康暦の政変足利義満が細川頼之を失脚させた室町幕府内の政争
康暦の政変
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- 事件名
- 康暦の政変(1379年)
- 場所
- 京都府
南北朝時代の康暦元年(1379年)閏4月、室町幕府で将軍を補佐する最高職である管領の細川頼之が斯波義将らにより失脚させられました。「康暦の政変(こうりゃくのせいへん)」と呼ばれるこの政変は、室町幕府第三代将軍・足利義満の守役として長年義満をサポートしてきた頼之に代わり、ライバルの斯波氏の台頭を招きました。今回は康暦の政変について、分かりやすく解説していきます。
足利義詮が義満のサポート役として細川頼之を抜擢
室町幕府2代将軍・足利義詮の時代、足利将軍に次ぐ立場で将軍を補佐する「管領」には斯波義将がついていました。そもそも管領は、鎌倉幕府における「執権」や「執事」に近い役職で、義詮の時代に定められました。康安2年(1362年)に斯波義将が執事に就任しており、このころ執事から管領に制度が変わったとされています。義将は初代管領というわけです。
その後、義詮は病に倒れ、貞治6年(1367年)11月、次代の将軍としてまだ9歳の足利義満を指名し、政務を譲渡します。このころ斯波義将は権力闘争に敗れて失脚しており、反斯波氏だった細川氏から管領として細川頼之が選ばれました。義詮は頼之を義満の後見役とし、12月7日に病のため38歳でこの世を去りました。
頼之の最初の仕事は義満の元服でした。応安元年(1368年)4月15日、頼之は義満を元服させます。元服の際は、元服する人物に烏帽子をつける「加冠」、成人の髪型に髪を結う「理髪」など大人が4つの役目を果たします。頼之は後見役として「加冠」の役目を担いましたが、他の3役についてもすべて細川氏一族が務めました。足利将軍家と細川氏の結びつきの強さを対外的にアピールしたのです。
そして同年12月30日、足利義満は11歳で征夷大将軍に任命され、頼之は将軍代行として次々に政策を進めていくこととなります。
波乱に満ちた頼之の管領時代
細川頼之は足利義満を補佐し、将軍新邸である「花の御所(室町殿)」の造営や倹約令の制定に取り組みます。また、「応安大法」「応安の半済令」こと「寺社本所領事」を出し、土地の所有関係を厳格化しました。これは寺社や公家などの土地を保護する法令です。
当時、南北朝の混乱下で守護やその部下の武士たちが寺社の荘園を奪うことが黙認されていました。応安大法では、武士側に認められていた「半済」、つまり荘園や公領から徴収する年貢の半分を守護を通じて家臣に分け与え、軍事費とすること、の範囲を整理し、寺社や公家の権利回復を進めました。
法令では、天皇と上皇の所領、寺社一円仏神領、摂関家の所領については半済を停止し、武家の押領を禁止するとしています。
他の本所領については、本所と分割するようにとしました。本来は年貢の半分のみを徴収できるはずが、戦乱の混乱の中で武士側が荘園全体を支配する例も増えており、頼之はその是正を目指したのです。
加えて、頼之は守護が力をつけて自立化することを防ぐ目的もありました。室町幕府による守護統制策の一環として、応安大法は長きにわたり、徐々に効力を発揮していくこととなります。
また、頼之は義満の公家教育にも注力しました。公卿で二条家当主の二条良基を招いて義満に礼儀作法を学ばせることで、義満に朝廷内での地位を確立させ、朝廷と幕府の一体化を目指したのです。義満は朝廷内で出世していき、最終的には太政大臣にまで上り詰めます。ちなみに太政大臣になった武家は平清盛に次いで2人目です。
さらに、頼之は権力基盤の弱い義満のために、南北朝の合体による室町幕府の権威向上をめざしました。応安2年(1369年)には南朝の穏健派と知られる楠木正儀を足利方に寝返らせています。
実は、応安元年(1368年)に和平促進派の後村上天皇が崩御し、主戦派の長慶天皇が即位したことで、和平交渉の流れは変わっていました。このため南朝で肩身が狭くなった正儀は頼之の誘いに乗り、北朝に下りました。頼之は南朝との和平実現を見据えて正儀を保護しましたが、幕府内では「裏切者を厚遇している」との反発も起こりました。
このほか、頼之は今川了俊を九州探題として派遣します。了俊は大宰府を落として南朝勢力を衰退させました。
宗教政策でも対立を抱えた頼之
頼之は宗教問題にも悩まされました。当時、比叡山など伝統的な仏教勢力と、南禅寺をはじめとした禅宗の新興勢力(京都五山)が争っていました。幕府は禅宗を保護していましたが、応安元年(1368年)南禅寺楼門建設を助成した際、比叡山側がこれに反発して蜂起する事件が起きました。
頼之は比叡山側をうまく収めて楼門建設を実行しようとしますが、結局失敗し、比叡山側に妥協して楼門建設をストップしました。こうして頼之と禅宗側との間には不和が生まれます。
この際、頼之と対立したのが有力大名の土岐頼康です。禅宗とかかわりが深かった頼康はその後も頼之と敵対していきます。
斯波義将との対立
もともと権力闘争でライバル同士だった細川氏と斯波氏でしたが、永和3年(1377年)には頼之は斯波義将と敵対します。、斯波氏の守護管国である越中で合戦が起こった際、義将の敵対勢力が頼之の所領の新川郡太田庄(現富山県富山市)に逃げ込みました。
