第二次長州征伐倒幕の機運を高めた幕府軍の負け戦
第二次長州征伐
朝敵となった長州藩を幕府が再び攻めたのが、慶応2年(1866年)に起こった「第二次長州征伐(四境戦争)」です。第一次長州征伐が交渉のみで終結したのに対し、今回は実際に戦闘が起こりましたが、幕府の敗戦が続くなか、将軍・徳川家茂が病没したことで戦争は終結します。最終的に幕府は長州藩との和議を余儀なくされ、幕府の威信は大きく揺らぎ、倒幕運動が活発化していきました。今回はそんな第二次長州征伐についてわかりやすく解説します。
尊王攘夷派の長州藩が「朝敵」に
幕末、長州藩は天皇・公家を頂点にした政治体制を主張し、外国人排斥を訴える「尊王攘夷派」の先鋒として朝廷内に勢力を伸ばし、孝明天皇の意に反する強硬な攘夷運動を主導しました。
孝明天皇は尊王攘夷派でしたが、攘夷は幕府の役目と考えており、急進的な尊王攘夷派の暴走に危機感を抱くようになりました。このため天皇は文久3年(1863年)8月18日、薩摩藩や会津藩と協力して「八月十八日の政変」を断行。長州藩や公武合体派の公家たち「七卿」を朝廷政治から排除しました。
京を追われた長州藩と七卿は武力による政権復帰を画策します。元治元年(1864年)7月19日、長州藩兵と京都御所を守る会津・薩摩・幕府連合軍が蛤御門など御所周辺で激突する「禁門の変(蛤御門の変)」が起こります。長州藩は敗れ、天皇から「朝敵」と断定されました。
第一次長州征伐は長州藩の謝罪で終了
長州藩という朝敵を討伐するため、幕府は御三家・尾張藩主の徳川慶勝を総督に、長州征伐軍を組織します。慶勝は元治元年(1864年)10月22日、大坂城で軍議を開き、第一次長州征伐が決定します。
ただし、慶勝自身は武力衝突を避けようとしました。薩摩藩も「幕府の思惑で長州藩との潰し合いになるのでは」と危惧し、穏便な解決を探り、西郷隆盛を中心にさまざまな根回しを行いました。
薩摩藩は岩国藩主の吉川経幹を通して長州藩と交渉。その結果、長州藩側は禁門の変の責任者として三家老を斬首し、三条実美ら長州に身を寄せていた5卿を幕府に引き渡すことを承諾しました。こうして第一次長州征伐は戦うことなく終結しました。
高杉晋作が功山寺で挙兵、長州藩の内乱へ
第一次長州征伐で長州藩の恭順方針に強く反発したのが、急進派の高杉晋作でした。元治元年(1864年)12月15日、高杉は下関の功山寺で挙兵の決意を表明し、翌12月16日に挙兵しました。わずか50名ほどからなるクーデターは藩内の内戦(元治の内乱)へ拡大。最終的に急進派が勝利を収め、長州藩の実権は晋作達に移りました。
ただし、晋作は「四国艦隊下関砲撃事件」等の経験から西洋の軍事力を実感し、「攘夷」から「開国勤王」へと方針転換しました。さらにイギリスと接近して知識や技術を得るとともに、幕府に恭順するふりをしながら武器輸入により力を蓄える「武備恭順」で倒幕をめざしていきます。
一方、薩摩藩は薩英戦争で西洋の脅威を痛感しており、富国強兵に方針転換していました。また、幕政改革に関して徳川慶喜の幕府中心路線と、雄藩連携を重視する薩摩藩は対立しており、両者の関係は悪化していました。こうした事情から薩摩藩は長州藩との距離をさらに縮めていきます。
第二次長州征伐前夜①勅許の獲得に苦戦する幕府
この頃、幕府は元治の内乱で高杉晋作ら急進派が長州藩の実権を握ったことに、強く警戒していました。加えて、長州藩が密貿易で武器を得ていたことがオランダ経由で発覚したため、長州藩を「不届きの企て」があるとし、長州再征を朝廷に奏上します。慶応元年(1865年)5月、将軍家茂は長州再征を朝廷に奏上すべく将軍徳川家茂の進発を決定。改元後の慶応元年(1865年)5月16日、家茂は大阪城に向かって出発しました。
閏5月22日に大坂城に到着し、23日には二条城で長州藩の処分について協議しますが、方針はまとまらず、朝廷からの長州征伐の勅許もなかなか下りません。朝廷が動かない理由は薩摩藩で、大久保一蔵(利通)が内大臣の近衛忠房の背後におり、長州征伐に反対していたのです。
慶応元年(1865年)9月21日、一蔵の計略で朝議に出てこない近衛忠房。激怒した一橋慶喜は、「匹夫の策謀で三大の時刻が遅れ、軽々しく朝議が左右されるくらいなら、将軍を始め一同は辞職する」と脅し、その日に長州再征伐の勅許をもぎ取りました。
第二次長州征伐前夜②兵庫開港要求事件で足止め
いよいよ第二次長州征伐へ!と行きたいところですが、9月16日、英仏蘭の軍艦9隻とアメリカ公使が兵庫沖を訪れ兵庫の開港を要求したことで、征伐の準備はストップします。
