宇喜多直家戦国三大梟雄の1人

宇喜多直家

宇喜多直家

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人物記
名前
宇喜多直家(1529年〜1581年)
出生地
岡山県
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岡山城

岡山城

戦国時代、備前国(現在の岡山県)に突如として戦国大名となった武将がいました、宇喜多直家です。現在の岡山県(備前、備中、美作)は戦国時代、赤松家が守護大名として統治していました。ところが赤松家は家臣であった守護代の浦上家に取って代わられ、その浦上家に仕えていたのが宇喜多家でした。この宇喜多家に生まれた直家がどのように大名となったかを今回は見ていこうと思います。

宇喜多直家の宇喜多家とは

宇喜多直家が生まれた宇喜多家。
宇喜多家は備前国(現在の岡山県東南部)にあった戦国大名です。元々は地名に由来する「浮田」姓でしたが、嫡流が字を当てて「宇喜多」、庶流は「浮田」を名乗っていました。

宇喜多家は比較的遅く出たて来た大名で、文献上では室町中期に備前国の土豪として宇喜多姓が初出します。室町時代には播磨、備前、美作の守護大名赤松家に属していましたが、赤松家の守護代浦上家が台頭してくると宇喜多能家は浦上家の家臣となりました。

こうして備前国の大名浦上家家臣の子として宇喜多直家は生まれます。

直家の出生と浦上家臣

宇喜多直家は享禄2年(1529)、宇喜多能家の孫(父は宇喜多興家と言われているが不明)として砥石城にて生まれます。

生まれた後の享禄4年(1531)、備前国戦国大名の浦上村宗が敗死すると備前国はおおいに混乱し祖父の宇喜多能家や父は暗殺されました。宇喜多直家は放浪した後に浦上宗景に仕え、頭角を現します。浦上家は播磨国などの守護大名であった赤松家の第一の家臣として仕えていました。浦上宗景の兄、浦上政宗も赤松家に仕えていましたが、弟の浦上宗景は備前国で兄から独立し戦国大名化します。宇喜多直家は独立した浦上宗景の下、謀略に長け宇喜多能家を暗殺した島村盛実、舅である中山勝政や龍ノ口城主であった穝所元常を殺害し浦上宗景の支配力強化に貢献します。これら宇喜多直家の行った暗殺、謀殺などから後年には斎藤道三、松永久秀と並んで『戦国時代の三大梟雄』、安芸国の毛利元就、出雲国の尼子経久と並んで『中国地方の三大謀将』と呼ばれます。宇喜多直家に対するこれら評価は江戸時代初期に小瀬甫庵が書いた『太閤記』で挙げた事や当時の軍紀物などで脚色された面があります。その一方で親類などを謀殺した事実もある為、一概に創作されたイメージばかりでもなかったようです。

また舅の中山勝政を襲った際は主の浦上宗景の指図ともされますが、中山勝政を襲った事で勝政の居城であった備前亀山城を手にしました。直家は砥石城から亀山城へ移り、岡山城に移るまでの15年間この城を中心に備前国に影響力を強める事になります。

直家は幼い頃に備前国の中を放浪するうちに、経済の発展地であった備前福岡などを見て政治などを学び、一方で混乱した備前国で繰り返された暗殺なども見てきた為に暗殺、謀殺などの政治的暗闘に勝ち抜く術を見出しました。

直家の勢力拡大と岡山城の発展

浦上宗景に仕えながら亀山城を中心に勢力を拡大させていた宇喜多直家。

ところが同じ時期、備中国(現在の岡山県西部)の国人(地域の小豪族)三村家親が台頭してきます。三村家親は西に位置する安芸国の大大名毛利家に属すると東に位置する備前国へ勢力を拡大させていきます。永禄8年(1565)三村家親は浦上宗景や宇喜多直家の勢力下にあった美作国(現在の岡山県北部)や備前国へ侵攻し小競り合いを繰り返しました。これに腹を立てた宇喜多直家は顔見知りであった阿波国の浪人、遠藤俊通、秀清の兄弟を雇います。兄弟は重臣と協議中であった三村家親を短銃で襲撃しました。戦国時代でも珍しい鉄砲による暗殺です。

備中国の三村家親を退けた宇喜多直家は浦上宗景の下で備前国の勢力拡大を続けました。姻戚関係にあった金川城主の松田元輝や岡山城主であった金光宗高などを没落させると自分の領地に組み入れ拡大させていきます。

元亀元年(1570)には岡山城(この当時は石山城と呼ばれていました)を手に入れると、亀山城から移り城郭の改築と城下町の形成を行いました。特に城の北側を走る西国街道を城の城下に沿うよう付け替え、人の流れを岡山城に呼び寄せるよう図ります。そして備前国東部にあった備前福岡や西大寺といった商業地から商人を呼び寄せ、城下町として発展させました。宇喜多直家は街道を整備する事で流通を整え経済振興を図りました。これが現在にまで続く岡山の発展に繋がります。

