池田屋事件新選組が尊王攘夷派を襲撃

池田屋事件

池田屋事件

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事件簿
事件名
池田屋事件(1864年)
場所
京都府

元治元年6月5日(1864年7月8日)の夜、京都・三条小橋西詰の旅籠「池田屋」で尊攘派浪士らの会合を新選組が急襲しました。これがいわゆる「池田屋事件」で、新選組がその名を天下にとどろかせるきっかけとなりました。ちなみによく混同されますが、坂本龍馬が襲撃されたのは「寺田屋事件」、暗殺されたのは「近江屋事件」で、池田屋事件には龍馬は無関係です。

沖田総司の吐血、桂小五郎の危機一髪の脱出など、さまざまなエピソードが残る謎に満ちた池田屋事件について、今回は分かりやすく解説していきます。

長州・尊王攘夷派の台頭

安政5年(1858年)、幕府が孝明天皇の許可なく日米修好通商条約をはじめとした「安政五カ国条約」を締結すると、幕府への批判は高まります。そして公家や天皇を頂点においた政治体制を主張する「尊王」論と、外国人排斥を主張する「攘夷」論が結びついた「尊王攘夷運動」が活発化していきます。

当時幕府のトップだった大老・井伊直弼は安政5年(1858年)から翌6年(1859年)まで「安政の大獄」で開国の反対勢力を弾圧します。しかし、安政7年3月3日(1860年3月24日)の「桜田門外の変」で暗殺されました。

そうしたなか、尊王攘夷を掲げる長州藩と、天皇を尊重しながら朝廷と幕府・雄藩が協力して政治を行う「公武合体」を掲げる薩摩藩が台頭。やがて公武合体派が幕府を主導し、文久元年(1861年)には徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮が婚姻を結びました。

公武合体の裏側で、長州藩と急進的尊王攘夷派の公卿たちは幕府に攘夷を実行するよう圧力をかけます。交渉の結果、幕府は攘夷の期限を文久3年5月10日(1863年6月25日)と決めました。ただしこれは「外国側からの武力行使があった場合に応戦する」といった消極的なものでした。

しかし、急進的尊王攘夷派が主導する長州藩は、5月10日に攘夷を実行します。長州藩は下関に砲台を築き軍艦を配置し、アメリカ、フランス、オランダの船を砲撃しました(下関事件)。激怒したアメリカとフランスが報復措置として下関を砲撃し、長州藩は大ダメージを受けましたが、攘夷への熱意は高いままでした。

八月十八日の政変と新選組の誕生

急進的尊王攘夷派の暴走に悩んだ孝明天皇は薩摩藩と協力し、彼らを政治から排除することを決意します。こうして文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とする公武合体派がクーデターを起こし、長州藩や急進的尊王攘夷派の公卿たちを失脚させました(八月十八日の政変)。長州藩は京都、ひいては政治の中心から追放され、三条実美ら急進的尊王攘夷派の公卿7人が長州藩に都落ちします(七卿落ち)。

この八月十八日の政変で初任務に就いたのが、近藤勇率いる「壬生浪士組」。後の新選組でした。壬生浪士組の前身である「浪士組」は庄内藩出身の浪士・清河八郎が文久3年(1863年)2月の徳川家茂の上洛に合わせて募集した組織でした。当初の目的は将軍の警護で、身分や年齢を問わず募集したため多くの人々が集まりました。

しかし、清河八郎は浪士組を尊王攘夷活動の組織にしようと考え、京に到着後、江戸に戻って攘夷をするよう訴えます。これに反対したのが近藤勇と芹沢鴨たち後の新選組メンバーでした。反対した人々は京都守護職の会津藩預かりになり、「壬生浪士組」を名乗るようになります。

壬生浪士組は八月十八日の政変の際、御所の建礼門周辺の警護に就きました。雨の降るなか真摯に警護をする様子が孝明天皇に認められ、朝廷から武家伝奏で「新選組」の名を得ました。なお、名前は松平容保が命名したという説もあります。新選組はその後、京都守護職・松平容保のもとで京の町の警備などの治安維持活動をおこなっていくことになります。

長州藩の尊攘派が京で暗躍

八月十八日の政変で政治の場から追われ、京への立ち入りを禁じられた長州藩。なんとか政権に復帰しようと考えます。長州藩内では「武力をもって京に侵攻し長州の無実を訴える」と主張する進発論者と、「慎重に動くべき」と主張する慎重論者が対立し、藩を二分しての大論争が巻き起こりました。

