍事力ともに低下していきます。次第に南朝が不利になる中、長慶天皇に代わって和睦派の後亀山天皇が即位すると、南朝は北朝に和睦を働きかけるようになります。

一方、北朝も度重なる南朝の京都侵攻に加え、朝廷内部の皇位継承争いなど、さまざまな問題を抱えていました。

実は、後光厳天皇とその兄・崇光上皇の間で、どちらの息子が天皇の跡を継ぐかで争いが起こっていたのです。結局幕府の仲介もあり、後光厳天皇の皇子が後円融天皇として即位しました。この後円融天皇を後押ししたのが足利義満です。

足利義満が進めた守護大名の弱体化

北朝の後ろ盾となった室町幕府ですが、このころ幕府が脅威を感じていたのは朝廷ではなく、力をつけてきた有力守護大名でした。このため第三代将軍の足利義満は積極的に守護大名たちの権力をそごうと画策します。各守護の一族の抱える火種を煽り、内紛や反乱を起こさせたのです。

元中4年/嘉慶元年(1388年)、美濃・尾張・伊勢を治める土岐氏のお家争いを巻き起こし(土岐康行の乱)、尾張と伊勢を没収。さらに元中8年/明徳2年(1391年)には11か国の守護職を保有しており、「六分一殿」と呼ばれていた山名氏をターゲットに「明徳の乱」を起こさせます。山名氏の跡継ぎ争いを煽り、最終的には自らの命令で山名氏清を討伐し、得た領地を自らの腹心らに与えたのです。

戦の結果、義満方についた山名一族に残されたのは但馬、伯耆、因幡の3か国だけで、他の所領は別の大名たちのものとなります。このとき、山名氏の所領だった和泉国と紀伊国は大内義弘が得ていますが、義弘は義満の腹心で、両国とも南朝の勢力範囲でした。このため、明徳の乱は南北統一に向けた義満の策だったという説もあります。

南北朝合一への道のり

明徳の乱の鎮圧により、室町幕府が手を焼いていた有力守護大名たちはほぼ力を失いました。これにより、足利義満はかねてからの目標だった南北朝の統一に向けて注力していきます。

まずは「康暦の政変」により勢力争いに敗れて失脚した、前管領の細川頼之を幕政に復帰させました。管領とは、足利将軍に次ぐ立場で将軍を補佐する人物のこと。義満の後見役として、義満が幼い時は将軍代行を務めていました。

ただし、当時は出家していたため、弟の細川頼元が管領となり、頼之はその後見役として幕政に復帰しました。頼之はかねてから南北朝合一に取り組んでおり、ここで和睦への動きは一気に進みます。

頼之は元中9年/明徳3年(1392年)に亡くなりますが、その後は大内義弘が中心となり、南朝との和睦交渉を進めていきます。南朝は先に述べたとおり軍事的にも財政的にも厳しい状況にあり、和睦に対しても積極的でした。

明徳の和約①義満が提示した3つの条件

元中9年/明徳3年(1392年)閏10月5日、南朝が保持していた三種の神器が北朝の後小松天皇のもとへ渡され、南北朝合一が実現しました。56年にわたる朝廷の分裂が終結を迎えたわけですが、その一か月前、義満は最終的な条件を書面にして提示しています。内容としては以下の3点です。

  1. 南朝の後亀山天皇は正式な儀式の上、三種の神器を北朝の後小松天皇に譲渡すること
  2. 以後の皇位継承は、大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)が交互に行うこと
  3. 諸国国衙領は大覚寺統(南朝)の領地、長講堂領は持明院統(北朝)のものとすること

①については南朝の天皇を認め、正当な皇位を意味する三種の神器を北朝に「譲る」とすることで南朝の体面をつぶさないようにという配慮が含まれていました。

この内容に合意した南朝は、10月28日に三種の神器とともに吉野を出発。雨で足止めされながらも閏10月2日に京に到着し、閏10月5日に内裏の土御門殿にて神器を譲り渡しました。北朝ではこれを祝い、内侍所御神楽が3夜にわたって行われました。

明徳の和約②義満が南北朝合一を進めた目的は?