浦上家からの独立と浦上宗景の追放

さて永禄11年(1568)、美濃国尾張国(現在の岐阜県、愛知県西部)の大名織田信長が足利義昭を奉じ上洛します。

翌永禄12年(1569)足利義昭は室町幕府15代将軍となりましたが、宇喜多直家の主である浦上宗景は将軍となった義昭に臣従しませんでした。そこで宇喜多直家は独自に足利義昭、織田信長と連絡を取りあい、更には西播磨の赤松政秀と結び浦上宗景に反旗を翻します。織田信長は自らに属していた畿内の国人衆などを派遣して宇喜多直家を応援しました。

ところが元亀元年(1570)織田信長は金ヶ崎の退口、姉川の戦い、第一次信長包囲網と連戦続きで備前国の内情にまで手が回らなくなります。信長が派遣していた畿内の国人たちも備前国から引き上げさせ畿内の防衛に力を入れました。織田信長の脅威から解放された浦上宗景は息を吹き返し赤松政秀の龍野城を攻め、降伏させてしまいました。足利義昭は浦上宗景と織田信長との和睦を斡旋、宇喜多直家はこの頃に浦上家から完全に独立し戦国大名となります。

天正2年(1574)、宇喜多直家は中国地方の大国毛利家と手を結びます。そして浦上宗景を中心とした備前、備中、美作(現在の岡山県)の国人衆や浦上宗景配下の諸勢力に働きかけて切り崩しを謀りました。

天正3年(1575)浦上宗景の腹心であった明石行雄ら重臣たちも内応させて浦上家内部の切り崩しも行いました。これには浦上宗景も耐えられず、天神山城の戦いで敗れると播磨国へと退散します。ここに宇喜多直家は備前国と備中、美作の一部を支配下に置きました。

しかし宇喜多直家が支配下に置いた領内において依然として、浦上家を支持する勢力がいました。播磨国に退いた浦上宗景はこれらの勢力と連絡を取りあい反宇喜多の動きを扇動します。宇喜多直家は小規模な反乱に悩まされる事になりました。

そして天正6年(1578)浦上残党は一斉に蜂起し幸島を占領、更に浦上宗景が天神山城を奪い占拠します。宇喜多直家はこの武力蜂起の鎮圧に数か月を要しました。しかし鎮圧に成功した事により浦上家勢力を支配下地域から追放、討伐し領内の支配権を明確に確立できました。

中国地方の毛利家と畿内の織田家

さて浦上宗景と暗闘を繰り返していた宇喜多直家。この間、畿内を支配下に置いていた織田信長は将軍足利義昭を追放、天正5年(1577)秋には播磨国に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を派遣し中国地方侵攻に着手します。ところが織田家に属していた播磨国の大名国人が織田家を裏切り毛利家に付きました。

浦上宗景を追放し領国の安定を手に入れた宇喜多直家は毛利家に付き、織田家に対抗します。天正7年(1579)には東美作の後藤勝基などを織田家に寝返ったとして滅ぼしています。ところが同じ年、宇喜多直家は突如として毛利家を離れ織田信長に臣従しました。これにより播磨国で毛利家に付いて戦っていた荒木村重や別所家は宇喜多直家により毛利家と分断され孤立し滅ぼされました。以降、西に位置する毛利家と宇喜多直家は美作国や備前国で戦い続けます。

直家の死と宇喜多家のその後

織田家に属し毛利家と戦っていた宇喜多直家。ところが天正9年(1581)2月14日、毛利家との戦いのさなか岡山城において病死しました。死因は悪性の腫瘍と言われており、戒名は涼雲星友として葬られます。ところが戦いの最中という事もあり、その死は伏せられていたため公式な忌日は翌年の天正10年(1582)1月9日とされました。

備前国の守護代浦上家家臣から備前、備中、美作(現在の岡山県)を支配するに至った宇喜多直家はこうして生涯を閉じました。

さて直家の亡くなった宇喜多家。家督は直家の嫡男秀家が11歳で継ぎます。天正10年(1582)には属していた織田家より備前国などの本領が安堵されました。秀家は叔父(宇喜多直家の弟)の宇喜多忠家や重臣たちに補佐され羽柴秀吉の与力に組み込まれ備中高松城の戦いなどに参陣します。ところがこの年、本能寺の変がおこり織田信長が亡くなると羽柴秀吉(豊臣秀吉)との結びつきを強くしました。豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ元服、前田利家の娘(豪姫)を秀吉の養女とした上で婚姻し豊臣家一門衆の扱いを受けます。

