明徳の乱足利義満と「六分一殿」山名氏の戦い

明徳の乱

明徳の乱

記事カテゴリ
事件簿
事件名
明徳の乱(1391年)
場所
京都府
明徳の乱とは
  • 明徳の乱とは、元中8年/明徳2年(1391年)に起きた、室町幕府と山名氏の戦いのこと
  • 山名氏は全国66か国のうち11か国の守護職を持ち、「六分一殿」と呼ばれるほど強大な守護大名だった
  • 室町幕府3代将軍・足利義満は、山名氏内部の対立を利用し、その勢力を弱体化させようとした
  • 山名満幸・山名氏清らは義満の対応に反発して挙兵し、京都へ攻め上った
  • 戦いは京都の内野周辺で行われ、山名軍はわずか一日で敗北した
  • 明徳の乱の結果、山名氏の守護国は大きく削減され、足利義満による将軍権力の強化が進んだ

元中8年/明徳2年(1391年)に起きた「明徳の乱」は、室町幕府第三代将軍・足利義満の時代、有力守護の山名氏が起こした反乱です。当時、全国には66か国がありましたが、山名氏は11か国の守護職を保有しており、「六分一殿」と呼ばれるほど強大な勢力を誇っていました。しかし、明徳の乱の結果、足利義満によりその力を大きく削られることとなります。今回は明徳の乱について、背景を含め詳しく解説していきます。

有力守護・山名氏と分国支配

南北朝時代から室町時代初期にかけての室町幕府では、将軍だけでなく各地の有力な守護たちが大きな権力を持っていました。守護たちは軍事力と経済力を背景に独自の勢力を築き、ときには将軍家に匹敵するほどの影響力を持つこともありました。そのなかでも最大級の勢力を誇ったのが山名氏です。

山名氏は清和源氏新田義重の子・義範を流祖とする武家で、上野国緑埜郡山名郷(現群馬県高崎市)を発祥の地としていました。そんな山名氏が急成長したのが、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけた活躍した山名時氏の時代です。

鎌倉幕府末期の混乱期に、山名時氏は新田一族の惣領である新田義貞には従わず、足利尊氏に従って各地で功績を挙げることで勢力を拡大しました。伯耆守護に任ぜられた後は、丹波・丹後・因幡・美作の守護職を保有しています。

正平5年/観応元年(1350年)に起きた、足利尊氏と弟の足利直義が争った内乱「観応の擾乱」では、山名時氏は当初直義側につきますが、最終的には尊氏側こと幕府に帰順しました。

その後、時氏は守護職を息子や一族に分有します。こうして山名氏は分国支配を続けながら急速に発展していきます。

山名氏の惣領だった時氏が建徳2年/応安4年(1371年)に亡くなると、長男の師義が跡を継ぎますが、早くも5年後の天授2年/永和2年(1376年)にこの世を去ります。

師義の嫡男が病弱だったことなどから、跡継ぎは時氏の5男である山名時義に決まりました。しかし、跡継ぎを決定する際に、兄弟(4男)の氏清と対立したようです。

一見順調に思える山名氏ですが、惣領が短期間で代わって影響力が弱まったこと、分有統治が進むにつれ、各地の地元出身者の家臣たちが力を増したことなどにより、山名氏内で有力者が対立するようになります。こうして山名氏は内部分裂に苦しみ、それが明徳の乱の発生の一因となったのです。

「六分一殿」」呼ばれる強大な守護に

こうした守護たちの持つ強い力をよく思わなかったのが、第3代室町幕府将軍の足利義満でした。義満は応安元年(1368年)に将軍になると、当初は父・足利義詮が後見人として定めた細川頼之のもとで政権を運営します。

しかし、守護統制策を打ち出す頼之に反対派が出現。その一人が斯波氏で、天授5年/康暦元年(1379年)に起きた「康暦の政変」で細川頼之は斯波氏ら反頼之派により失脚してしまいます。この反頼之派に山名氏も入っており、政変後は出雲、隠岐、備後を得ています。