足利義満が南北朝合一を進めた理由の一つは、幕府に反発する守護大名が南朝と結び、反乱を起こす余地をなくすためでした。さらに義満は、分裂していた朝廷を一つにまとめ、その朝廷に強い影響力を及ぼすことに成功します。こうしたことから、義満は「公武統一政権」の実現を目指していたとする説もあります。

南北朝合一後、義満は応永元年(1394年)に太政大臣に就任。翌応永2年(1395年)には出家しましたが、将軍職を譲った後も政治の実権を握り続け、公家と武家の双方に大きな影響力を持ちました。

明徳の和約③約束はなぜ守られなかったのか

明徳の和約の内容は、足利義満、つまり室町幕府の主導で決められていました。北朝にとってはほぼ事後報告だったようで(領地問題については事前に義満が働きかけていた形跡があり)、この和約を全面的に受け入れていたとはいいがたい状況でした。

領地問題については近年発見された史料などから、少なくとも義満が生存している間は、約束通り後亀山天皇が諸国国衙領を支配していた可能性が高いとの研究結果が出されています。

一方で問題となったのは、北朝側が後亀山天皇から後小松天皇への譲位を正式なものとして認めなかったことと、両統迭立が後に反故にされたことです。

南北合一後の課題①後亀山天皇の尊号問題

無事に南北合一を果たした朝廷でしたが、後亀山天皇の待遇をどうするかという問題が残りました。明徳の和約では、後亀山天皇は北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡し、皇位を「譲った」わけですが、北朝方としては南朝の天皇を認めるわけにはいきません。

通常、譲位した天皇には「太上天皇(上皇)」の尊号を贈りますが、北朝方は当初これを拒否しました。しかし、明徳4年(1393年)に後亀山天皇が義満経由で天皇としての後持仏を後小松天皇に返却し、明徳5年(1394年)2月に天竜寺の長老坊で義満と初めて面会し、協議した結果、落としどころが見つかります。結局、朝廷は2月23日、後亀山天皇を「不登極帝(=即位しなかった天皇)」として扱ったうえで、太上天皇の尊号を贈りました。

ちなみに、即位せずに太上天皇の尊号を贈られた例は、状況は異なりますが鎌倉時代前期の後高倉院など先例があります。このため、義満は「先例があったから」と大義名分を掲げ、後亀山天皇に尊号を贈るよう働きかけることができたのです。

南北合一後の課題②両統迭立はなぜ実現しなかったのか

明徳の和約で、皇位は両統で交互に継承することが約束されました。これにのっとり、足利義満は後亀山天皇に尊号を贈り、出家後は金銭的援助もおこないました。さらに北朝側の後小松天皇の皇太子に同じ北朝方の皇子を立てないように、意識的に動いていたことが分かっています。

ところが、応永15年(1408年)に義満が亡くなり、後を息子の足利義持が継ぐと、両統迭立の約束は反故にされます。幕府は後小松天皇の第一皇子である実仁親王を皇太子に擁立。応永19年(1412年)8月29日、後小松天皇は譲位し、親王は称光天皇として即位しました。なお、その後も後小松天皇は院政を敷いて実権を握り続けます。

なぜ両統迭立は成り立たなかったのか。当初から北朝側に実行する意思が乏しかった、北朝の公家たちの強い反対があった、義満の死去により和約を実現させる政治的圧力が失われたため、など諸説あります。

明徳の和約破綻後に続いた「後南朝」

明徳の和約が破られたことで、南朝の皇族や遺臣たちは強い不満を抱き、武装蜂起して朝廷と争うこととなります。こうした勢力は「後南朝」と呼ばれており、南北合一後も大和国に残った南朝の遺臣たちが中心でした。

嘉吉3年(1443年)には、後南朝勢力が京都御所へ侵入し、三種の神器の一部を持ち去る「禁闕の変」を起こしています。ちなみに盗まれた神器は、順次朝廷に取り戻されました。しかし、後南朝勢力の活動は応仁の乱期まで続き、南北朝時代が終わってもその対立の火種は長く残り続けたのです。

【参考文献など】
  • 「足利義満」森茂暁/著(KADOKAWA)
  • 「足利義満」臼井信義/著(吉川弘文館)
  • 「南北朝動乱 太平記の次代がすごくよくわかる本」水野大樹/著(実業之日本社)
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。