明智光秀戦国屈指の智将

明智光秀

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人物記
名前
明智光秀(1528年〜1582年)
出生地
岐阜県
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福知山城

福知山城

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戦国時代、戦国大名として歴史に名を残した武将たちの下には体格の良い武勲に優れた者・知略に優れた者・築城の才を持った者など、さまざまな能力を持った武将たちがいました。明智光秀は、特に知略に優れ、朝廷や公家との人脈を持ち、連歌や茶の湯などの才に恵まれた文武両道な武将です。本能寺の変を起こし、謀反人とも言われる明智光秀の生涯は一体どのようなものだったのでしょうか。

謎の多い生誕から青年期

明智光秀の生まれた年は、信頼性の高い同時代史料からは判明していません。後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説が有力と言われています。

生誕地についても、『明智軍記』では美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われており、美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実のようです。越前国に残る伝承では、一乗谷周辺の栃泉町の小字「坊の城」は光秀が幼少期に母とともに居住した場所とされており、同町内の小字「西畦」で光秀が薪割りをしたとの伝承も残っています。他にも近江で生まれたとする説もあります。

青年期についても同様に不明なことが多く、一般的に光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、『明智軍記』には、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したということになっています。
その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り、10年間仕えて長崎称念寺門前に居住していたと言われています。

光秀と足利義昭

永禄9年(1566年)9月、足利義昭が朝倉家を頼り敦賀にやってきます。しばらくこの地で過ごしたのち、永禄10年(1567年)11月、朝倉氏の本拠地である一乗谷(現・福井県福井市)の安養寺に移動して永禄11年4月15日に元服しました。
当時、光秀は安養寺から3km離れた東大味に居住していたと伝わっています。室町幕府を再考したい義昭は、各地の戦国武将に援助を求めており、朝倉義景を頼ったため、この時点で光秀は義昭と接触を持つことになります。
しかし、義昭が上洛を催促しても朝倉義景は動く気配を見せません。光秀は「義景は頼りにならない。織田信長を頼ろう」と信長を勧めます。

義昭は永禄11年(1568年)6月23日、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、光秀を通じて要請します。
7月頃、美濃国を併呑し、北伊勢を攻略した信長は義昭に「上洛のお供をしたい」と申し出たため、義昭は越前を去り、同年7月22日、美濃国岐阜に到着しました。

足利義昭から織田信長の家臣へ

明智光秀は、永禄11年(1568年)9月足利義昭の上洛に加わります。翌年、永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は義昭が宿としていた本圀寺を急襲しました(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀も加わっていたとされています(『信長公記』)。翌月から京都で文書発給に携わり始め、2月29日に光秀・村井貞勝・日乗上人連署で文書を発給したものが残っています。4月頃からは木下秀吉(後の豊臣秀吉)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の家臣たちと京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行うようになりました。しかし、信長と義昭の間で意見の食い違いが勃発し衝突。信長が岐阜に戻ってしまいます。

永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ変身しています。
1月26日、公家の山科言継は幕府奉公衆へ年頭の礼にまわっており、その中に光秀も含まれています。この時点で、光秀は幕府直参の奉公衆として扱われていました。
元亀元年(1570年)4月28日、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りにより、危機に陥った際、豊臣秀吉と一緒に殿を務め、見事に撤退戦を成功させます。

元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣しています。徐々に義昭の幕臣から、信長の家臣へと軸足を移していったのです。

織田家の家臣初の城持ち武将に

元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちでは、明智光秀は中心実行部隊として武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、坂本城の築城にとりかかります。この時点で、光秀は織田信長の家臣として扱われていたことが分かります。
12月頃、光秀は義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出しましたが不許可になりました。義昭としては、光秀の才覚に頼っておりとても許可できるものではなかったとも言われています。
元亀4年(1573年)2月、織田信長に対して義昭が挙兵します。光秀は石山城・今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦しました。

7月、再度義昭が槇島城で挙兵しましたが敗北、義昭は降伏後に追放され、室町幕府はこの時点で事実上滅亡したとされています。同年、坂本城が完成し、居城としました。

天正元年(1573年)7月、村井貞勝が京都所司代になりますが、実質は天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出しています。
天正3年(1575年)7月、光秀は惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となりました。この出来事は、光秀が織田氏の重臣層に加えられたことを意味していました。

丹波攻略

天正3年(1575年)、明智光秀は、織田信長より丹波国攻略を任されました。しかし、丹波国は山続きで、その間に国人が割拠して極めて治めにくい地域で苦戦します。また丹波の国人たちは足利義昭派で、義昭追放で敵に転じていました。
まず光秀は、小畠永明・川勝継氏の協力を得て宇津頼重攻めを始めましたが、途中で信長から越前・丹後方面への援軍を命じられて離脱すると、8月には宇津頼重に織田方の馬路城・余部城を攻められるなど苦戦する。
一旦坂本城に戻った光秀は、10月に改めて丹波攻略を開始、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して帰還した赤井直正の黒井城を包囲します。

天正4年(1576年)1月15日に八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走することになりました。
同年11月7日(1576年11月27日[注釈 2])、最愛の正室だった煕子が坂本城で病死。深い悲しみに襲われたと言われています。この頃、光秀は余部城を丹波の本拠にしていましたが、安定した本拠地として亀山(現在の京都府亀岡市)に城を築くことを決め、翌天正5年(1577年)1月から準備を始めました。

