斎藤義龍6尺5寸の大大名

斎藤義龍

斎藤義龍

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人物記
名前
斎藤義龍(1527年〜1561年)
出生地
岐阜県
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岐阜城

岐阜城

俗に戦国と呼ばれた時代。この時代、家臣が主君を倒し実力で国を奪う者が現れました、下剋上を成し遂げた者です。その代表的な1人が斎藤道三でした。道三は美濃国(現在の岐阜県)の守護大名であった土岐氏を追い出すと美濃国を統べます。この道三の嫡男が斎藤義龍でした。ですが義龍は父の道三と争い討ちます。では何故、義龍は道三を討ったのか。今回は斎藤義龍について見ていきます。

義龍の父、斎藤道三

そもそも齋藤家は平安時代中頃、鎮守府将軍藤原利仁の子、斎藤叙用を祖とします。斎藤氏は北陸地方を始め中部、関東に広く繫栄した一族でした。そして北陸の斎藤氏から分かれて美濃国に移り住んだのが美濃斎藤氏です。

美濃斎藤氏は室町時代、美濃国守護土岐氏に仕えます。文安元年(1444)、美濃斎藤氏の斎藤宗円は京の土岐屋形において富島氏を謀殺し美濃国守護代となります。宗円の嫡男利永は美濃国守護代を継ぎましたが、次男の妙椿は京に出て室町幕府に仕え応仁の乱では西軍主力として各地を転戦します。この美濃国守護代となった嫡男利永の斎藤家と室町幕府に仕えた次男妙椿の家系は争い、斎藤家の力が衰え斎藤家の庶流である長井氏が台頭してきました。

天文8年(1539)頃、この長井氏に仕えたのが松波庄五郎(長井新左衛門尉)です。庄五郎は山城国(現在の京都府)で商人をしていましたが、美濃国常在寺を仲立ちとして長井家に仕えます。そして庄五郎の子、長井規秀は力をつけながら最終的に美濃国守護土岐氏を駆逐し国を奪います。この長井規秀が後の斎藤道三でした。斎藤道三から始まる斎藤氏は道三流斎藤氏とも呼ばれますが、この斎藤道三の嫡男として斎藤義龍は生まれます。

斎藤義龍は当時、稀に見る大男で身長が六尺五寸(約197cm)もあったと言われています。そんな大男だった義龍は斎藤道三の子として生まれた故に苦難の人生を歩む事になりました。

義龍の生まれ

齋藤義龍は大永7年(1527)7月、斎藤道三(斎藤利政)の嫡男として生まれます。母は側室の深芳野でした。
深芳野は斎藤道三の主君美濃国守護大名土岐頼芸の側室でしたが、後に道三の側室となります。江戸時代に編纂された「美濃国諸旧記」では、この道三の側に移った時に深芳野のお腹には土岐頼芸の子がいて、それが義龍だったと記されていました。ただし近江国(現在の滋賀県)守護大名六角義賢(六角承禎)が永禄3年(1560)に家臣へ宛てた手紙の中に義龍の父は斎藤道三だと書かれている事から、斎藤義龍が道三の子ではなく土岐頼芸の子だ、というのは信憑性の薄い話とされています。

さて斎藤義龍14歳ごろ、父斎藤道三の国盗りが始まります。
天文10年(1541)、斎藤道三は主君土岐頼芸の弟土岐頼満を毒殺した事で、土岐頼芸と斎藤道三が対立します。道三は不利になりながらも、天文11年(1542)に土岐頼芸を尾張へ追放し、事実上の美濃国主となりました。追放された土岐頼芸は尾張国(現在の愛知県)織田信秀や越前国(現在の福井県嶺北)朝倉家を頼り美濃国復帰を画策します。とくに尾張国の国人だった織田信秀は執拗に美濃国を奪おうとしました。天文21年(1552)まで美濃国は不安定な情勢となります。

この美濃国の情勢不安を解決するために、斎藤道三は天文17年(1548)に娘の帰蝶(斎藤義龍の異母兄妹)を信秀の嫡子織田信長に嫁がせるなど、周辺の大名国人に融和策をとり腐心しました。
斎藤義龍は、父道三が行った美濃国の国盗り物語を見ながら大人へと成長していきます。

父道三との確執

天文23年(1554)、斎藤道三は剃髪し(ここから道三と名乗るようになります)家督を斎藤義龍に譲ると鷺山城に隠居しました。

道三の隠居は、道三が下剋上で土岐氏を追い落とし美濃国を混乱させ民政を疎かにした事に家臣たちの反発を招いた結果だと考えられています。ただ、道三の隠居は『美濃国諸旧記』に記されていますが、『信長公記』や『江美濃記』では述べられていないので、隠居自体はせず一線を引いただけとも考えられています。

