増山城跡富山県砺波市

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  • 越中三大山城のひとつに数えられる山城
  • 神保氏・上杉氏・佐々氏・前田氏が関わった戦国の城
  • 曲輪・堀切・土塁が残る続日本100名城

増山城跡とは、富山県砺波市にある中世から織豊期にかけての山城跡である。和田川東岸の丘陵に築かれ、戦国時代には越中守護代・神保氏の重要拠点として機能した。上杉謙信の越中侵攻、織田勢の進出、佐々成政や前田氏の支配など、北陸の覇権をめぐる攻防の舞台となった城である。現在は国指定史跡として整備され、二ノ丸、安室屋敷、鐘楼堂、堀切、土塁、曲輪群などから、越中屈指の山城の姿をたどることができる。

増山城跡の特長
目的 神保氏の支城、越中支配の拠点、北陸方面の軍事拠点
特長 山城、曲輪群、堀切、土塁、竪堀、虎口、続日本100名城
他の城との違い ・越中を代表する大規模な中世山城である
・戦国期から織豊期にかけて、神保氏・上杉氏・佐々氏・前田氏などが関わった
・石垣や天守を見せる城ではなく、曲輪・堀切・土塁を歩いて体感する土の城である
増山城跡の石垣・土塁
石垣 なし
土塁 現存
種類 土塁、堀切、竪堀、曲輪、虎口、山城
石材 該当なし
特長 増山城跡は石垣を主体とする城ではなく、丘陵地形を活かし、土塁・堀切・竪堀・曲輪によって構成された中世山城である。城域は和田川東岸の広い範囲に及び、二ノ丸を中心に複数の曲輪が配置されている。深い堀切や土塁によって尾根筋を遮断し、敵の侵入を制御する構造が見られる。石垣や建物ではなく、山の地形そのものを防御施設として使った点が増山城跡の大きな特徴である。
増山城跡DATA
別称 和田城
所在地 富山県砺波市
築城 南北朝時代頃と伝わる
築城者 不明
住所 富山県砺波市増山周辺
電話番号 0763-33-1111
開館時間 増山城跡は見学自由。増山陣屋は8時30分~17時
休館日 増山城跡はなし。増山陣屋は12月26日~3月14日まで冬期閉鎖
入館料 無料
備考 増山城跡は国指定史跡で、続日本100名城にも選定されている。見学時は増山陣屋に駐車し、和田川ダムを渡って冠木門の登山口から入る。冠木門から二ノ丸へ行って戻る目安時間は約30分。山城のため、歩きやすい靴での見学が望ましい。
増山城跡への交通アクセス
JR城端線「砺波」駅より車で約20分。
増山城へのアクセスと回り方
増山城攻城の起点となる増山陣屋へはJR城端線砺波駅からタクシーで20分、または北陸自動車道砺波ICから車で20分。天気の良い日は砺波駅からのレンタサイクルもおすすめ。50分くらいで到着します。整備はされていますが、山城なので歩きやすい靴と服装で訪れましょう。なお、増山陣屋とトイレは冬期は閉鎖されているので注意が必要です。
増山陣屋から歩いてダムを渡り、約5分で冠木門の登山口に到着。二ノ丸(本丸)まで往復すると約30分かかります。
詳しく見学したい場合は「曲輪の会」にガイドを依頼するか、看板のQRコードを読み取り音声ガイド「ますナビ」を利用しましょう。スマートフォン向けのARアプリ「城ポジ 増山城-謙信の秘刀-」もおすすめです。

HISTORY 増山城跡について

増山城跡の歴史
南北朝時代 史料に見える「和田城」が増山城の初見とされる
15世紀後半 越中守護代・神保氏が重要な支城として整備したと考えられる
戦国時代 一向一揆勢、上杉氏、神保氏などが越中支配をめぐって争う
1560年 上杉謙信が越中へ攻め込み、神保長職が富山城を放棄して増山城へ移る
1576年 上杉謙信の相次ぐ侵攻を受け、増山城が落城する
1581年 織田勢により増山城が焼き払われる
1583年以降 佐々成政の越中平定後、増山城が佐々氏の拠点のひとつとなる
1585年 豊臣秀吉の越中侵攻後、佐々成政が降伏する
16世紀末~慶長年間頃 前田利家の重臣・中川光重が城に入り、増山城は慶長年間頃まで存続したと考えられる
2009年 増山城跡が国の史跡に指定される
2017年 続日本100名城に選定される

増山城跡、越中三大山城に数えられる戦国の要衝

富山県砺波市にある増山城は、越中三大山城の一つに数えられる大規模な山城です。守護代・神保氏や上杉謙信、佐々成政など名だたる戦国武将が関わった城として知られ、現在でも複雑な縄張や堀切、土塁など中世山城の姿を色濃く残しています。国指定史跡であり、「続日本100名城」にも選定されている名城です。

