討幕の密勅大政奉還と同日に出された「徳川慶喜討伐」は偽勅?

討幕の密勅

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事件名
討幕の密勅(1867年)
場所
鹿児島県・山口県
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江戸城

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慶応3年10月14日(1867年11月9日)、薩摩藩と長州藩に対して、将軍・徳川慶喜を討つよう秘密裏に下されたのが「討幕の密勅」です(※薩摩藩は13日付)。薩長両藩が武力討幕を正当化する根拠となった密勅は、発出の手続きに問題があり、天皇の玉璽がないなどから「偽勅」ではないかとする説が有力です。さらに同日、慶喜が朝廷に大政奉還を上奏しており、10月14日は時代の転換点となりました。今回はそんな討幕の密勅について、分かりやすく解説していきます。

討幕の密勅とは

「討幕の密勅」は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、長州藩と薩摩藩に極秘裏に下された、徳川慶喜追討を命じる詔書(綸旨)です。書面上は薩摩藩の島津久光・茂久親子宛のものが10月13日付、長州藩主毛利敬親・元徳父子宛てのものが10月14日付です。長州藩主親子については朝廷が10月13日に官位復旧の沙汰書を交付し、処分が解除されています。

現在に至るまで原本は確認されていませんが、写しと伝えられる文書や関係者の記録から内容が明らかになっています。

内容は、徳川慶喜を「孝明天皇の命令を無視し、天皇の詔勅を曲解して人々を苦難に陥れた」と非難。「賊臣」慶喜を「殄戮」、つまり殺しつくすことが「朕(=明治天皇)の願い」としています。つまり、天皇が慶喜を武力で排除せよ、と命じたわけです。幕府を武力で倒したい討幕派にとっては最強のお墨付き、それが「討幕の密勅」でした。

討幕の密勅が「偽勅」とされる理由は?

ところがこの「討幕の密勅」、実は偽勅だったのでは?という疑いが起こっています。その理由は大きく分けて3点です。

  1. 発出の際の手続きに疑問がある
  2. 天皇の直筆や玉璽がない
  3. 勅旨伝宣の奏者たちの花押もない

①については、通常天皇が詔書を出す場合、草案を太政官の会議にかける必要がありますが、今回はそれがかけられていません。

②については、討幕の密勅には本来天皇が詔書に記すべき「可」の字(直筆)と押されるべき天皇御璽もありません。さらに正当な詔書にあるべき太政官のサインもない、いわゆるないないづくしの処理でした。

③については、密勅にあった署名は前大納言の中山忠能と正親町三条実愛、権中納言の中御門経之のものですが、彼らの花押がありません。

討幕の密勅は詔書よりも簡略化された、天皇の意を近侍が聞き取って伝える「綸旨」であるという説もあるようですが、綸旨は伝聞形式で書かれるはずなので、これも密勅の内容と合いません。

実は後に正親町三条実愛が聴取に応じ、「薩摩の密勅は自分が、長州の密勅は中御門経之が書いた」「摂政には秘密にした」ことを明らかにしています。

では、なぜそのような密勅を用意する必要があったのでしょうか?その背景を解説します。

討幕の密勅の背景①徳川慶喜が征夷大将軍に

討幕の密勅時の将軍は、第15代将軍の徳川慶喜です。第二次長州征伐のさなかの慶応2年(1866年)7月20日、第14代将軍の徳川家茂が脚気で亡くなります。その跡を継いだのが慶喜で、12月5日(1867年1月10日)に正式に征夷大将軍に就任しました。

慶喜は孝明天皇の後ろ盾のもと、政権を運営するはずでしたが、孝明天皇は12月25日に崩御してしまいます。暗殺されたのでは、と疑われる突然の出来事でした。

朝廷と幕府のトップが短期間に変わり混乱するなか、慶喜は幕府中心の政権運営の安定と、フランスから援助を受けたうえでの幕政の立て直しに乗り出します。

討幕の密勅の背景②国内の反発を招いた兵庫開港問題

新将軍・徳川慶喜が取り組んだ大きな外交上の問題が、兵庫港の開港です。兵庫港は日米修好通商条約をはじめとした安政五か国条約などにより「1868年1月1日」の開港が約されていました。ただし、慶応元年(1865年)9月にはイギリス、フランス、オランダの連合艦隊がアメリカ公使とともに兵庫沖に現れ、早期開港と天皇の勅許を求める「兵庫開港要求事件」が発生しています。