こうして斎藤義龍は道三流斎藤家2代目として美濃国を治める事になりました。ところが隠居した道三は義龍を「耄者(ほれもの、(愚か者の意味)」と周りに話し、義龍の弟たち孫四郎や喜平次ら(義龍の異母兄弟、正室小見の方の子たち)を溺愛するようになりました。片や義龍も、父の振る舞いに対し不満を募らせます。道三と義龍とは親子でありながら険悪となりました。

そして道三は義龍を廃し、孫四郎を当主としようとします。三男の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせました。美濃国の守護大名土岐氏11代目当主土岐成頼は名門一色氏からの養子でした(異説あり)。また一色氏は土岐氏と違い足利将軍家から分かれた庶流でもあった為、将軍家に連なる家として一色家の方が家格は上だと考えられていました。そこで一色姓を名乗らせる事で、美濃土岐氏の正当な後継である事を示そうとします。

こうして親子の対立は最悪の事態を迎える事になります。義龍も相応の覚悟があったのでしょう、父道三と争う前に「范可(はんか)」と名乗っています。「范可」は中国唐の時代、止むを得ない事情により父親を殺した人物が出て来る故事です。義龍は父と争えば、討たなければならい事になると覚悟して「范可」を名乗ったのかも知れません。

長良川の戦い

弘治元年(1555)斎藤義龍は、斎藤道三が私邸に出て留守の時を狙います。2人の弟(喜平次、孫四郎)に自らが重病である事を告げ呼び寄せました。弟たちは斎藤義龍の見舞いに訪れましたが、その場で殺害されます。更に弟たちを殺害後に、道三に使者を送りこの事を伝えました。驚いた道三は、手近な兵を集めて城下を焼くと、長良川を越え大桑城へと逃れます。

冬になり雪の季節となった事から双方は出兵を控えましたが、春が近づくと更に情勢は悪化し合戦以外での決着は考えられないものとなりました。美濃国の侍はこの親子の二手に分かれる事になりました。しかし道三が国主となった経緯を嫌気し大半が義龍の側に付きます。数で劣る道三は娘婿の織田信長に助けを求め、尾張国から信長も出兵しました。

弘治2年(1556)4月、道三は織田信長と合流する前に鶴山、更に長良川北岸に布陣。義龍の家臣である長屋甚右衛門が道三の陣営に一騎打ちを申し出、道三の側から柴田角内が出てきます。一騎打ちは長屋が討たれましたが、これを契機に道三と義龍の兵は激突しました。緒戦こそ道三は優位に戦いを進めましたが数で劣る為、次第に劣勢となり最後は捕らえられ討たれます。

援軍に来た織田信長は合戦に間に合わず、尾張国へと撤退しました。(長良川の戦い)
義龍は戦いの直後、道三の側に付いた明智家なども追討し戦後処理を行いました。この攻められ、美濃国を逃げ出した明智氏の1人が明智光秀です。

織田信長との対立

長良川の戦いの直前、斎藤道三は織田信長に加勢を求めます。ところが信長は戦いに間に合わず、斎藤義龍に攻められました。この攻められた時、織田軍を退却させる為に信長自身は最後方で鉄砲を放ち、斎藤軍を撃退したと伝えられています。

更に亡くなった道三は娘婿にあたる信長に、美濃国を譲るともとれる遺書を残していました。道三は最後まで斎藤義龍を認めようとしませんでした。
また斎藤義龍の末弟(斎藤道三の5男)斎藤利治は信長の下に逃げ、後に信長は斎藤家の名跡をこの利治に継がせました。

このように美濃国を支配下に治めた斎藤義龍は、道三の側にたった織田信長と初めから敵対関係にありました。そこで義龍は尾張国の中で信長と反りの合わなかった織田伊勢守信安(尾張上四郡「岩倉織田家」当主)と手を結びます。更に尾張下四郡を支配する信長の内部にも手を入れ、信長と対立していた弟織田信行にも力を貸したといわれています。

しかし結果は義龍の考えていた通りにはならず、織田信長は窮地に立ちながら、最終的に尾張国の中で勝ち抜き地盤を築いていく事になります。

義龍の死

父であった斎藤道三を倒し、美濃国を支配した斎藤義龍。
義龍は当主になると土地を荘園制ではなく貫高制で統治しました。この貫高制は戦国大名に見られる特徴で、新しい領土管理や軍役体系が構築されたと考えられています。