イギリス公使のハリー・パークスは、安政五カ国条約の勅許と、条約等で決まっていた兵庫開港の予定を2年前倒すよう主張。代わりに下関戦争の結果幕府に課した賠償金300万ドルを1/3に減額すると交渉してきたのです。
交渉の結果、兵庫開港要求事件は①条約の勅許②関税率の改定③下関条約300万ドルの幕府の支払い④神戸港は予定通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)に開港する、ということが決まりました。
第二次長州征伐前夜③裏で結ばれた薩長同盟
兵庫開港要求事件が落ち着くと、ようやく幕府は長州の処分を協議し始めます。慶応2年(1867年)1月22日、幕府は長州処罰案を朝廷に奏上。長州藩の石高のうち10万石の削減と、藩主の毛利敬親の蟄居・隠居、嫡子の毛利元徳の永蟄居、という処分が正式に決定しました。
処分を不服に感じていた長州藩は利害関係の一致から薩摩藩と手を組み、慶応2年(1866年)1月22日、京の小松帯刀の別邸「御花畑」で6カ条からなる薩長同盟を締結します。
同盟締結後、長州藩は裏で防備を固めながら、幕府からの呼び出しを病気などを理由にのらりくらりとかわしました。一方、薩摩藩は4月14日、長州征伐を辞退する書面を幕府に送りました。平和な世の中を保つべき幕府が内乱を起こそうとしていることは大義によって支持しがたい、という内容でしたが、もちろんこちらは建前です。
思わぬところでケチがついた幕府でしたが、長州藩への強気の姿勢は変わりませんでした。5月1日、幕府は長州藩に対し処分を言い渡します。長州藩のトップの蟄居に伴う跡継ぎについては、嫡子の元徳の息子の興丸に継がせるよう命じました。
幕府は窓口となった老中の小笠原長行が長州藩に5月20日までに返答するよう申し伝えましたが、長州藩は29日までの延期を要求し、裏で戦に向けた準備を進めていました。
幕府は5月末まで待ったものの長州藩は処分を受け入れず、以前より求めていた藩主親子の出頭もないままでした。このため幕府は6月7日に長州藩への攻撃を開始します。第2次長州征伐の始まりです。
第二次長州征伐①幕府軍15万人VS長州軍3500人
慶応2年(1866年)6月7日、幕府は長州藩に宣戦を布告し戦いを開始します。総督は尾張藩主の徳川茂徳が務めました。幕府は長州討伐の際、西国の大名達に出兵を命令しました。長州に近かったこともありますが、薩摩藩をはじめ外様大名の力を削ごうという考えもあったようです。
ところが前述の通り薩摩藩は出兵を拒否。さらに広島藩(広島県)が6月4日に「長州征伐の大義が疑わしい」と出兵を辞退したほか、宇和島藩(愛媛県)をはじめさまざまな藩が出兵を辞退しており、出兵しても消極的な藩も多かったようです。
とはいえ幕府軍は総勢約15万人となり、幕府軍本隊がいる広島藩側から攻める「芸州口」に5万人、浜田藩(島根県浜田市)側から攻める山陰の「石州口」に3万人、瀬戸内海の大島(屋代島、山口県周防大島諸島)から攻める「周防大島口」に2万人、小倉藩側から攻める下関に面した「小倉口」に5万人の4方面から長州藩に侵攻する計画を立てました。なお、当初は長州藩の本拠地である萩城を直接攻める「萩口」もありましたが、担当するはずだった薩摩藩が出兵を辞退したのでなくなっています。
幕府軍が4つの藩境から攻め、戦が起こったことから、第二次長州征伐は長州藩側からは「四境戦争」とも呼ばれています。
対する長州藩の軍勢は約3500で、大村益次郎や高杉晋作らを中心に芸州口に2000、石州口と小倉口に各1000、大島口に500を配しました。
第二次長州征伐②6月7日、大島口の戦いで開戦
第二次長州征伐の初戦は、大島口での戦いでした。幕府は海軍を大島口に投入し、6月7日に幕府の蒸気船が「富士山丸」が大島を砲撃し、戦の幕が切って落とされました。大島は本土を守る島で、大島を落とせば付近の制海権を手に入れることができたため、幕府軍は戦に有利になると考えたのです。
その後、幕府軍の伊予松山藩(愛媛県松山市など)の軍勢が上陸し、民家に砲撃し、農村を荒らしまわるなど住民を蹂躙しました。長州軍は当初大島を重視していなかったため適度に戦い退く予定でしたが、幕府軍のあまりの酷い行いに奇兵隊が動きます。6月13日早朝、高杉晋作率いる第二奇兵隊・浩武隊は丙寅丸で幕府軍艦に近づいて激しい砲撃を実施。小回りの利く丙寅丸で幕府の軍艦を翻弄しました。
6月15日には晋作率いる長州軍が上陸して幕府側と激しい戦闘を繰り広げます。虐げられた大島の人々も立ち上がり、激戦の結果長州藩が勝利しました。