こうして、山名氏は一族で和泉、紀伊、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲、美作、備後、若狭の守護に補任。全国66か国のうち11か国の守護職を保有、つまり山名氏だけで全国のおよそ6分の1を支配することになり、このことから「六分一殿」と呼ばれるようになりました。

細川頼之の失脚は、足利義満が将軍の権力を強化するために仕組んだことという説がありますが、その後の義満は有力守護の勢力を抑え、将軍権力を強化する政策を次々と進めていきます。

足利義満と将軍権力強化への道

足利義満は自らの権力を強化し中央集権体制を確立するため、力を持つ守護たちを次々と弱体化させていきます。また、この時義満は南北朝の統合をめざして交渉している最中。力を持った守護たちの介入を防ごうと考えていたようです。

このとき義満がとったのは、各守護の一族の火種を煽り、内紛を起こさせることでした。まずは美濃・尾張・伊勢を治める土岐氏をターゲットに設定。元中4年/嘉慶元年(1388年)に土岐氏の惣領・土岐頼康が亡くなったことを機会とし、後継者争いを演出しました。頼康の跡を継いだのは頼康の養子(甥)の土岐康行でしたが、義満は康行の弟である土岐満貞に尾張を与えると決めたのです。

これに反発したのが尾張守護代だった、康行の従兄弟の土岐詮直で、尾張を訪問した満貞を戦闘の上追い返しました。義満はこの好機を逃さず、満貞に康行討伐を命じました。こうして起こった「土岐康行の乱」では、康行は敗北し没落。土岐氏の尾張と伊勢は没収され、満貞は尾張を得ました。

明徳の乱①山名氏が守護弱体化策のターゲットに

続いて足利義満がターゲットにした守護が、「六分一殿」こと山名氏でした。当時、山名氏では一族内で守護職や所領の配分をめぐる争いが続いていました。義満は土岐氏の時と同じことを山名氏に対しても仕掛けます。そう、内紛をあおって反乱を誘発し、それを自らが討伐するというマッチポンプを起こしたのです。

このころ、山名氏は元中6年/康応元年(1389年)に山名時義が亡くなったことで、再び跡継ぎ問題が勃発していました。時義の息子で跡を継いだ惣領の山名時熙が、弟の氏之とともに一族内の主導権を握ろうとしたのに対し、山名氏清とその娘婿にあたる山名満幸が反発したのです。ちなみに満幸は山名時氏の長男・師義の4男です。

整理すると、山名時氏の死後に跡を継いだのが①長男(師義)で、次に②5男(時義)、最後に③5男の息子(時熙)でした。この5男の息子(時熙)に対し、長男の息子(満幸)と4男(氏清)が反発したということになります。

その後、山名氏の内部では5男の息子(時熙)と長男の息子(満幸)の2大派閥が争うようになります。

明徳の乱②足利義満が山名時熙討伐を命じる

こうした山名氏の内紛は足利義満にとって大きなチャンスでした。義満は元中7年/明徳元年(1390年)、生前の時義のふるまいをとがめ、責任を取らせる形で時義の息子である山名時熙と氏之の討伐を、山名氏清・満幸に命じました。

2人は討伐を実施し、義満から恩賞として氏清は但馬を、満幸はこれまでの出雲に加えて伯耆と隠岐の守護職を得ています。

なお、「討伐」といいますが、2人とも死んではおらず失脚しただけです。

明徳の乱③山名満幸が室町幕府に反旗を翻す

山名氏の分断に成功した足利義満が次に打った手は、戦いに勝利した山名満幸の追い落としでした。元中8年/明徳2年(1391年)、義満は満幸が仙洞領出雲国横田庄(後醍醐天皇の旧荘園)の年貢を横領したことを口実に、満幸を責めました。そして守護を解任し、京から追い出します。その一方で、義満は討伐した山名時熙・氏之を赦免し、京に呼び戻しました。

こうした義満の手のひら返しともいえる対応に怒った満幸は、氏清に挙兵の決意を伝えます。氏清も義満が山名氏を潰す考えであると考え、「やられる前にやれ」と挙兵に賛同。こうして、元中8年/明徳2年(1391年) 12月、満幸・氏清は挙兵します。

