観応の擾乱足利尊氏と弟・直義の対立、室町幕府を揺るがした内乱の全貌

観応の擾乱

観応の擾乱

記事カテゴリ
事件簿
事件名
観応の擾乱(1350年〜1352年)
場所
全国・京都府・神奈川県

北朝と南朝が争う南北朝時代。その混乱のさなか、北朝側の足利尊氏が室町幕府を開き、混乱が収束するかに思えた観応元年(1350年)10月、尊氏と弟の足利直義の対立が、幕府を二分する争いに発展しました正平7年(1352年)2月まで続いた「観応の擾乱」と呼ばれるこの内乱は、政治体制そのものを揺るがす大事件に発展します。今回は観応の擾乱について、分かりやすく解説します。

鎌倉幕府滅亡から建武の新政へ

北朝と南朝が両立する南北朝時代の始まりは、後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕計画からでした。後嵯峨上皇の頃から続く皇位継承争いは、鎌倉幕府による介入により、持明院統(上皇の上皇の第三皇子である後深草天皇の系統)と大覚寺統(第七皇子の亀山天皇の系統)が10年ごとに交代で皇位につく「両統迭立」が慣例化していました。

これに反旗を翻し、権力を掌握しようとしたのが後醍醐天皇です。度重なる倒幕計画の結果、隠岐に配流された後醍醐天皇でしたが、元弘3年(1333年)に島を脱出して諸侯に討幕を呼びかけます。これに呼応した反幕府勢力が各地で蜂起し、足利尊氏や新田義貞といった武将たちの活躍により、鎌倉幕府は滅亡しました。

正慶2年/元弘3年(1333年)6月、後醍醐天皇は京都で「建武の新政」を開始します。摂政・関白を置かず、天皇親政を掲げましたが、恩賞の不公平さ、土地所有制度の変更による混乱、公家優遇への武士の不満など、さまざまな要因によりわずか2年で終わりを迎えました。

足利尊氏の離反と南北朝の成立

後醍醐天皇の建武の新政のなかで頭角を現していったのが足利尊氏です。政権に不満を抱いた武士たちの支持を集め、鎌倉で武士たちに独自に恩賞を与えるなど天皇の命令を無視した独自の行動をとり始めます。

これに怒った後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏討伐を命じます。こうして建武3年/延元元年(1336年)5月、湊川の戦いで尊氏軍が後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成軍を破って京に入り、後醍醐天皇は京を追われます。

6月に京に入った光厳上皇は、弟の豊仁親王を光明天皇として皇位につけます。尊氏は光明天皇を擁立し、(北朝)11月に建武式目を定めて室町幕府を実質的にスタートしました。なお、尊氏は建武5年(1338年)8月11日に征夷大将軍に任命されており、この段階を室町幕府の始まりと捉える場合もあります。

一方、敗れた後醍醐天皇は吉野で新たな朝廷(南朝)を開きました。こうして南北朝時代が始まります。

室町幕府の成立と二頭政治の始まり

南朝の後醍醐天皇は延元4年/暦応2年(1339年)8月に崩御しますが、南北朝の対立は続きました。尊氏は京都に拠点を置き、室町幕府を事実上成立させました。

室町幕府では、尊氏と弟の足利直義による二頭政治が行われていました。尊氏は武士への恩賞充行と守護職の補任を担い、直義は所領裁判権をはじめとした政権運営全般を担当しました。つまり、直義が中心となって室町幕府を運営していたのです。

この二人の補佐をしていたのが、将軍を支える右腕的なポジションである「執事」の高師直でした。師直は尊氏の補佐役でしたが、役目上は直義の補佐もしていたと言われています。

足利直義と高師直の対立激化

室町幕府をようやく開いて政治は安定…と思いきや、政治的な姿勢の違いや派閥争いなどから、直義は師直の権限を徐々に狭めていきます。法や秩序や従来の制度を維持する直義に対し、南朝方との闘いの結果、武士たちに恩賞として土地を配分しなければならない師直は、土地の保有に関する方針で対立していました。これにそれぞれの既得権益などが複雑に混ざりあい、派閥が形成されていきます。