それを追いかけてきた義将軍は、逃げた兵を討ち取るなかで庄内を焼き払ってしまいます。頼之はこれに反発し、越中に攻め入ろうとします。この時は足利義満が仲介に入ったことで騒ぎは落ち着きましたが、その後、頼之と義将はそれぞれの派閥を作り、対立を深めていくこととなります。
こうした別派閥との対立により、幕府内の意見はたびたび不一致となりました。嫌気がさした頼之は何度か管領の辞職を申し出ています。
康暦の政変①頼之討伐に向け反対派が結集
幕府内での不和を察知したのか、康暦元年(1379年)に南朝軍が紀伊国で挙兵します。頼之は弟の細川頼元を総大将として派遣しますが、頼元は鎮圧に失敗し、反頼之勢力は勢いづきました。細川一族による専横に嫌気がさした人々もおり、反頼之勢力は実力行使に出ます。
2月には大和国の十市氏討伐に向け、斯波義将、赤松義則、土岐康行ら7名が湊に派遣されますが、このうち義将と康行は追討軍から逃亡します。これをうけて頼之は義満に敵対勢力を討伐するよう働きかけます。こうして土岐頼康と佐々木(京極)高秀の追討が決定しました。
頼康討伐は山名義幸と赤松義則が、高秀討伐は同族の六角氏の亀寿(後の六角満高)がそれぞれ命じられます。これに対し頼之を罷免せよとの大名の声が高まります。京には大名たちの兵たちが集まり混乱が生まれました。
こうした混乱を受け、義満は3月に土岐頼康を、4月には佐々木高秀を許しています。赦免した背景には、反頼之派との関係修復を図る狙いがあったという説もありますが、定かではありません。その後、頼康と高秀はそれぞれ兵を率いて入京しました。
康暦の政変②「御所巻」の発生
反頼之派の兵が京へ集結するなか、閏4月14日、斯波義将や佐々木高秀、土岐直氏ら反頼之の諸大名は義満の邸宅である室町殿を取り囲み、頼之の失脚を要求する「御所巻」を起こします。御所巻とは、武士たちが大軍で将軍邸を包囲し、政治的な要求を行う行為で、将軍に対する集団圧力でした。
『後愚昧記』『愚管記』といった当時の公卿の日記などによると、4月14日の午後1時過ぎ、今出川にある将軍の屋敷である室町殿を数万の武士たちが取り囲みました。このときの大名たちは「細川頼之の罷免」を強く要求します。将軍邸がこれほど大規模な武士集団に包囲されるのは異例のことで、今でいうクーデターのような緊迫した状態でした。
これに対し、義満は頼之に使者を派遣して京を退去するよう説得しました。午後6時ごろ、頼之は屋敷に火を放ち、兄弟や親類らと三百騎余りの兵を率いて京を逃れました。
その後、一行は領国の四国に落ち延び、出家しました。こうして康暦の政変は頼之の敗北で幕を閉じました。
閏4月28日には頼之に代わり、斯波義将が管領に就任。9月には義満が頼之討圧令を伊予国の河野通直に対して出しています。
ちなみに、このタイミングで鎌倉では関東管領の上杉憲春が諌死しています。鎌倉公方の足利氏満が、中央の混乱を将軍位奪取の好機とみて挙兵を企てたため、憲春が死をもって諫めたと言われていますが、背景には反頼之派の動きがあったとも言われています。頼之の追い落としがうまくいかなかった場合、斯波氏が将軍を挿げ替えようと考えていたのでは、という説まであるそうです。
康暦の政変③義満は頼之失脚を望んでいたのか
足利義満は細川頼之の失脚についてどのように考えていたのでしょうか?当時の文献などから頼之の失脚は「大樹同意」、つまり義満も同意しており、反頼之派と通じて邪魔な頼之を追いやったという説があります。将軍就任当初は幼かった義満も康暦元年(天授5年、1379年)時点では22歳の働き盛りの若者です。自ら政権を運営したい、そのためには長く政権を運営してきた細川氏は邪魔になっていたのかもしれません。
一方、政変後に義満は細川氏の復権を目指して活動を続けており、当時の文献に「大樹一人贔屓」、つまり義満は頼之一人を贔屓している、という言葉があるように、政変による頼之失脚は義満の本意ではなかったとの説もあります。
その後の細川頼之
頼之は失脚後も完全には没落しませんでした。細川氏自体の軍事力・経済力は依然として強大であり、義満も頼之の政治能力を高く評価していたためです。
康応元年(1389年)、頼元の赦免運動の結果、頼之は厳島神社参拝の途上にあった義満と讃岐国宇多津で会い、赦免されました。そして明徳2年(1391年)、斯波義将が義満との対立により管領を辞任すると、頼之は政界に復帰します。
とはいえ、出家後の頼之が直接政務に就くのは難しいため、頼元が管領となり、頼之はその後見役となりました。こうして頼之は南北朝時代の終結に向け、南北朝の統一に取り組んでいくことになるのです。
- 【参考文献など】
- 角川選書667「足利義満」森茂暁/著(KADOKAWA)
- 「世渡りの日本史 苛烈なビジネスシーンでこそ役立つ「生き残り」戦略」本郷和人/著(KADOKAWA)
- 「図説室町幕府」丸山裕之/著(戎光祥出版)
- 東海の中世史2「足利一門と動乱の東海」谷口雄太/編(吉川弘文館)
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。