タウンゼント・ハリス日米修好通商条約を結んだ初代米国総領事
タウンゼント・ハリス
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- 名前
- タウンゼント・ハリス(1804年〜1878年)
- 出生地
- 静岡県
幕末日本の開国を語るうえで欠かせない人物が、米国初代総領事のタウンゼント・ハリスです。下田に赴任して江戸幕府と粘り強い交渉を続けた結果、1858年(安政5年)の日米修好通商条約が締結され、日本は本格的に海外との貿易を開始することとなります。今回はそんなハリスの生涯について、詳しく解説していきます。
ハリスとはどんな人物だったのか
タウンゼント・ハリス(Townsend Harris)は、1804年(文化元年)10月4日、アメリカ・ニューヨーク州北部のサンディ・ヒル(現ハドソン・フォールズ)でジョナサン・ハリスの5男として生まれました。
ハリス家はそれほど裕福な家庭ではありませんでしたが、4男のジョンがニューヨークで商人として成功すると、家族でニューヨークに引っ越します。ハリスは14歳で商人として活動を開始。ジョンとともに陶器輸入業にかかわるようになりました。中学校卒業後に仕事を始めたハリスでしたが、両親からの教えをもとに読書にいそしみ、独学で仏・伊・西語を習得しています。当時の米国は独立後の発展期にあり、ニューヨークは商業港として栄えていたこともあり、陶器輸入業は大成功をおさめました。
その後、ハリスは国民軍に加盟し、民間消防員を務めるなどして社会活動に励み、やがて政治の世界に出ていきます。教育に興味を持っていたハリスはニューヨーク市教育委員会の第9区代表を務め、1846年(弘化3年)、42歳のときに教育委員長に選出されました。
ニューヨーク市立大学の前身「フリー・アカデミー」を創設
教育委員長となったハリスは、中学卒業者向けの無月謝の高等教育機関「フリー・アカデミー(後のニューヨーク市立大学シティカレッジ)」の設立を提案。反対意見もありましたが1847年(弘化4年)フリー・アカデミーの設立が可決され、ハリスは建設実行委員会の委員長に就任します。
しかし、同年11月にハリスの最愛の母・エリノアがこの世を去ったこと、本業である商会が赤字となってジョンから責められたことなどにより、1848年(弘化5年)1月、ハリスはアカデミーの入学式を見ることなく、失意のうちに委員長の職を辞しました。
ペリー来航とハリス 外交官への道
教育界から退いたハリスは兄から独立します。そして東アジアで貿易活動を行い、中国や東南アジアを巡るなかで通商や外交の知識を身につけました。
その後は貿易商人から官職をめざし活動を開始。1853年(嘉永6年)、マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が日本を目指す途上に上海に立ち寄った際、中国に滞在していたハリスはペリーに書簡を送って同乗を求めます。しかし、軍人でないため断られてしまいました。ちなみにこの後ペリーとハリスは手紙などで交流を続けていきます。
1854年(嘉永7年)、ハリスは寧波の領事に任命されますが、同年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約が締結されます。条約の11条に「調印日から18か月以降経過した後、両国政府のいずれかが必要」とあるのを見つけたハリスは、領事の就任をめざし、寧波に公務を代行する副領事を置いたうえでニューヨークに戻ります。
なお、条約11条については、日本語版では「やむを得ない場合」「両国政府の同意が必要」となっており、ハリスが下田に到着した際にもめる原因となりました。
ハリスが初代米国駐日領事に就任
ニューヨークに戻ったハリスは人脈を駆使し、当時の大統領のフランクリン・ピアスの信頼を得て、初代米国駐日領事に任命されます。当時の日本は、日米和親条約によって下田と箱館を補給港として開港していましたが、本格的な通商は認めていませんでした。米国政府はさらに踏み込み、ハリスに日本との貿易開始のために修好通商条約を締結するよう命じたのです。
1855年(安政2年)10月、ハリスはアメリカを出発。途中で通訳兼書記官のヘンリー・ヒュースケンと合流したのち、シャムを訪れて5月29日に通商条約を締結。その後、香港で船の修理をして8月12日に日本に向けて出港し、8月21日に下田に到着しました。
下田で領事館を開設 幕府との対立
ハリスの日記によれば、8月21日に下田に到着したのち、サン・ハシント号を下田奉行所の役人が訪れました。幕府側としては米国との通商を望んでおらず、ハリスには穏便にさっさと帰国してほしいと考えていました。一方、ハリスは当然のごとく駐在を求めます。これは前述の通り、日米和親条約第11条の解釈の違いによるものでした。さらに、幕府としては下田が前年12月に発生した安政東海地震により壊滅的な打撃を受けていたことから、受け入れは難しいと主張しました。