暦応4年(1341年)、直義は師直の執事施行状(命令を現地で実行させるための書状)を停止し、師直の力をそぎました。裏には尊氏の外戚である上杉氏の影がありました。『太平記』によれば、上杉重能と畠山直宗が、足利兄弟が帰依する禅僧・妙吉を利用し、直義に師直の悪口を吹き込み、それが師直の粛正につながったとされています。

直義は師直の暗殺を計画しますが、失敗します。しかし、貞和5年(1349年)閏6月、ついに師直を執事職から追い落とすことに成功しました。

ただし、師直はすぐさま反撃に出ます。河内にいた兄弟の高師泰を軍ごと京に呼び戻し、8月に直義を討とうとしたのです。

危険を察した直義は、尊氏の邸宅に逃げ込みますが、師直たちは邸宅を包囲して軍事的圧力をかけます。このように大軍で将軍邸を包囲し、政治的な要求を行うことを「御所巻」と言いますが、初めて行ったのは師直でした。

御所巻の結果、尊氏は直義を引退させざるを得ませんでした。また、上杉重能と畠山直宗は流罪となりました。なお、2人は流罪先で殺害されています。

その後、師直の執事復帰が決定し、直義は引退。直義に代わって尊氏の三男である義詮が政務を執り行い始めました。一方の直義は夢窓疎石のもと出家して「恵源」と名乗るようになります。なお、混乱を避けるため本稿では直義とします。

こうして師直は政敵を失脚させ、尊氏とともに室町幕府を運営していくことになります。

観応の擾乱①足利直冬への懸念

ある程度体制が整ったかに思える室町幕府ですが、足利尊氏や師直にとって懸念する点がもう一つありました。それが、直義の甥である足利直冬の存在です。直冬は尊氏の実の息子(ただし妾腹)ですが、尊氏が直冬を疎んじたことで直義の養子になっていました。

当時、直冬は中央の混乱に巻き込まれないようにと九州に落ち延びていましたが、やがて九州の豪族たちを取り込み、一大勢力に成長します。

直冬を警戒した尊氏は、直冬に出家して上洛するよう命じますが、直冬側はこれを拒否します。こうして尊氏は貞和6年/正平5年(1350年)10月28日に出陣します。観応の擾乱のはじまりです。

観応の擾乱②直義の挙兵と南朝との連携

ところが出陣直前の10月26日の夜、出家して京で暮らしていた直義が京を脱出してしまいます。そして大和国で兵を募ると、所領問題などで尊氏に恨みを抱いている武将たちが次々と集まりました。このとき、尊氏派だった重臣の畠山国清が直義についています。

さらに直義は驚くべき行動に出ます。敵対していたはずの南朝に降伏を申し出て、その権威と武力を取り込もうとしたのです。南朝側は受け入れるかどうかで激しく議論しましたが、最終的にこれを受諾しました。こうして直義派は南朝を後ろ盾として、尊氏方と戦うことになります。

観応の擾乱③打出浜の戦いと高師直の最期

年が明けて観応2年/正平6年(1351年)になると、直義派の越中守護・桃井直常ら北陸勢が近江に到着します。1月7日に直義が石清水八幡宮に入ると、情勢を鑑みた人々が直義に下りました。そのなかには斯波高経や上杉朝定など、もともと尊氏方にいた武将たちの姿もありました。

一方、尊氏軍は1月15日に京を脱出して、丹波に撤退します。続いて播磨に移動して師泰と合流し、再起を図ります。しかし、直義方についた武将たちに追い詰められていきます。

2月になると、摂津国の打出浜で両軍が激突します。激戦となった「打出浜の戦い」と呼ばれるこの戦いは、直義軍が勝利しました。一方の尊氏軍は師直が脚部、師泰が頭・胸部を負傷しています。

直義軍は高師直・師泰の出家を条件に和議を要求しました。講和の結果、両名は京に護送されることになりましたが、その途中に上杉重季が500の兵と待ち伏せしていました。こうして師直をはじめ、同行していた高一族は惨殺されます。重季は師直に流罪にされた上杉重能の息子で、ここで父の仇をとったのです。

観応の擾乱④正平一統と南北朝の再分裂

2月27日、尊氏は京に入ります。翌28日に直義が戻り、3月2日に両者は会談し、今後の体制などを協議しました。この協議により、直義が義詮の政務の補佐をすることに決まりました。