そんななか、長州藩の藩士の一部は八月十八日の政変後も再起を望んで京に潜伏していました。他藩の尊王攘夷派たちと連絡を取り合いつつ情報を収集し、要人の暗殺を企て武器を集めるなどの活動をしていたようです。幕府はそうした尊王攘夷派の動きを警戒し、新選組に市中巡察や内偵等を行わせました。

池田屋事件①古高俊太郎を逮捕、御所放火・天皇拉致計画が発覚

元治元年(1864年)5月下旬、新選組諸士調役兼監察の山崎丞や島田魁たちは四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門が尊王攘夷派だと突き止めました。そして6月5日の早朝、新選組は枡屋喜右衛門を逮捕。このとき武器や長州藩との書簡などが発見されました。

新選組副長の土方歳三が拷問したところ、枡屋喜右衛門の正体は尊王攘夷派の浪士の一人である古高俊太郎だと発覚。さらに祇園祭の間の風の強い日に御所に火を放ち、中川宮を幽閉、松平容保などを暗殺し、孝明天皇を長州へと連れ去ろうと計画していたことが明らかになったのです。

新選組は俊太郎が捕まったことで、尊王攘夷派が会合を開くはずと推察。会津藩と桑名藩の協力のもと、潜伏していた尊王攘夷派を一挙に捕らえようと考えました。

池田屋事件②近藤隊が池田屋に到着

しかし、会津藩と桑名藩の藩兵はなかなか出動しませんでした。業を煮やした新選組は、独断で潜伏中の尊王攘夷派の浪士たちの捕縛作戦に踏み切ります。元治元年6月5日(1864年7月8日)、池田屋事件の始まりです。

当時の新選組の隊士は40名程度で、このうち副長の山南敬助ら6名が守備のために屯所に残り、残りの隊士たちは近藤勇率いる近藤隊と、土方歳三率いる土方隊の2手に分かれました(諸説あり)。この段階では尊王攘夷派の浪士たちの会合場所はわかっていません。そのため賀茂川をはさんで近藤隊が西側の木屋町筋を、土方隊が東側の縄手通を探索しました。

池田屋にたどり着いたのは近藤隊でした。近藤勇は周囲を隊士たちで囲み、自分と沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で内部に踏み込むことを決意します。

池田屋事件③池田屋に集まった浪士たち

ここで新選組から尊王攘夷派に視点を移します。池田屋に集まっていたのは、尊王攘夷派の浪士たち15名〜20名ほどだったと推察されています。

会合の目的は古高俊太郎を奪還するための話し合いで、参加メンバーのなかには池田屋を拠点にしていた、松下村塾の「三秀」の一人・吉田稔麿に加え、熊本藩の宮部鼎蔵、土佐藩の望月亀弥太などがいました。

池田屋事件④乱戦の結果、何人死亡したのか?

池田屋事件の定説では…「御用改めである!」との声とともに池田屋に新選組隊士4名が押し入ります。驚いた池田屋の主人は2階の浪士たちに知らせようと走りますが、近藤勇たちもそれを追いかけます。無駄な抵抗をしないようにと呼びかける新選組に対し、浪士たちは脱出をはかり、乱戦が始まりました。

池田屋では激しい戦闘が繰り広げられました。名剣士として知られる沖田総司は奮戦しましたが、戦闘中に病に倒れ昏倒したことで戦線から離脱。1階にいた藤堂平助は油断して鉢金を取ったところに浪士に襲われて額を斬られ、血液が目に入ったことで同じく戦線を離脱します。

永倉新八も愛刀を折られ、2名の離脱で危機的な状況に陥った新選組ですが、土方歳三ら土方隊が到着したことで新選組が盛り返しました。近藤勇も事件後の書簡で「誠に危急の命を助かり申し候」と振り返っています。

こうして近藤勇たちが突入してから約2時間後、戦いは終了しました。諸説ありますが、池田屋事件による新選組側の死者は2名から4名だと言われています(後日亡くなった隊士も含む)。

一方の尊王攘夷派の被害は大きく、宮部鼎蔵が死亡(自刃とも)、吉田稔麿はなんとか脱出するも、長州藩の屋敷近くで絶命(自刃とも)、土佐藩の望月亀弥太も脱出追手に深手を負わされて自刃しています。