慶喜は兵庫港の開港について諸藩に諮問しています。諸藩の大名達に意見を聞くことで彼らと政権運営しようという意思表示…に見えますが、慶喜は回答を待たず、朝廷に兵庫開港の勅許を要請しました。これに怒ったのが意見を聞かれた薩摩藩等で、幕府との間に大きな亀裂が入りました。

一方、慶喜は朝廷が拒否しても再び要請し、結論が出ないうちに3月28日にイギリス・フランス各公使とオランダ総領事、4月1日にアメリカ公使と会見しました。

その際、慶喜は「自分が日本の支配権を掌握している」と主張し、条約の履行を明言し、諸外国に対し幕府の権威を見せつけました。こうした独断専行は、朝廷や薩摩藩をはじめとした勢力に酷く反発されました。

朝廷は二度目の勅許申請を拒否してますが、慶喜は三度目の奏上を実施。5月23日には御所に直談判に入り、夜を徹しての朝議の結果、24日に勅許をもぎ取りました。また、この時幕府は第二次長州征伐の原因となった長州藩への処分を寛大にする勅許も得ています。長州藩にボロ負けした幕府としてはこれ以上征長戦を続けたくありませんでした。

討幕の密勅の背景③薩摩藩が主体となった「四侯会議」

幕府に敵対する薩摩藩ら諸侯といえば、慶応3年(1867年)5月、薩摩藩の島津久光のもと、慶喜への諮問機関的な存在である「四侯会議」を設置しました。メンバーは久光、前越前藩主の松平春嶽、前土佐藩主の山内容堂、前宇和島藩主の伊達宗城でした。

会議では兵庫開港や長州藩の処分問題について話し合われました。兵庫開港については、四侯会議は開港は認めるが天皇が勅令で幕府に命じる、という朝廷が上の立場である形式をとるよう主張します。

一方で長州藩の処分は毛利敬親・元徳親子の官位の復旧、領地削減の取り消しなどを訴えました。なお、この時点ではすでに薩長同盟が締結されているため、薩摩藩は長州藩をサポートしています。

慶喜に対抗するための四侯会議でしたが、5月4日の会議開催後、参加者があまり集まらず、どちらの問題を優先的に議論するかなどでもめてしまいます。そうこうしているうちに、慶喜が朝議で直談判して勅許を勝ち取ったことで、四侯会議は頓挫しました。

討幕の密勅の背景④矛盾する薩土「密約」と「盟約」

四侯会議が失敗したことで、薩摩藩は徳川慶喜を排除すべきとの方針を立て、武力での討幕を目標に長州藩とのさらなる関係強化に努めます。5月末から6月中旬にかけて、薩摩藩は長州藩と何度も会議を実施し、武力討幕の準備を進めます。

また、薩摩藩は5月21日、土佐藩の中岡慎太郎の仲介で乾退助ら武力公使派と「薩土密約」を結び、武力討幕に同意します。ところが、土佐の権力者で元藩主の山内容堂は武力討幕には反対でした。

一方、土佐藩参政の後藤象二郎は坂本龍馬とともに、平和的な「大政奉還」を主張します。なお、坂本龍馬が藩船のなかで、象二郎に大政奉還を含む「船中八策」を提示した、という通説がありますが、今は後世の創作だとされています。

後藤・坂本ペアは6月17日、京都の土佐藩邸で幹部に王政復古と将軍職の廃止を訴えます。受け入れた土佐藩は薩摩藩と6月22日、大政奉還を進めるための「薩土盟約」を締結しました。

密約と盟約という、矛盾する内容のものが締結されたため、土佐藩はそれぞれの中心人物にもう一方の内容を秘密にしていました。とはいえ薩摩藩の代表は小松帯刀に大久保利通、西郷隆盛と同じで、彼らは密約も盟約も理解していたわけですが…。

討幕の密勅の背景④武力討幕へ

その後、薩摩藩や土佐藩、長州藩は軍備増強に努めていきます。薩摩藩の計画は、土佐藩の後藤象二郎が土佐から兵を連れて上京するのに合わせ、協力して京都、大坂、江戸の三都市で挙兵するというものでした。

ところが象二郎は土佐からなかなか戻りませんでした。実は7月8日、長崎でイギリス軍艦のイカルス号の兵士が殺害され、海援隊が疑われたことでその対応に追われていたからです。加えて藩論もなかなかまとまりませんでした。前藩主の山内容堂は出兵に反対し、大政奉還に前向きな姿勢を示したのです。