増山城跡
増山城跡の歴史
増山城の始まりは南北朝時代までさかのぼると考えられており、当時の史料に登場する「和田城」が現在の増山城にあたるとの説があります。15世紀後半には越中守護畠山氏の守護代・神保氏の支城として整備されました。
増山城は和田川を天然の外堀とし、内回り道の深い谷を空堀にしつつ、急峻な尾根を巧みに利用した防御に優れた城です。戦国時代には越中支配を巡る争いの最前線となりました。
戦国時代の越中は、神保氏、一向一揆勢、越後の上杉氏が激しく争う地域でした。永禄年間(1558〜1570年)には神保長職が上杉謙信の攻撃により本拠の富山城を失って増山城へ移り、城を整備。この時縄張りの基礎ができたと推察されています。
その後、神保氏は上杉氏と争い、天正4年(1576年)、上杉謙信の侵攻によって城は落城しました。謙信は増山城を合計3度にわたって攻めており、「堅牢強固な城」と評したとも伝えられ、その防御力の高さがうかがえます。
謙信の死後は織田信長の勢力が越中へ進出。天正11年(1583年)には城は越中を平定した佐々成政の支配下に入り、この時城は整備・拡張されました。
成政は信長亡き後は柴田勝家につき、豊臣秀吉と敵対。賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れたのちは、秀吉に臣従し、越中一国を安堵されました。
ところが成政は徳川家康に接近し、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで家康方につきます。その後も反豊臣の姿勢を崩さなかったため、秀吉は天正13年(1585年)、富山の役で成政を討伐。降伏し一命は取り留めた成政ですが、領地は没収されました。
代わって入ったのが前田利家で、増山城には重臣・中川光重が城主として入りました。とはいえ光重は不在期間が長く、実際は光重に嫁いだ利家の娘・蕭が切り盛りしていたと伝わっています。
その後、増山城は江戸時代初頭の慶長年間(1596〜1615年)まで存続し、廃城になったと推定されています。跡地は加賀藩の御林となり、杉が植林されました。
現在では広大な城跡一帯が「増山城跡公園」として保存され、平成21年(2009年)には国指定史跡、平成29年(2017年)には続日本100名城に選ばれました。
増山城の見どころ①二ノ丸
増山城で最も重要な曲輪が二ノ丸です。現在の調査ではここが実質的な主郭だったと考えられており、東西約90m、南北約50mという広さを誇ります。唯一石垣が残るのもこちら。ただし、規模から防衛というより権力を誇示するためとみられています。
二ノ丸を中心に四方に一ノ丸、安室屋敷、三ノ丸等が並び、その外に無常の曲輪や堀切を配置することで二ノ丸を守っていました。
北東隅には櫓台が設けられ、標高124.23mと城内でもっとも高い場所でした。中央には神水鉢が残っていますが、何に使われたのかははっきりわかっておらず、軍旗などを立てるための旗竿石だったのではと言われています。
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見どころ②ダイナミックな堀切
増山城最大の魅力は、山城らしい複雑な縄張と、それを構成するダイナミックな堀切です。城の北側に約300mにわたって延びる大堀切は、いくつかの尾根を断ち切るように造られており、深さは約10m以上にも及びます。
二ノ丸と安室屋敷の間にある堀切は、幅約16m、深さ10m以上。断面がV字形になった堀切の構造をよく観察できます。
また、南西側には竪堀6本からなる畝状竪堀群も見つかっています。
見どころ③安室屋敷・曲輪群
二ノ丸へ向かう途中にある「F郭(仮称)」や「馬之背ゴ(E郭)」などの曲輪も見どころです。特に馬之背ゴは16世紀に拡張されたもので、L字型の平坦面が特徴。櫓台跡と思われる場所が残されています。
このほか、一ノ丸、三ノ丸、無常の郭など数多くの曲輪が配置されており、それぞれが土塁や堀切で区切られ、敵が一気に攻め込めないよう工夫されています。
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見どころ④砺波市埋蔵文化センター
平成27年(2015年)4月に開館した「砺波市埋蔵文化財センターしるし」は、砺波市立庄東小学校の旧寄宿舎をリノベーションした施設です。館内では、増山城跡から出土した遺物や増山城の模型などを見学できます。続100名城スタンプの設置場所でもあり、登城とあわせて訪れたいスポットです。
増山城跡のおすすめ撮影スポット
おすすめは二ノ丸付近から眺める堀切と曲輪群です。城の高所にある二ノ丸からは、尾根沿いに連なる曲輪や深い堀切を眺められます。秋の紅葉の時期は特に美しく、戦国時代の山城らしい景観を写真に収められますよ。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。