池田屋事件については近藤勇が事件後に送った書簡や、永倉新八が後に語った回顧録をまとめた『新選組顛末記』をはじめ、目撃談や逃げ延びた土佐藩藩士が書いた報告書など、多くの史料が残されています。しかし、乱戦状態だったことや、池田屋事件の当日、周辺一帯をのちに会津藩や桑名藩が制圧しており、夜を徹して残党狩りが行われていることなどから、池田屋事件で亡くなった人数などはあいまいです。

たとえば事件直後の近藤勇の報告では「打ち取り7人、手傷追わせ4人、召し捕え23人」と報告していますが、同じ新選組の島田魁の日記では「捕縛11名、即死20名」。会津藩の記録では9人を殺傷し11人を逮捕しています。

池田屋事件の謎①桂小五郎はいたのか

池田屋事件にまつわる大きな謎のひとつが、「現場に桂小五郎はいたのか」です。桂小五郎は池田屋での会合に参加する予定でしたが、本人の回想録によれば、池田屋に到着するのが早すぎたために一度池田屋を去り、対馬藩邸にいたとのこと。

一方で、事件当夜に池田屋にいたという証言や、事件が発生した際2階から屋根をつたって逃げたという説もあります。桂小五郎は「逃げの桂」の異名を持つ人物ですからありうる話です。本人が「臆病者」呼ばわりされるのを避けるため、嘘の証言をしている可能性があるとの説もあり、真相は闇の中です。

池田屋事件の謎②沖田総司は喀血したのか

池田屋での戦闘中、沖田総司が途中で離脱したことは有名です。永倉新八も回顧録で「病気にて」離脱した、と書いていますが、その原因は労咳(肺結核)による喀血という説があります。ドラマ等のフィクションでは池田屋事件で沖田総司が喀血している姿が見られます。

肺結核は沖田総司の死因として有名ですが、総司は池田屋事件の数日後には隊務に復帰しており、喀血するほどひどい状況であれば難しいであろうこと、そもそも池田屋事件で肺結核を発症していた場合、慶応4年(1868年)まで生き延びられるのか?という疑問があります。

このため現在では喀血はあくまでもフィクションで、沖田総司が倒れた原因は別の病気だった、または熱中症だった、そもそも倒れていなかったのでは?という説まで出ています。

池田屋事件の謎③「階段落ち」はあったのか

池田屋事件といえば2階からの「階段落ち」。ドラマや映画では近藤勇に斬られた浪士が派手に階段を転がり落ちるシーンがありますが、こちらは後世のフィクションです。元ネタは子母澤寛の『新選組始末記』。子母澤寛が生き残った人々からの取材を元に描いていますが、面白さを重視している部分もあるので史実ではないフィクションも含まれています。

ちなみにこの時階段落ちしたとされる浪士が土佐浪士の北添佶摩ですが、実際は自刃しています。

池田屋事件の謎④そもそも放火や天皇拉致計画は嘘?

池田屋事件の根本にかかわる説ですが、古高俊太郎の供述を根拠に広まった「御所放火・要人暗殺・天皇拉致」計画は、新選組の実力行使を正当化するための幕府側の嘘だった、という説があります。

根拠となるのが桂小五郎の手記などの浪士側の手記などの記録で、そこには一切計画について触れられていないからです。池田屋での会合も古高俊太郎を救うために開かれていました。

ただし、長州藩の進発論者たちがそうした計画を秘密裏に進めていた証拠はありません。また、池田屋事件では武器や弾薬が押収されているため、何らかの武力行使が計画されていたことは確かのようです。

池田屋事件から禁門の変へ

池田屋事件により長州藩は大打撃を受けました。そして新選組ら幕府の対応に怒りを覚えた長州藩では進発論者たちが力を増し、行動をより過激化させていきました。

元治元年(1864年)7月、長州藩は軍を率いて京に向かい、朝廷に長州藩主と八月十八日の政変で追放された公卿たちの復権を願い出ますが、朝廷側はこれを拒否。このため7月19日に御所西の蛤御門周辺で長州藩と会津・桑名・薩摩藩の藩兵が激突します。「禁門の変(蛤御門の変)」と呼ばれるこの事件で長州藩は敗退。御所を攻撃したことで長州藩は天皇の敵である「朝敵」となり、後の第一次長州征伐につながっていくことになるのです。

栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。