しかし、ハリスは頑として譲らず交渉を続けました。結局幕府はハリスの暫定的な滞在許可を出し、ハリスは下田の玉泉寺に滞在することとなりました。玉泉寺は以前に日露和親条約の交渉の場となるなど、外国人の受け入れ経験が多い寺でした。このため幕府はハリスの滞在場所として選んだのです。ハリスは9月3日に玉泉寺に入り、翌日星条旗を据えました。
唐人お吉とは?ハリスとの関係
ハリスは下田からたびたび江戸城への登城要求を行います。将軍に謁見し、大統領の親書を直接渡したいと主張したのです。しかし、幕府側は「下田奉行が受け取り江戸に届ける」と主張。議論は平行線でした。ハリスはストレスの結果体調を崩して病に苦しみます。このため米国側は看護婦の斡旋を求めます。日本側は「看護婦」制度を知らなかったため「側女を求められた」と勘違いしました。
こうして5月に日本人女性のきちとふくが看護役として出仕しました。このきちは後世、ハリスの妾だった「唐人お吉」として悲恋物語化されましたが、実際お吉がハリスに仕えたのはわずか3日間のみだったことなどから、現在「唐人お吉」はほぼ創作だとされています。
下田追加条約の締結、そして江戸へ
病が落ち着いたハリスは1857年6月17日(嘉永7年5月22日)、下田奉行と「下田追加条約(日米和親条約付録)」を締結します。追加条約では長崎港の開港と、米国人の下田と箱館での逗留許可、そして長い間の懸念事項だった日米間の貨幣交換比率の改定、領事裁判権などを決定しました。
9月7日、アメリカから軍艦「ポーツマス号」がハリス宛の郵便物と新聞を持参し下田に入港。箱館に移動したのち、再び下田を訪れるというポーツマス号に対し、下田奉行は「業を煮やしたハリスがポーツマス号で江戸に直行するのでは」と危惧して幕府に急使を送りました。これを受けた幕府は9月22日、ハリスの江戸訪問と将軍への許可を出しました。こうしてハリスは11月23日。総勢約350人の行列とともに玉泉寺を出立しました。
ハリスと日米修好通商条約交渉
1857年(安政4年)11月30日、ハリス一行は江戸に到着し、12月7日に将軍・徳川家定と謁見し、大統領の親書を渡し、謁見は無事に終了しました。しかし、ハリスにとっての本番はここからでした。
12月12日、ハリスは老中の堀田正睦の公邸で世界情勢について説きました。ハリスは蒸気機関の発明により大陸間の移動時間が短縮したことで、外国が日本に開国を迫る点を説明。米国が関税で利益を得ていることを例に挙げ、鎖国をやめて貿易を開始し、関税を設けることで収益を得て海軍の防衛準備をまかなえる点等メリットを訴えました。
加えて、アメリカは日本を領土とする野心はなく、友好的に自由貿易をしたいと主張。英国に清が敗れた「アヘン戦争」に触れ、日本も開国しなければ英国やフランスなどとの武力衝突の危険にさらされると訴えました。
その後もハリスは十数回にわたって幕府の首脳陣と討論を続けますが、幕府の首脳陣は「条約締結には天皇の許可が必要」として最終決定をなかなかしませんでした。当時の天皇は外国嫌いの孝明天皇。このため交渉は長期化し、ハリスは条約交渉に起因する過労にストレスが重なり、体調を崩していきます。
1858年3月6日、ハリスは幕府側から「条約の調印式を4月21日に行う」との約束を得たうえで、蒸気船「観光丸」に乗り込み下田に戻りました。その後、ハリスは嘔吐や頭痛に苦しみ、一時は瀕死の状態になりましたが何とか回復しました。このときハリスは療養のため牛乳を求めており、この時手配された牛乳が日本における牛乳売買の始まりだとされています。
孝明天皇と条約勅許問題
病気は治りきらないままでしたが、ハリスは調印式を見据えて4月18日に江戸の宿舎に戻りました。ところが幕府側は肝心の天皇の勅許を得ておらず、条約は調印できないことに。このころ京では老中首座の堀田正睦が参内して勅許を得ようと働きかけていましたが、公家たちが抗議の座り込みを行うなど(廷臣八十八卿列参事件)、条約反対の風が強く吹いていました。
京から戻った堀田正睦は、条約の勅許を得られなかったことなどを攻められ失脚。代わって将軍の補佐的な役割をこなす臨時職である「大老」に井伊直弼が就任しました。その背景には一橋派と南紀派による将軍継嗣問題もありました。正睦は一橋慶喜を次代将軍に推す一橋派、井伊直弼は紀州藩主の徳川慶福を推す南紀派で争っていたのです。家定は慶福を跡継ぎと定め、6月4日に井伊直弼を大老に就任させました。
交渉の窓口となった井伊直弼に対し、ハリスは9月の条約調印の約束を取り付け、6月18日に下田に戻りました。その後、直弼は朝廷との交渉を開始しますが苦戦します。
日米修好通商条約締結と井伊直弼
