三管領・四職の制室町幕府の政治体制
三管領・四職の制
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- 事件名
- 三管領・四職の制(1398年〜1485年)
- 場所
- 京都府
- 三管領・四職とは
- 三管領・四職とは、室町幕府の政治と軍事を支えた有力守護大名の家格と役職を示す呼称である。
- 三管領は、将軍を補佐して幕府政務を統括する「管領」を務めた斯波氏・細川氏・畠山氏の3家を指す。
- 管領はもともと「執事」と呼ばれ、将軍の補佐に加えて恩賞、訴訟、裁判などを担い、のちに幕府政務全般を統括する役職となった。
- 四職は、京都の治安維持や軍事、裁判などを担当する侍所の長官「所司」を務めた赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏の4家を指す。
- 三管領の斯波氏・細川氏・畠山氏はいずれも足利氏一門の有力守護大名で、将軍に次ぐ重要な立場を担った。
- 四職の各家も有力守護大名として幕府政治に関わり、将軍に近い相伴衆として重要な地位を占めた。
- 三管領・四職は足利義満が制度として一度に制定したものではなく、幕府の政治機構が整う過程で特定の家が役職を担うようになり、次第に家格として固定されたと考えられている。
- 応仁の乱以降は守護大名の勢力変化とともに管領・侍所所司の機能が衰え、やがて制度そのものも形骸化していった。
室町幕府を支えた重要な役職として知られるのが「三管領・四職(さんかんれい・ししき)」です。有力守護大名が就任する役職で、管領を務めた斯波氏・細川氏・畠山氏が「三管領」、侍所の長官である所司を務めた赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏が「四職」と呼ばれました。今回は三管領・四職の成立やそれぞれが担った役割などについて、詳しく解説します。
三管領・四職の「管領」とは
三管領とは前述の通り、室町幕府で将軍を補佐する「管領」に就任した有力守護大名の斯波氏・細川氏・畠山氏の3家を指す言葉です。この「管領」はもともと「執事」と呼ばれる役職でした。
室町幕府では初代将軍・足利尊氏の時代から、将軍を補佐する重要な役職として「執事」が置かれていました。尊氏の執事として有名なのが高師直です。もともと足利家の執事(家宰)を務めていた師直でしたが、そのまま将軍家の家政を預かり、さらに恩賞や訴訟・裁判等を扱うようになり、権限が広がりました。この結果、執事=将軍家の右腕と呼ばれるほど権力を得ることになります。
高師直は観応元年(1350年)10月から正平7年(1352年)2月まで続いた「観応の擾乱」の際に死亡。乱の終結後、仁木頼章が執事に就任しますが、足利尊氏の死とともに執事を退きます。続いて室町幕府第2代将軍・足利義詮の執事に細川清氏が就任しますが、権力争いに敗れて失脚しました。
その後、貞治元年(1362年)に父・斯波高経の貢献を受け、息子の斯波義将がわずか13歳で執事に就任します。この義将のころから、執事は「管領」と称されるようになりました。
管領の確立と「三管領」へ
管領が確立したのは斯波義将の次代の細川頼之の頃だと言われています。頼之は第3代将軍・足利義満の後見役として活躍しました。このころ、管領はこれまで担っていた将軍の補佐役に加え、裁判を担当していた引付頭人の職務を引き受けるようになり、政務の一切を取り仕切るようになります。
細川頼之は康暦元年(1379年)閏4月、斯波義将らにより失脚させられ(康暦の政変)、次の管領として義将が就任します。その後、義将は明徳2年(1391年)に管領を辞任します。代わって頼之の弟である細川頼元が管領に就任しますが明徳4年(1393年)に退任し、義将が再び管領に就任します。