国内政治で改革を行っていた義龍。ですが自らの姓である道三流斎藤家は下剋上で美濃国を奪った斎藤道三の姓です。「斎藤」という姓では国を纏め切れないと、義龍は考えていました。そこで京の将軍足利義輝に頼み「一色家」を名乗る事を願います。この願いは聞き届けられ、姓を一色へと改姓します。永禄元年(1558)には治部大輔に叙任され、翌年に義龍は上洛し足利義輝に謁見しました。反対に足利義輝の側も将軍の権威を回復したいと考え、全国の有力大名と関係を築いていました。その為に自らの名を与えたり(例えば上杉輝虎(謙信)の「輝」の字は足利義輝の「輝」の字)幕府の役職を拡充し与えたりしていました、斎藤義龍は将軍より幕府の役職「御相伴衆」に任じられています。

こうして内政改革だけではなく中央とのパイプを強固にした義龍。地盤を安定化させ、力を付けた次は近隣との関係でした。隣国の南近江(現在の滋賀県南部)を治めていた六角義治と同盟を結び、北近江の浅井家に侵略を行います。しかし尾張国を纏めた織田信長の美濃国侵攻もあり、思った勢力拡大には至りませんでした。
ところが、永禄4年(1561)左京大夫に任じられましたが同年の5月に突如、斎藤義龍は病死してしまいました。享年33(ないしは35)、辞世は「三十余年、守護天入、刹那一句、仏祖不伝」。齋藤家は義龍の子龍興が継ぎます。

斎藤家のその後

齋藤義龍が病死した事により10代で美濃の国守となった義龍の子、斎藤龍興。
しかし永禄10年(1567)、西美濃三人衆と呼ばれる稲葉良通や氏家直元、安藤守就らが織田家に内応した為、稲葉山城を奪われます。20歳になった斎藤龍興は美濃国から逃れ石山本願寺や朝倉家に客将として身を寄せながら、織田信長と戦い続けます。
そして天正元年(1573)8月、朝倉家が浅井家を支援する為、近江国北部に従軍した際、戦死しました。(刀禰坂の戦い)

ここに斎藤義龍の男子直系は途絶えます。道三流斎藤家で最期まで生き残ったのは、義龍の末弟である斎藤利治でした。利治は斎藤道三が長良川の戦いで討たれた際、織田家に身を寄せました。織田信長も道三流斎藤家の後継者と考え厚遇しましたが、本能寺の変の折り織田信忠とともに二条新御所において戦死します。しかし利治の子供たちは各地の大名の家臣として仕え江戸時代を迎えました。

こうして斎藤道三とその父であった松波庄五郎、道三の子義龍、義龍の子龍興。4代に渡った道三流斎藤家の国盗りは美濃国の侍たちを巻き込みながら終焉する事になりました。

斎藤義龍の菩提寺と肖像画

斎藤道三より三代、道三、義龍、龍興の菩提寺は岐阜市常在寺にあります。
常在寺は宝徳2年(1450)、美濃国守護代であった斎藤家が京の妙覚寺から僧を招き建立したのが始まりとされます。その後、斎藤道三の父長井新左衛門尉が常在寺を頼って山城国から来ました。もともと商人であった新左衛門尉は武士になる事を考え、常在寺の住職に仲立ちを依頼したと言われます。それにより美濃国小守護代長井長弘の家臣に成ることが出来、地盤を築いていきました。
この縁で美濃国を奪った道三は常在寺を保護し、道三より三代の菩提寺となります。

寺には三代の位牌や道三の供養塔、斎藤道三、斎藤義龍の肖像画があります。また、毎年4月に行われる「道三まつり」はこの寺で追悼式が行われた後、神輿などが町を練り歩きます。

稲葉山城

建仁元年(1201)二階堂家が井口の山(現在の金華山)に砦を築いたのが始まりとされます。この砦は鎌倉時代中期に一度廃城となりました。

15世紀中期、美濃国守護代斎藤家が廃城となった砦を修復し居城を築きます、これが稲葉山城の始まりです。
1500年代に入ると長井長弘とその家臣であった長井新左衛門尉が謀反をおこし稲葉山城を奪います。ところが長井長弘も長井新左衛門尉に討たれ、稲葉山城は新左衛門尉の居城となりました。新左衛門尉が亡くなるとその子の長井新九郎規秀が跡を継ぎます。この長井新九郎規秀が斎藤道三(斎藤利政)です。道三は美濃国守護土岐氏を追放し国を奪います。こうして稲葉山城は美濃国の中心となりました。
その斎藤家も織田信長により追われ、稲葉山城は岐阜城と名前を変えます。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦で激しい攻防戦が行われ、翌慶長6年(1601)に徳川家康は岐阜城の廃城を決めました。
平成23年(2011)、岐阜城及びその周辺は国の史跡に指定されています。

葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。