1858年7月23日(安政5年6月13日)、アメリカ艦隊のミシシッピ号が下田に到着し、ハリスに「英仏艦隊とロシア艦隊も条約交渉を目指して日本を目指している」というニュースを知らせます。当時、英仏露米の4ヶ国は第2次アヘン戦争の講和条約として天津条約を締結し、戦争は停戦していたのです。清の次は日本、というわけでした。
続いて軍艦「ポーハタン号」が下田に入港すると、ハリスとヒュースケンは船で江戸に向かい、幕府にすぐさま条約を締結するよう主張します。列強によって清国のような不平等条約を結ばされる可能性 があるので、その前に米国と条約を結び「先例」を作るべきと強く訴えたのです。このため幕府内には「勅許なしでも条約締結すべきでは」という流れが生まれます。井伊直弼は天皇の勅許が必須と考えていたものの、「やむを得ない場合は是非に及ばず」と現場に判断をゆだねました。
こうして1858年7月29日(安政5年6月19日)、日米修好通商条約が天皇の勅許なしに締結されました。
日米修好通商条約は不平等条約だったのか
日米修好通商条約は全14条からなる条約で、米国公使の江戸駐在、神奈川、長崎、新潟、兵庫港の開港、外国人居留地の設定、領事裁判権(治外法権)、関税自主権の喪失などの内容でした。特にポイントとなるのが関税自主権の問題でした。
関税率は条約の貿易章程により、主要輸入品目が20%、酒類は35%の関税を課すと規程されました。当時のアジア諸国の税率を見ると、清は5%、インドは2.5%だったことから、関税は日本にとって有利なものでした。このため、日米修好通商条約は「必ずしも不平等条約ではなく、関税率は日本にとって有利だった」というのが現在の主流となっています。
ちなみに関税率が5%まで引き下げられて不平等になったのは、1866年(慶応2年)の改税約書から。1863年(文久3年)に長州藩が英・米・仏・蘭と争った下関戦争の結果結ばれた条約で、下関戦争の賠償金を三分の二に減免するためのものでした。
ヒュースケン暗殺とハリス帰国
その後、ハリスは条約締結の功を認められて初代駐日公使となり、1859年7月7日(安政6年6月8日)に江戸の麻布山善福寺に公使館を置きました。そして各国の外交団の代表者的な存在として幕府と各国の調整役を担いました。また、日本と海外の金銀の交換比率の是正に努めるとともに、プロテスタントの宣教師たちを支援。日本の遣米使節団をアメリカに送るために旅費や滞在費を賄うなどしています。
外交に活躍するハリスでしたが、ショッキングなニュースが飛び込んできます。なんと長らく相棒で、当時はプロイセンの助力をしていたヒュースケンが、1861年1月15日(万延元年12月5日)の夜、江戸で攘夷派浪士に襲撃され殺害されたのです。この事件はハリスはもとより外国公使たちに大きな衝撃を与えました。ハリス自身も日本国内の治安悪化に危機感を抱き、幕府へ警備強化を要求しています。
親しかった仲間を失い、孤独を感じるようになったハリスは失意のなか、リンカーン大統領に駐日大使の辞意を表明。体調不良等の理由もあったようです。こうして1862年5月8日(文久2年4月9日)、ハリスは日本を去りました。
米国に戻ったハリスは帰国後は業績を表彰され、定期的な恩賞を与えられました。ニューヨークの商工会議所の名誉会員をはじめ、数々の団体から招聘されました。動物愛護団体の発起人にもなっていますが、特に公職には就きませんでした。1872年(明治5年)に岩倉使節団がニューヨークを訪問した際は、使節団がハリスに面会し、通商修好条約締結の話などをしたことが当時の記録に残っています。
のんびりとした老後を過ごしたハリスは、1878年(明治11年)2月25日、74歳で死去。多くの人々に見送られながらブルックリンのグリーンウッド墓園に葬られました。
タウンゼント・ハリスの年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1804年 | 文化元年 | 0歳 | アメリカ合衆国ニューヨーク州に生まれる |
| 1856年 | 安政3年 | 52歳 | 初代アメリカ総領事として下田に着任 |
| 1857年 | 安政4年 | 53歳 | 江戸城に登城し、将軍・徳川家定に謁見 |
| 1858年 | 安政5年 | 54歳 | 日米修好通商条約を締結 |
| 1859年 | 安政6年 | 55歳 | 条約に基づき横浜などが開港 |
| 1861年 | 文久元年 | 57歳 | 総領事を辞任し日本を離れる |
| 1878年 | 明治11年 | 73歳 | アメリカで死去 |
- 【参考文献など】
- 「タウンゼンド・ハリス―教育と外交にかけた生涯」中西道子/著(有隣新書)
- 「不平等ではなかった幕末の安政条約 関税障壁20%を認めたアメリカ・ハリスの善意」鈴木荘一/共著(花伝社)
- 「歴史人2025年7月号」(昭文社)
- 玉泉寺
- The City College of New York
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。