一方で恩賞充行の権利は引き続き尊氏が持ち続けました。ただし、自由に権利を行使することはできず、直義の希望する武士に恩賞を与えざるを得ない状況でした。

なぜ尊氏が権利を持ち続けられたのかははっきりしません。直義は2月25日、最愛の息子の如意王をわずか5歳で亡くし、失意のまま悲しみに暮れていたため、政治に取り組む気力がわかなかったのでは、という説もあります。

政治的主導権を握った直義は、自らの派閥を優遇した人事や恩賞充行等に努めました。ただし、武士に恩賞を十分与えられなかったことなどから、やがて自派閥からも不満の声が上がります。

一方、直義は南朝との和睦に注力しますが、南朝側が受け入れず失敗に終わります。一度は南朝に降伏しておきながら、尊氏に勝利すると北朝のもとで政権を運営する、そんな直義に南朝側は「信用できぬ」と思ったのかもしれません。こうして南朝と北朝は再び対立状態に戻ってしまいました。

そうこうしているうちに、反直義派による関係者の暗殺など、周囲がきな臭くなってきました。このため直義は尊氏に引退を申し出ます。

その後、尊氏たちは近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が南朝方に下ったことを知り、尊氏が近江へ、義詮が播磨へと出兵することを決定します。裏切者を討つという名目でしたが、実は直義を挟み撃ちする罠でした。

これを警戒した直義は7月末、わずかな部下たちと京を脱出し、派閥の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡しました。京を脱出して自らの勢力圏である北陸方面を経由し、上野国から鎌倉に移動しました。

観応の擾乱⑤薩埵峠の戦いと戦局の転換

一方、尊氏は直義と南朝を分断しようと、北朝と南朝の和睦に注力していました。南朝から直義追討の綸旨を得ようとしていたのです。これに対し、南朝は三種の神器の引き渡し等を要望。これを受け入れる形で10月24日、尊氏は南朝に降伏しました。これにより北朝方の天皇が廃されたほか、年号が南朝の正平6年に統一されました(正平一統)。

南朝との関係が落ち着き、天皇から直義追討の綸旨を受け取った尊氏は、11月4日に京を出発して直義討伐に向かいます。こうして両軍は正平6年/観応2年12月(1352年1月)、駿河国で激突します。これが薩埵峠の戦いです。『太平記』によれば、尊氏は3000の兵とともに薩埵山に籠城し、それを直義の軍50万が包囲しました。軍記物語らしく大げさな数字ですが、直義軍の優勢だったことは確かなようです。

戦は、尊氏軍に下野国の宇都宮氏綱らの援軍があったこともあり、尊氏軍の勝利でした。直義軍は尊氏の勧告を受けて降伏。両名は正平7年/文和元年(1352年)1月に鎌倉に入りました。

直義の最期

直義は鎌倉において尊氏の庇護下に入ります。尊氏は関東に潜伏する上杉氏の残党などを処理するため、しばらく鎌倉に滞在することに。そんなさなか、2月26日に直義が浄明寺境内の延福寺(諸説あり)で急死します(享年46歳)。ちょうど1年前は高師直ら高氏が惨殺された日です。

直義の死因には肝臓がんなどの病死説に加え、毒殺説があります。『太平記』では尊氏による毒殺との記述があり、議論の的となっています。こうして観応の擾乱は直義の死により終焉を迎えました。

観応の擾乱の後の南北朝の争い

観応の擾乱終結で室町幕府内の争いは一応の決着を見せましたが、内乱によって幕府の統制力は大きく低下しました。正平7年/文和元年(1352年)2月末には、南朝が京を一時占領し、義詮は近江に落ち延びます。さらに鎌倉の尊氏も新田氏による襲撃で一時鎌倉を明け渡すはめになりました。こうして南北朝の対立は長期化し、その後約60年間続くことになります。

【参考文献など】
  • 京都の中世史4「南北朝内乱と京都」山田徹/著(吉川弘文館)
  • 「足利直義 下知、件のごとし」亀田俊和/著(ミネルヴァ書房)
  • 「観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い」亀田俊和/著(中央公論新社)
  • 「南北朝の動乱 完全解説」かみゆ歴史編集部/編著(カンゼン)
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。