こうした頻繁な管領交代の理由ははっきり分かっていませんが、足利義満が政治を主導するようになり、有力守護大名である斯波氏・細川氏の権力を削ぐために実施した、という説もあります。
斯波義将は応永5年(1398年)に管領を辞職し、代わって畠山基国が管領に就任すると、以降は斯波氏・細川氏・畠山氏が交代で管領に就任するようになります。こうして管領は足利将軍に次ぐ立場として、幕府の政務を統括していくのです。
三管領は名門・足利一族の出身
三管領に選ばれた斯波氏・細川氏・畠山氏は足利氏の一門でした。斯波氏は鎌倉時代に足利泰氏の長男・足利家氏が祖で、陸奥国斯波郡を領有していました。家氏のひ孫・足利高経は足利尊氏・義詮のもとで活躍し、その高経の4男・義将の時代に「斯波」を名乗るようになります。ところが、斯波氏は後に家督争いのために分裂し、応仁の乱の際には一族が東軍と西軍に分かれました。
細川氏も足利氏一門で、畿内や四国を中心に勢力を拡大した一族です。足利尊氏の先祖である足利義兼の兄弟・義清が祖先でした。孫の足利義季が三河国額田郡細川郷を本領とし、「細川」と名乗ったのが細川氏の始まりです。
室町時代には細川頼之や勝元をはじめ数々の管領を輩出。応仁の乱後は細川政元が管領に就任し、将軍を引きずり落として新しい将軍を据えるなど莫大な権力を得ることとなります。戦国時代には多くの一族が没落するも、分家筋の細川藤孝(幽斎)の一族が織田・豊臣・徳川氏に仕えて江戸時代には肥後熊本藩主となり、明治維新以降は華族となっています。
畠山氏も足利氏一門の有力守護大名です。もとは桓武平氏の流れをくむ一族でしたが、鎌倉時代に北条氏に滅ぼされ、畠山氏の名跡を足利義兼の庶長子である足利義純が継ぎました。
室町時代には河内・紀伊・越中の守護を務め、義満の時代に畠山基国が管領となり、三管領として管領を輩出する家となります。ところが、畠山氏は熾烈な家督争いを繰り広げることとなります。基国の孫の畠山持国の時代、養子にとった弟の畠山持冨と、その後生まれた庶子の義就の間で跡継ぎ問題による内紛が発生。やがて内紛は拡大し、応仁の乱の大きな原因となるのです。
三管領・四職の「四職」は何を担当したのか
続いて、三管領・四職の「四職」について見ていきます。「四職」は、室町幕府のなかで軍事などを担当した「侍所」の長官「所司」(侍所頭人とも)に就任した赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏の四家を指します。
ただし、所司を務めたのは上記四家だけではありません。初期には細川氏や畠山氏なども就任しており、永享11年(1439年)、第6代将軍・足利義教の時代にも土岐持益が所司に就任しています。 このため、所司を務めた家として赤松・一色・京極・山名の四家に今川・土岐両氏を加えた「六職」とする説もあります。
とはいえ、四家が将軍に付き添って宴席や外出に同伴する「相伴衆」と呼ばれる側近だった一方で、今川氏と土岐氏は家格が一段劣る国持衆と呼ばれる守護大名でした。このため「四職」は「所司を担当した相伴衆」だったのでは、という説もあります。
侍所は鎌倉時代、全国の地頭御家人を統率し、裁判を担当する役職でしたが、室町時代に入り各守護の権力が増したことで、地頭御家人を統率する役割は低くなりました。
また、第2代将軍の足利義詮のころ、もとは検非違使庁が持っていた京の治安維持、裁判などを担当するようになります。さらに所司が山城国守護を兼務するようになったことで京の行政を担当するようになりました。
しかし、応仁の乱の後、所司は次第に衰退していきます。文明17年(1485年)に京極材宗が所司に就任しましたが、その後は任命された形跡がなく、やがて幕府の奉行人が治安維持を担当していくこととなり、自然消滅したようです。
「四職」と呼ばれた守護大名たち
赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏は全て足利一族だったわけではありません。赤松氏は播磨の豪族で、足利尊氏に味方したことで室町幕府内で取り立てられました。細川氏とは関係が深く、管領の細川頼之を補佐したほか、婚姻により親族関係にありました。
嘉吉元年(1441年)、第6代将軍の足利義教が赤松氏本家を冷遇したことで赤松満祐・教康が将軍を暗殺。山名宗全ら幕府軍に討伐されますが、赤松氏の遺臣が長禄元年(1457年)に後南朝を襲って皇胤を討ち、翌年神璽を奪還した(長禄の変)ことで、赤松氏は再興しました。
一色氏は足利一門で、足利泰氏の子・一色公深が祖です。室町幕府の開かれた当初は九州探題に任じられましたが、後に若狭国・三河国・丹後国などの守護大名となり、侍所所司となりました。足利氏の一門という家格の高さから、四職の筆頭とされています。
京極氏は近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉時代に佐々木信綱の四男・佐々木氏信が京都の京極高辻に館を構えたことから、京極氏と呼ばれるようになります。足利尊氏に仕えた佐々木道誉(京極高氏)の活躍により、室町時代には近江北部をはじめ、出雲・隠岐・飛騨などの守護を務めました。京極氏も侍所所司を務め、幕府政治の一角を担っています。
山名氏は清和源氏の流れである新田氏の一族で、南北朝時代には南朝に参加した新田義貞らと新田一族とは異なり、足利尊氏に従って勢力を拡大。山名時氏がさまざまな功を立てたことで、中国地方を中心に勢力を伸ばします。最盛期の山名氏は全国66か国のうち11か国の守護を務めたことから、「六分一殿」と呼ばれたとされています。
ところが、有力守護大名の力を削ごうとした足利義満が、山名氏の跡継ぎ問題を煽って内乱を誘発させます。元中8年/明徳2年(1391年)に起きた「明徳の乱」により、山名氏の守護国は但馬、伯耆、因幡の三国に削られました。その後、応永6年(1399年)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に反旗を翻した応永の乱の活躍で守護国を六国に回復。山名宗全の時代に再び権力を得るも、細川勝元と対立した結果、応仁の乱で西軍の総大将に就任します。応仁の乱後は徐々に衰退し、戦国時代に本家は滅亡しました。但馬山名氏の山名豊国が戦国時代を生き残り、所領を得ています。
三管領・四職を成立させたのは足利義満?
江戸時代前期の成立とみられる『南方紀伝』では、応永5年(1398年)に第3代将軍・足利義満が朝廷における五摂家・七清華の制に倣って三管・四職の家を定めたという記述があります。
しかし、実態としては、幕府の政治機構が整えられていくなかで、特定の有力守護大名が管領や侍所所司を務めるようになり、次第にその家格が固定されていったようです。とはいえ、室町幕府の構造は足利義満のころまでに大まかに固まっており、義満が重要な役割を果たしたことは間違いありません。
三管領・四職の推移①管領の地位が足利義教により低下
ここからは、室町幕府の中心的存在となっていた管領にスポットライトを当て、足利義満以後、室町幕府の体制の中でどのように変化していったのかを解説します。
足利義満の死後跡を継いだ足利義持は、独裁的な政権運営をしていた義満とは異なり、守護大名のパワーバランスに配慮した政治を行いました。有力守護大名のもとへの渡御(御成)を実施し、主従関係を形成しつつも、重大事案が生じた際は、管領や有力な幕閣を集めた会議「大名衆議(評定・重臣会議などとも)」を開催して意見を募りました。
一方、第6代将軍の足利義教は管領の権力をそぐ方針で、大名衆議も個別諮問に変更。訴訟・裁判の場から管領を排除し、自ら裁く将軍親裁の体制を構築します。有力守護の家督相続などにも介入しており、足利義満時代への回帰をはかっていたとされています。