第二次長州征伐③芸州口の戦い
芸州口では、紀伊藩(和歌山県)、彦根藩(滋賀県)、高田藩(新潟県)などが幕府軍として参戦していました。先鋒は彦根藩の井伊家でしたが、装備は鎧兜に刀、旧式の銃などでした。対する長州藩兵はフランスで開発された、飛距離も命中度も高い最新鋭の「ミニエー銃」を使用しており、少数ながらその土地を知り尽くした精鋭達でした。
6月14日に大竹村(広島県大竹市)で始まった戦は、長州軍の奇襲からスタート。幕府軍の後ろから砲撃を加え、こまめに動き回りながらゲリラ戦を仕掛けました。当時の幕府軍の記録では「猿のように走り回って後ろをとる」ため苦戦した様子が記されています。井伊軍は敗走し、それを知った高田藩の榊原軍は戦わずして戻り、両藩とも味方から激しく非難されました。
長州軍はこれを機に幕府軍の本拠地を攻めようとしますが、紀伊藩の水野忠幹率いる最新式の武器を持った一隊が活躍。さらに幕府軍の本隊が出陣し、なかに装備が充実した部隊もいたことから、戦いは一進一退の膠着状態が続いていきます。
第二次長州征伐④石州口の戦い
芸州口で激戦が繰り広げられる中、6月17日からは石州口の益田川付近(現在の島根県益田市)でも戦いが始まりました。幕府軍は浜田藩(島根県浜田市など)や津和野藩(島根県津和野町)、福山藩(広島県福山市)、紀伊藩などが3万の兵を置いていました。
長州藩は参謀の大村益次郎が自ら指揮を執り、南園隊、精鋭隊、須佐大隊などが参加。事前に内奥していた津和野藩領を通過して幕府軍と戦います。益次郎はミニエー銃を巧みに駆使した戦術で幕府軍を苦戦させ、益田城を落として浜田城に迫ります。
もともと消極的な藩兵が多かった幕府軍は瓦解して次々と逃亡。幕府軍を頼れなくなった浜田藩主の松平武隆は浜田城を見捨てて松江城に亡命し、残った兵たちは浜田城と城下町を放火し燃やしました。こうして石州口の戦いは長州藩が勝利しました。
第二次長州征伐⑤小倉口の戦い
四境戦争で最後まで戦闘が長引いたのが、両軍ともに重要視していた九州の入り口・小倉口の戦いでした。幕府軍の総督は老中の小笠原直行で、小倉藩(福岡県北九州市)を中心に熊本藩(熊本県)や久留米藩(福岡県久留米市)など九州の藩が参加しました。しかし、小倉藩以外の藩は消極的で前線に出たがりませんでした。
一方の長州側は奇兵隊総督の山内梅三郎の指揮のもと、高杉晋作が補佐、山形有朋が軍監を務めていました。
戦いは6月17日、長州藩が田野浦(福岡県北九州市門司区)を急襲したことで始まりました。長州軍は軍艦5隻で砲撃を繰り返し、田ノ浦に上陸して砲台や幕府軍の上陸用の舟艇数百艘などを破壊します。小倉藩は必死に抵抗しますが、やる気のない他藩に足を引っ張られます。
その後、長州軍は大里(福岡県北九州市門司区の南西部)に進撃。このときも小倉藩兵のみが戦いに参加したため、小倉兵は幕府に支援を求め、強豪の熊本藩兵が戦に参加することになりました。
最後の戦いは7月27日の「赤坂の戦い」で、最新鋭の武器を有した熊本藩に長州軍は大苦戦し、多くの死者を出しました。ちなみに、この戦には幕府の軍艦は損害を恐れて消極的にしか参加しておらず、小倉兵も城の防備が中心でした。このため熊本藩兵はやる気をなくして途中で引き上げ、死闘の末長州兵が有利に立ちました。
第二次長州征伐⑥将軍徳川家茂の死
小倉口の戦いのさなか、小笠原長行のもとに、7月20日に将軍徳川家茂が脚気で亡くなったとの知らせが伝わります。長行は急いで富士山丸に乗り込んで戦線を脱出して長崎に移動しました。トップの脱出、さらに将軍の死というまさかの事態を招いた小倉藩兵たちは必死に長州藩と戦いますが限界を感じ、小倉城と城下町に火を放って落ち延びました。
一方、残っていた芸州口での戦いは8月7日の激戦を最後に終了。その後広島藩が仲介する形で幕を閉じました。
第二次長州征伐の終焉
徳川家茂の死後、多少もめたものの跡を継いだのは徳川慶喜でした。慶喜は長州征伐への出陣に意欲的で天皇から再び長州征伐の勅許を得ますが、小倉口の大敗を知ると朝廷からすぐさま止戦の勅許を得て、9月2日、長州藩と休戦協定を結び第二次長州征伐を終了させます。なお、小倉藩については長州藩と個別に戦い続け、慶応3年(1867年)1月にようやく和議が成立しています。
第二次長州征伐後、幕府の権威は失墜。慶喜は幕府の立て直しにまい進しますが、一方で長州藩や薩摩藩などの国内勢力は反幕府に傾き、倒幕運動が盛んになっていくのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。