天正6年(1578年)3月、氷上郡の赤井直正が病死すると、再度丹波に出陣し園部城の荒木氏綱を降伏させますが、4月29日には毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣されたため、9月に入ると丹波国人の大規模な反乱が発生して亀山城防衛の要地であった馬堀城までも一時占拠さる事態に陥ります。光秀は急ぎ亀山城に入り。奪われた城を奪回しました。

天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入っていましたが、1月には波多野軍の反撃で丹波の国人では数少ない一貫した親織田派であった小畠永明が討死してしまいます。8月9日、黒井城を落としついに丹波国を平定しました。さらに、細川藤孝と協力して丹後国も平定しています。

天正8年(1580年)、信長からは感状を受け取ります。この功績で、丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石となりました。光秀は亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名しました。黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れています。

本能寺の変

天正10年(1582年)5月、明智光秀は安土城で徳川家康たちをもてなす饗応役に抜擢されましたが、不手際があったとされ任務を解かれてしまいます。その後、豊臣秀吉の毛利征伐の支援を命じられ、6月2日早朝に出陣することになりました。その超区全に愛宕山に詣でて連歌会に参加しています。
出陣の途上で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれています。

重臣以下の軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長様が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」と言い、京都へ向かったとされています。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずしか近くに置いていなかった信長は奮戦するも、寺に火を放ち自害したと伝わっています。光秀は必死になり信長の遺骸を探しましたが、とうとう見つけることはできずに終わっています。

その後、二条新御所にいた信長の嫡男・織田信忠と従兄弟の斎藤利治、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、村井清次や信長の馬廻りたちを共に討ち取りました。

本能寺の変を起こした理由については、未だに分かっていません。信長への怨恨説はじめ、朝廷黒幕説など様々な説がありますが、決定的なものはありません。

山崎の戦いと最期

光秀は本能寺の変後。京都を押さえてすぐに信長・信忠父子の残党追捕を行います。
さらに安土城への入城と近江を抑えようとしますが、瀬田橋を焼かれて琵琶湖を渡れなくなったため、仮橋の設置に3日間かかっってしまいました。
光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日までに近江をほぼ平定、6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えています。

光秀は、残る織田家重臣との戦いに備えます。しかし、姻戚関係があった細川幽斎・忠興親子は光秀へ味方することを拒否。他にも、筒井順慶など畿内の武将たちは毛利攻めから戻って来た豊臣秀吉に味方したため、大きく目算が狂ってしまいました。高山右近など摂津衆を先に秀吉に押さえられたことが大きいとフロイスが『日本史』で指摘しています。

本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国路の備中高松城から引き返してきた豊臣秀吉軍と、本能寺の変後から11日後の6月13日天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で激突しました。
決戦時の兵力は、豊臣軍2万7千人に対し明智軍1万7千人。激戦はあっという間に決着が付き、光秀は敗走します。同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)で落ち武者狩りをしていた百姓に討ち取られました。

明智光秀と福知山城

福知山城は市内の小高い丘の上に建っています。天正7年(1579年)、丹波国を平定した・明智光秀によって築かれた城です。
光秀の後は、関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成しています。
山陰道を押える要衝地にあるこの城を、近世城郭として改修を行い、現在に残る姿としました。
明治6年(1873年)の廃城令により石垣と一部の遺構を除き大部分が取り壊されましたが、昭和61年(1986年)に、市民の瓦一枚運動などにより天守閣が復元。
現在は福知山城公園として整備し、市の指定文化財として大切に守られています。光秀は、善政を敷き、賢君だったとして領民に慕われたと記録に残っており、福知山光秀ミュージアムでは、現存する重要な資料をもとに明智光秀の軌跡を実感できる展示エリアを設けています。

明智光秀にまつわる祭りやスポット

御霊神社
「本能寺の変」から100年以上経った後、当時の福知山城主・朽木稙昌が、宇賀御霊大神を祀る祠に明智光秀の御霊を合祀して、御霊神社を創建したことが始まりです。
光秀の善政を語り継いできた領民たちは大いに喜び、光秀公のための「御霊会(ごりょうえ)」はにわかに盛大になったと伝えられています。
神社では、明智光秀の霊を祀り、光秀直筆の書状や家中軍法を所蔵しています。また、神社横の御霊公園には、昭和28年の台風13号の浸水位の標識や人形が飛び出すからくり時計などがあります。
福知山お城まつり
福知山に春を告げる伝統の祭りで、明智光秀築城の福知山城の天守閣が昭和61年に再建されたことを記念して、「商工観光祭」「科学と日光博覧会」「福知山鬼まつり」と歴代開催されてきたまつりをまとめて、「福知山お城まつり」にし現在に至ります。 明智光秀にゆかりのある場所(福知山城や、御霊神社)を会場としており、福知山の食・ステージショー・パレードなど市民のとって楽しみな祭りとして親しまれています。

明智光秀の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1528年頃 享禄元年頃 0歳 美濃国に生まれる(出自には諸説あり)
1566年頃 永禄年間 30代 織田信長に仕え家臣団の中核となる
1571年 元亀2年 40代 比叡山延暦寺焼き討ちに参加
1575年 天正3年 40代 丹波攻略を任され勢力を拡大
1579年 天正7年 50代 丹波国を平定し福知山城を整備
1582年6月 天正10年 50代 本能寺の変で織田信長を討つ
1582年6月 天正10年 50代 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、その後落ち延びる途中で討たれる
関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。