ところが、義教は嘉吉元年(1441年)6月24日、四職の赤松満祐・教康父子により暗殺されてしまいます(嘉吉の変)。これにより幕府は大混乱に陥り、再び管領の重要性が増すことになります。
三管領・四職の推移②幼い将軍が続き、管領の権力が拡大
義教の後を継いで第7代将軍となったのは長男・義勝。義教の死の直後に後継者として正式に認められ、翌嘉吉2年(1442年)11月に、元服とともにわずか9歳で将軍位につきました。幼い義勝を支えたのは管領の細川持之や畠山持国でした。ところが義勝は嘉吉3年(1443年)7月に死亡してしまいます。
後継者として決まった足利三春(後の義成、義政)は当時わずか8歳と幼かったため、幕閣たちは成長を待ってから将軍位に就けることを決定。このため約6年間、幕府は管領の畠山持国・細川勝元と有力大名による合議制で運営されました。こうして幼い将軍が2代続いたことで、管領や守護大名の力が増していくこととなります。
文安6年(1449年)4月、天皇から名を与えられた足利義成(享徳2年(1453年)に義政に改名)は14歳で第8代将軍となりました。
足利義成は畠山持国を管領とし、徐々に力をつけていきます。伊勢貞親や季瓊真蘂の側近を重用して親政を始め、守護大名たちの相続争いに積極的に介入していきます。このとき介入した畠山氏の家督争いが後に応仁の乱が起こる一因となります。
このまま親政が続くと思いきや、細川勝元や山名宗全ら守護大名たちの反発により、伊勢貞親や季瓊真蘂は失脚(文正の政変)。側近を失った義政による親政はとん挫し、以降は諸大名中心の政治となっていきます。
三管領・四職の推移③応仁の乱と管領の衰退
応仁元年(1467年)、ついに応仁の乱(応仁・文明の乱)が始まります。応仁の乱は三管領の斯波氏や畠山氏の家督争い、細川勝元と舅の山名宗全の争い、将軍家の後継問題などが複雑に絡み合って発生しました。東軍では細川勝元を中心に畠山政長や斯波義敏ら、西軍では山名宗全を中心に畠山義就や斯波義廉らが戦いました。
戦いは徐々に小競り合いに変化し、文明5年(1473年)には応仁の乱の旗頭となった山名宗全と細川勝元が相次いで死亡し、守護大名の多くは国元に戻りました。京周辺も次第に落ち着きを取り戻したことから、義政は足利義尚に将軍職を譲り、義尚が第9代将軍に就任します。その後も戦闘は続くものの徐々に沈静化していき、文明6年(1474年)には東軍と西軍の間で講和が成立。文明9年(1477年)に乱は終結しました。
応仁の乱で斯波氏・畠山氏が勢力を減退したことで、応仁の乱後は畠山政長を除けば細川氏が管領を務めるようになります。 特に権力を得たのが細川政元で、明応2年(1493年)に第10代将軍・足利義稙を廃位して第11代将軍の足利義澄を擁立(明応の政変)。将軍が管領によって廃立されたこの明応の政変を、戦国時代の始まりとする説も有力視されています。
しかし、永正4年(1507年)、永正の錯乱で政元が家臣により暗殺されると、細川氏は家督継承を巡って内乱状態になり衰退していきます。以降、管領職は任命されるものの徐々に形骸化し、自然消滅していくのです。
- 【参考文献など】
- 「室町幕府全将軍・管領列伝」日本史史料研究会/監修・平野明夫/編(講談社)
- 「図説室町幕府 増補改訂版」丸山裕之/著(戎光祥出版)
- 「シリーズ・室町幕府の御研究1 管領斯波氏」木下聡/編著(戎光祥出版)
- 「日本三大幕府を解剖する-鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕」河合敦/著(朝日新聞出版)
- 「日本中世史の核心-頼朝、尊氏、そして信長へ」本郷和人/著(朝日新聞出版)
- 「「室町殿」の時代-安定期室町幕府研究の最前線」日本史史料研究会/監修・久水俊和/編(山川出版社)
- 「足利義満」森茂暁/著(KADOKAWA)
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。