結局象二郎は9月に京に戻りましたが、兵を連れてくることができませんでした。

加えて、9月7日の象二郎と小松帯刀の会談で、土佐藩の大政奉還の建白内容が武力行使は含まれず、徳川慶喜の将軍職辞職の要求もないことが明らかになります。薩土盟約とは異なり、かなり弱腰の内容だったため、同日盟約は解消されてしまいました。

なお、ここから土佐藩→大政奉還の建白書の提出、薩摩・長州・安芸藩→武力行使の討幕をめざす、と道が分かれていきます。

討幕の密勅の背景⑤薩摩藩が挙兵を目指す

流石に土佐の派兵が遅すぎる!と考えた薩摩藩は9月、安芸藩(広島藩)を加えた薩長芸三藩盟約を締結します。三藩で京・大坂で武力蜂起しようとしましたが、こちらも9月末に挙兵寸前に薩摩藩の島津久光に止められました。同じタイミングで安芸藩も出兵を見合わせたいと消極的な回答が来たため、薩摩藩は説得に回りました。

こうした薩摩藩の動きの鈍さを受け、長州藩も10月に入って挙兵延期を決定し安芸藩に伝えました。さらに、土佐藩からも「武力行使はやめて大政奉還にかけよう」と説得が入ります。

この辺りの薩摩藩の考えは諸説ありますが、大政奉還を徳川慶喜が拒否することを大義名分に挙兵しようとしていたとも、挙兵は西郷隆盛らの暴走で島津久光などの薩摩本国では「長州藩の二の舞になりたくない」と武力討幕に否定的な意見が多かったとも、大政奉還を出す直前で小松帯刀が武力を伴わない「倒幕」方針に転換し、隆盛を説得したとも言われています。少なくとも薩摩藩内で意見が統一できていなかったことは間違いないようです。

討幕の密勅①薩摩藩が密勅を出すよう働きかける

10月に入っても薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らはクーデターに意欲的でした。朝廷の討幕派と手を組み、なんとか武力行使のお墨付きを得て、薩摩本国や長州藩を動かそうとさまざまな働きかけをはじめます。

ここで薩摩藩が接近したのが、王政復古をめざしていた討幕派の公家・岩倉具視でした。10月6日に薩摩側と会談した具視は側近の玉松操に討幕の密書を起草させます。

10月8日、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀の三名は連署で、討幕の宣旨を下すよう、中山忠能・中御門経之・正親町三条実愛ら公家に対して請願しました。こうして密勅は10月14日、薩摩藩と長州藩の手に渡ったのです。

討幕の密勅②同じタイミングで大政奉還

討幕の密勅の裏側で、土佐藩は大政奉還に向けて動いていました。10月3日、山内容堂の署名入りの「大政奉還の建白書」が幕府老中・板倉勝静に提出されました。内容としては、幕府が天皇に政権を返上し、徳川家を「藩」として存続させたうえで、列侯会議による新しい中央政権を作ろうという、公議政体論に基づくものでした。

大政奉還の建白書を得た徳川慶喜は、薩長によるクーデターの情報をもとに、検討を重ねていました。大政奉還の考え方自体は家茂時代にすでに出されており、慶喜にとっては既知の情報でした。

さらに慶喜は、薩摩藩の武力蜂起や、討幕の密勅が出されるであろうという情報も得ていたようです。このため10月12日、慶喜は政権を返上する起死回生の策を京都にいた老中をはじめとした幕府の役人に告げます。翌13日には二条城の二の丸御殿に10万石以上の重臣約50名を集め、草稿を説明しました。そして14日朝、明治天皇に『大政奉還上表文』を提出し、15日に認められたのです。

こうして同じタイミングでの大政奉還は密勅をほぼ無効化してしまいました。このため密勅は21日に取り消されています。

なお、大政奉還では、徳川慶喜の将軍職の辞任には一切触れられていませんでした。このため小松帯刀は慶喜に辞任を強く訴え、慶喜は10月24日に朝廷に将軍辞任を伝えています。

討幕の密勅のその後―王政復古と戊辰戦争へ

大政奉還後も徳川家は勢力を保ち、実質的に政権を運営し続ける可能性が高い状況でした。慶喜ら徳川家には長年にわたって政権運営をしてきたノウハウがあったからです。10月22日、諸侯による会議が招集されるまでは緊急案件の処理は引き続き幕府が担うように」とされました。

このままでは徳川家が政権を運営し、江戸幕府の時代とほぼ変わらないのではないか。そう危惧した討幕派は討幕派公家たちと協力し、12月9日に「王政復古の大号令」を発出。これに反発した旧幕府の強硬派により、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争が勃発するのです。

栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。