宇喜多秀家は豊臣家の中でも発言力の強い五大老の1人として地位を築きます。

その後、豊臣秀吉が亡くなると関ヶ原の戦いでは総大将毛利輝元に次ぐ副大将として参戦しました。ところが関ヶ原の戦いは敗北、宇喜多家は改易されます。宇喜多秀家は最終的に八丈島に送られました。八丈島において宇喜多秀家は「浮田」の姓を名乗り、この家系が明治まで続きました。

こうして宇喜多直家より始まった戦国大名宇喜多家は幕を下ろしました。

岡山城

岡山城は、岡山県岡山市北区にあった日本の城です。不等辺五角形をした三層六階建ての天守は黒い下見板張りの外観から、別名「烏城(うじょう)」或いは「金烏城(きんうじょう)」と呼ばれています。

岡山城は南北朝時代に、上神高直が石山台(岡山)に城を築いたのが最初とされます。当時、旭川河口部は複数の川に分岐しデルタ地帯を形成していて、その中で隆起した中央の丘を「岡山」、西隣に「石山」、その北部に「天神山」の3つの丘陵がありました。

宇喜多直家が石山城に入城すると城を改築し、更に子の宇喜多秀家が隣の岡山に新たに本丸を設けると、石山城を取り込む形で城郭が建造されました、これが現在の岡山城です。 関ヶ原の戦いで宇喜多家が取り潰されると小早川秀秋、更に池田家が入城し明治まで続きます。

明治時代に入ると御殿、櫓、門の大半が壊されましたが本丸と後楽園だけは残されました。ところが第二次世界大戦中、空襲により天守も焼失。こうして現在では2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、現存する月見櫓、西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されています。

現在の天守は昭和41年(1966)、戦前に学生の卒業論文にまとめられていた実測図を元に外観復元天守として再建された物です。

砥石城と宇喜多直家生誕の碑

砥石城は岡山県瀬戸内市にあった城です。この城の北側には備前国の守護所であった福岡があり、この地域を支配するに重要な城の一つでした。

築城年数は分かっていませんが、文明17年(1485)に『蔗軒日録〈しゃけんにちろく〉』で出てくることからそれまでに出来たようです。宇喜多直家の祖父宇喜多能家が城番となるなど宇喜多家が浦上家から城を任せられていました。宇喜多直家が砥石城を掌握し亀山城へ移ると宇喜多直家の弟が城番として守り、江戸時代までには廃城となったようです。

現在、砥石山には城は無く山頂までの登山道が整備され、本丸跡を含め遺構が残っています。また登山口そばに「宇喜多直家生誕の地」の石碑があります。

岡山寺と宇喜多直家木像

岡山寺は天平勝宝元年(749)に報恩大師が勅命を奉じて四十八寺を開いた時、第二番として創立されました。室町時代後期の天文年間、金光家から格別の庇護を受け、比叡山から高僧を招くほど大きく栄えます。

ところが江戸時代初期の慶安5年(1652)、岡山寺は道を挟んで岡山寺と光珍寺とに分かれます。岡山寺には宇喜多直家の墓が残り現在も岡山寺の玄関先にあります。

さて光珍寺には宇喜多直家の木像や宇喜多家歴代の位牌がありました。ところが第二次世界大戦の戦災で光珍寺の伽藍などが焼失、この時に宇喜多直家木像も位牌も焼失しました。現在、宇喜多直家木像の焼失前に撮られた写真が残っており、その時の写真パネルが岡山城内で見る事が出来ます。

うきだ振興まつり

中国地方岡山県の中心地岡山市を開いた宇喜多直家。この直家の飛躍の地であった浮田の小学校において地元の交流と地域の歴史にスポットを当てたお祭り「うきだ振興まつり」が毎年夏に行われています。宇喜多直家の子、秀家とその嫁の豪姫を一般公募し写真撮影会を行ったり、地域の歴史のクイズや史跡に関連した模擬店、そして最後に夏の夜を彩る花火大会を行い郷土の親交を深めています。備前国と呼ばれた岡山県、その岡山県の発展に尽くした宇喜多家は現在でも県民に親しまれています。

宇喜多直家の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1529年 享禄2年 0歳 備前国に生まれる(宇喜多氏)
1540年代 天文年間 10代 浦上氏の家臣として勢力を伸ばす
1550年代 弘治・永禄年間 20代 謀略を用いて備前国内で勢力を拡大
1570年代 元亀・天正年間 40代 毛利氏と結び備前を支配する大名となる
1578年 天正6年 49歳 毛利氏から離反し織田信長に従う
1581年 天正9年 52歳 死去
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。