明徳の乱④わずか一日で終結した戦い

それでは、明徳の乱について、乱の直後、数年以内に成立したとみられる軍記物語『明徳紀』(作者不詳、足利義満の側近か)や『太平記』などから詳しく見ていきます。挙兵後、山名氏清は和泉・紀伊勢を率いて宇治八幡から、山名満幸は丹波から軍勢を率い、それぞれ京に進軍します。その数は合計5000〜8000騎でした。北朝に敵対していた南朝からは「御旗」をもらっています。

これに対し、足利義満は1万余りの兵(諸説あり)で迎え撃ちます。東寺には今川、赤松、六角氏らの軍を派遣し、細川、京極、斯波、赤松、大内、一色氏らの軍に内野(京都市中心部、平安京の大内裏跡地)を包囲させました。

12月30日、両軍は内野で激突。『明徳紀』では二条大宮で、義満方の大内義弘が氏清方の先鋒の山名上野守、小林上野守と戦った様子が描かれています。戦いの結果は義弘の勝利でした。

続いて満幸軍2000が内野に入りますが、細川・畠山・京極軍3000、さらに追加投入された義満自身が率いる馬廻衆5000と戦って敗れ、敗走しました。

その後、氏清の軍勢2000が内野に入り二条大宮まで進みます。義満方の赤松義則と大内義弘の軍との戦いになりますが決着がなかなかつきません。そこで、義満方の一色氏や今川氏などが加勢すると、山名軍は総崩れとなりました。氏清は最後、一色詮範と一騎打ちとなり、最終的には詮範・満範親子に討たれました。

こうして明徳の乱はわずか1日で山名軍の敗北で終了しました。幕府軍の死者は約260人、山名軍の死者は900人弱でした。なお、丹波に逃げ延びた満幸は、明徳3年/元中9年(1392年)3月に秘密裏に京に戻りますが、佐々木高詮に討ち取られています。

明徳の乱の論功行賞で山名氏は3か国の守護に

明徳3年/元中9年(1392年)正月、足利義満は明徳の乱の論功行賞を行いました。11か国を治めていた山名氏でしたが、このとき義満方についた山名時熙・氏之と、反乱で氏清方についたものの、許された氏清の甥の山名氏家の3名の領地が安堵されました。なお、それぞれ時熙が但馬、氏之が伯耆、氏家が因幡です。

そのほかの領地は他の守護に明け渡されました。山城は畠山基国、丹波は細川頼元、丹後は一色満範、美作は赤松義則、和泉・紀伊は大内義弘、隠岐・出雲は京極高詮に与えられています。

さらに義満はその後も守護大名への統制を強化しました。応永6年(1399年)には大内義弘が反乱を起こしますが、義満はこれを鎮圧します。いわゆる応永の乱で、その後山名氏は備後、安芸、岩見3国の守護を任うようになりました。

有力守護大名の力をそいだ義満は、念願の南北朝統一に向けて突き進み、元中9年/明徳3年(1392年)閏10月に約56年ぶりに「明徳の和約」を締結し、南北朝分裂に終止符を打ったのです。

明徳の乱後の山名氏

明徳の乱により、11か国から3か国まで領地が削減された山名氏。しかし、一族そのものが滅亡したわけではありません。守護職を引き続き保持し、その後も室町幕府の有力守護として存続しました。山名時熙はその後も長く幕府に仕え、6代将軍の足利義教時代までさまざまな形で幕府を支えました。

応永6年(1399年)の応永の乱では足利義満に協力して勢力回復を図り、室町時代中期には再び有力大名として台頭。そして応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱では、山名宗全(持豊)が西軍総大将として細川勝元と対峙しています。

【参考文献など】
  • 「足利義満」森茂暁/著(KADOKAWA)
  • 「室町幕府の地方支配と地域権力」市川裕士/著(戎光祥出版)
  • 「末代記録」としての『明徳記』和田琢磨/著(論文)
  • 明徳記
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。