石見銀山島根県大田市

夏の石見銀山1 夏の石見銀山2 夏の石見銀山3 夏の石見銀山4 夏の石見銀山5 夏の石見銀山6 夏の石見銀山7 夏の石見銀山8
  • 16世紀から17世紀初頭にかけて、世界経済にも影響を与えた日本有数の銀山
  • 鉱山、鉱山町、街道、港町までが一体で残る世界文化遺産
  • 龍源寺間歩、大森の町並み、温泉津、沖泊、鞆ケ浦で知られる文化的景観

石見銀山とは、島根県大田市大森町を中心に広がる銀山遺跡である。正式な世界遺産登録名は「石見銀山遺跡とその文化的景観」で、銀鉱山跡と鉱山町、銀を運んだ街道、積み出しに使われた港と港町までを含む広大な文化遺産である。16世紀前半、博多の商人・神屋寿禎によって本格的な開発が始まったとされ、天文2年(1533)に灰吹法が導入されると、銀の生産量は飛躍的に増加した。石見銀山で生産された銀は、国内の戦国大名の経済を支えただけでなく、東アジアやヨーロッパとの交易にも関わり、世界的な銀の流通に影響を与えた。戦国時代には、大内氏、尼子氏、毛利氏らが銀山の支配をめぐって争い、江戸時代に入ると徳川幕府の直轄地となり、大森代官所を中心に管理された。石見銀山の特徴は、単に坑道や鉱山跡が残るだけではない点にある。採掘・精錬の場である銀山柵内、鉱山の行政と生活を支えた大森の町並み、銀や物資を運んだ石見銀山街道、積み出し港である鞆ケ浦、沖泊、温泉津が一体となり、鉱山経営の全体像を現在に伝えている。現在、龍源寺間歩は一般公開されている代表的な坑道であり、大森の町並みでは武家屋敷、商家、社寺、代官所跡などを見ることができる。平成19年(2007)には、近代化以前の銀生産と鉱山社会を示す文化的景観として、ユネスコ世界文化遺産に登録された。

石見銀山の特長
目的 銀の採掘、銀の精錬、銀の流通、戦国大名・江戸幕府の財源確保、鉱山町の形成、街道と港を通じた物流、鉱山技術の継承、文化的景観の保存、世界文化遺産としての歴史継承
特長 石見銀山、石見銀山遺跡とその文化的景観、銀山柵内、大森銀山、仙ノ山、福石鉱床、間歩、龍源寺間歩、大久保間歩、釜屋間歩、清水谷製錬所跡、大森代官所跡、大森の町並み、熊谷家住宅、羅漢寺五百羅漢、石見銀山街道、鞆ケ浦道、温泉津・沖泊道、鞆ケ浦、沖泊、温泉津、灰吹法、神屋寿禎、大内氏、尼子氏、毛利氏、徳川幕府、大久保長安、世界文化遺産
他の鉱山遺跡との違い ・鉱山だけでなく、鉱山町、街道、港町まで含めて銀生産と流通の全体像を伝えている
・近代的な大規模開発を受けにくかったため、間歩、製錬跡、集落、街道が良好に残されている
・16世紀から17世紀初頭にかけて生産された銀が、東アジアやヨーロッパとの交易にも関わった
・大森の町並みは、幕府直轄地の中心町として、武家・商家・社寺が混在する鉱山町の姿を伝えている
・自然環境、鉱山遺跡、町並み、港、街道が一体となった「文化的景観」として世界遺産に登録されている
石見銀山への交通アクセス
JR山陰本線「仁万」駅よりバス約20分。

HISTORY 石見銀山について

石見銀山の歴史
中世以前 仙ノ山周辺では、銀を含む鉱石の存在が知られていたと考えられ、山が光ったという発見伝承も残る
1309年 延慶2年、大内弘幸が北斗妙見大菩薩の導きにより銀山を発見したという伝承が残る
1527年 大永7年、博多の商人・神屋寿禎が石見銀山を発見し、本格的な開発が始まったとされる
16世紀前半 神屋寿禎は、大内氏との関係や国際貿易の知識を背景に、仙ノ山周辺で銀山開発を進める
1533年 天文2年、朝鮮半島由来の精錬技術である灰吹法が石見銀山に導入され、銀の生産が本格化する
1530年代 石見銀山の価値が高まると、大内氏、尼子氏、小笠原氏ら周辺勢力による銀山争奪が激しくなる
1540年代 石見銀山で産出された銀は、博多商人や大内氏の交易網を通じ、東アジアの貿易とも結びついていく
1551年 天文20年、大内義隆が滅亡し、石見銀山の支配をめぐる情勢が大きく変化する
1550年代 尼子氏と毛利氏の抗争の中で、石見銀山は中国地方の戦国大名にとって重要な軍資金源となる
1562年頃 毛利元就が石見銀山を掌握し、毛利氏の支配下に入る
16世紀後半 石見銀山の銀は、毛利氏の経済基盤を支え、戦国期の政治・軍事活動にも大きな影響を与える
1590年 豊臣秀吉の天下統一後、毛利氏は豊臣政権下の大名として中国地方を支配し、石見銀山の銀も豊臣政権と関わる
1600年 慶長5年、関ヶ原の戦い後、徳川家康が石見銀山周辺を掌握し、幕府直轄化を進める
1601年 慶長6年、大久保長安が初代石見銀山奉行となり、石見銀山の支配と生産体制を整える
江戸時代初期 徳川幕府は石見銀山を直轄地とし、大森に代官所を置いて銀山と周辺の御料を管理する
1600年代前半 大久保長安らの政策により、間歩経営、生産管理、輸送体制が整えられ、石見銀山は最盛期を迎える
17世紀初頭 石見銀山では大量の銀が生産され、日本国内だけでなく、東アジア・ヨーロッパを含む世界的な銀の流通に関わる
1620年代 銀の産出量は次第に減少し始めるが、鉱山経営は継続される
江戸時代 大森の町は、石見銀山附御料を治める幕府直轄地の中心町として発展する
江戸時代 銀や物資は石見銀山街道を通じて運ばれ、鞆ケ浦、沖泊、温泉津などの港町が鉱山経営を支える
江戸時代中期 銀の生産は減少する一方で、銅などの鉱物資源の採掘も行われ、鉱山町としての営みは続く
1764年~1766年頃 羅漢寺五百羅漢が造立され、銀山で亡くなった人々の供養や地域の信仰を伝える場となる
幕末 石見銀山の生産力は最盛期に比べて低下していたが、鉱山と大森の町は地域の中心として存続する
1868年以後 明治維新により、石見銀山は幕府直轄地から新政府の管理下へ移る
1872年 明治5年、浜田沖地震の影響により多くの間歩が水没し、鉱山経営は大きな打撃を受ける
1887年 明治20年、藤田組によって鉱山経営が再開され、近代的な鉱山開発が進められる
1895年頃 清水谷製錬所が建設され、近代的な製錬による再開発が試みられる
1905年 明治38年、永久鉱床で富鉱帯が発見され、電力や新式設備を用いた近代化が進められる
1923年 大正12年、第1次世界大戦後の銅価格低下などを背景に、石見銀山は休山する
1957年 昭和32年、大森町文化財保存会が組織され、石見銀山と大森の町並みを守る地域活動が始まる
1969年 昭和44年、石見銀山遺跡が国の史跡に指定される
1976年 昭和51年、町民有志により石見銀山資料館が開館し、地域による保存と発信が進む
1987年 昭和62年、大森銀山の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定される
2001年 平成13年、「石見銀山遺跡とその文化的景観」が世界遺産暫定一覧表に記載される
2006年 平成18年、ユネスコへ世界遺産登録推薦書が提出される
2007年 平成19年、「石見銀山遺跡とその文化的景観」がユネスコ世界文化遺産に登録される
2010年 平成22年、世界遺産資産範囲の軽微な変更が承認される
現代 石見銀山では、龍源寺間歩、大森の町並み、代官所跡、五百羅漢、銀山街道、温泉津、沖泊、鞆ケ浦などを通じ、銀山経営の全体像を学ぶことができる
現在 石見銀山は、近代以前の銀生産、鉱山町、街道、港町を一体で伝える世界文化遺産として、多くの来訪者を迎えている