顕如織田に抗した宗教家

顕如

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人物記
名前
顕如(1543年〜1592年)
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大阪府
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大阪城

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仏教は飛鳥時代に伝来し、特に平安時代から鎌倉時代には、人々に受け入れられやすい教えの宗派が増えました。その一つが、浄土真宗です。この浄土真宗の本願寺は、浮き沈みを繰り返しながら発展していきます。そして戦国時代、顕如が住職を務める頃に最盛期を迎えます。ところが、同時に飛躍してきた織田信長とも対立しました。今回は、石山本願寺の顕如について見ていきたいと思います。

そもそも本願寺とは?

顕如が住職を務めていた石山本願寺。石山本願寺は現在の大阪城と大阪城公園にあった浄土真宗のお寺です。
そもそも浄土真宗は鎌倉時代に出来た仏教宗派の1つで(鎌倉仏教)、親鸞により起こります。親鸞は浄土宗の宗祖法然の弟子となり教えを学びました。

さて親鸞の曾孫に当たる第3世覚如の頃。覚如は京にあった親鸞の墓所(大谷廟堂)に寺を建てます、本願寺の実質的な始まりです(既に親鸞を祖とする浄土真宗は幾つかの宗派に分かれ、本願寺もその宗派の一つでした)。

京にできた本願寺。室町時代に入ると、本願寺は浄土真宗の一宗派として中心的な寺院となっているはずでした。ところが他の仏教宗派の圧力や同じ浄土真宗内の他宗派との確執など苦難の歴史をたどります。苦しい運営を行っていた本願寺は天台宗青蓮院の下に連なる寺となっていました。

蓮如と顕如誕生までの本願寺

他宗派寺院の下に属していた本願寺。
応永22年(1415)本願寺に一人の僧侶が生まれます、本願寺中興の祖8世蓮如です。しかし蓮如が本願寺の住職に付いた時には没落を極めていました。

そこで蓮如は京を後にし、積極的な布教活動を行います。その甲斐あって全国に門徒を獲得し、特に加賀国(現在の石川県)は守護大名の御家騒動もあり本願寺が事実上専有するに至ります。こうして多くの門徒を獲得した蓮如は文明10年(1478)、京の西隣山科に本願寺を作ります、山科本願寺です。更に明応6年(1497)引退した蓮如は大坂にも寺を造営しました、石山本願寺(大坂本願寺)です。

こうして蓮如が住職となった頃には山科本願寺を中心に全国に門徒を獲得し飛躍します。
ところが蓮如が亡くなり顕如の父10世証如が住職となった享禄5年(1532)、本願寺は室町幕府管領細川晴元の御家騒動に巻き込まれ山科本願寺を失いました。証如は拠点を石山本願寺へ移します(天文法華の乱)。ここから本願寺は摂津国大坂の石山本願寺を拠点とするようになりました。
そして顕如が生まれます。

顕如の誕生

顕如は天文12年(1543)に本願寺第10世証如の子として生まれます、諱(僧が授戒時に受ける名)を光佐であることから、本願寺光佐とも呼ばれています。

天文23年(1554)顕如が10歳の頃、父の証如が重篤となり急遽得度(僧となる儀式)が行われる事になります。この時、証如が九条家の猶子(養子とは異なり相続権のない後見を受けるような制度)となっていた先例に習い前関白、九条稙通の猶子となり証如を師として得度しました。得度を受けた翌日、父の証如が亡くなり祖母の鎮永尼(9世実如の室で証如の母)の補佐を受けて本願寺住職を引き継ぎました。石山本願寺は幼い顕如を住職に運営を行います。

さて本願寺住職となった顕如。弘治3年(1557)、三条公頼の三女如春尼を室に迎えます。如春尼は六角定頼の猶子を受けた後、顕如の下へ嫁いできました。また姉は武田信玄の継室三条の方で、顕如と信玄は義兄弟の間柄になりました。
これが後々、織田信長と対立する際に反織田勢力を造る下地となります。

本願寺の門跡成と最盛期

さて蓮如より積極的な布教活動を行い、全国に門徒を獲得できた石山本願寺。裕福となった本願寺はその財力をもって朝廷などに寄付を行うようになりました。特に正親町天皇の即位に際して、多額の寄付を行ったそうです。そこで永禄2年(1559)、正親町天皇は顕如を門跡に列します。門跡は平安時代から江戸時代まであった寺の格付けのうち最高位の寺の僧侶で(門跡になった僧を門跡、門跡が住職を務める寺を門跡寺院)、室町時代に入ると門跡は藤原五摂家と皇族の出家した子弟のみ就くことが出来ました。しかし親鸞の直系子孫と言われる顕如は藤原五摂家とも皇族とも所縁がないので門跡にはなれません。そこで父の証如と顕如が出家する際に九条家の猶子となっている事から五摂家九条家に連なる者として門跡になりました。後にも先にも五摂家、皇族以外で門跡と成れたのは石山本願寺だけです(本願寺の門跡成)。一時は他宗派(天台宗青蓮院)に属していた本願寺は完全に独立した宗派となります。更に永禄4年(1561)、顕如は僧正に任じられます。

また管領細川家や公家との姻戚関係を進め地盤を固めていきます。その一方で石山本願寺のある大坂を中心に畿内に本願寺に属する寺を配置し、また父の証如より進めていた門徒による一揆の掌握を務め石山本願寺は名実を備えて大名並みの力を有するようになりました。

信長包囲網への参戦

ところで石山本願寺が力を持つようになった同じころ、永禄11年(1568)。
尾張国、美濃国(現在の愛知県西部、岐阜県)を領していた織田信長が足利義昭を擁し上洛を果たします。上洛を果たした織田家は京を越え摂津国や河内国(現在の大阪府)へも侵攻しました。侵攻した織田家は各地で略奪や矢銭(寄付)を強要します。そして石山本願寺や堺に矢銭を求め、石山本願寺は5000貫を払ったと言われます。しかし自治領の堺はこの矢銭を拒否、結果的に堺は織田家の管理下に置かれました。こうして織田家の圧迫を受けた石山本願寺は織田家に反感を覚えるようになります。

そして元亀元年(1570)、四国に逼塞していた三好家が摂津国へ侵攻、織田家と交戦状態に入ります(野田城福島城の戦い)。この戦いの最中の9月12日深夜、石山本願寺は一揆を起こし織田家に反抗します、石山合戦の始まりです。また一揆を起こした前日、浅井家朝倉家と湖西の講により組織された本願寺の一揆が琵琶湖の西を南進し京を目指しました。これに織田信長は驚き摂津国を撤退、今度は近江国坂本で浅井朝倉、本願寺の一揆、比叡山延暦寺と睨み合います(志賀の陣)。この間、顕如は各地に一揆を促し北伊勢の寺々が蜂起しました(伊勢長島の一向一揆)。この元亀元年の戦い(野田城福島城の戦いから志賀の陣、俗に第一次信長包囲網)は冬が来た事で正親町天皇の綸旨により停戦しました。この停戦直後、顕如は義理の兄にあたる武田信玄(この元亀元年の夏に三条の方は亡くなっていますが)と書簡を交わし始めます。

石山合戦

さて石山本願寺や浅井朝倉の反抗にあい窮地に陥った織田信長。信長は講和を結ぶ事で危機を乗り越えます。ところが同じころ、擁立しているはずの足利義昭と織田信長との関係が崩れ始めます。織田家の影響力を落したい足利義昭は独自に顕如や浅井朝倉、甲斐国武田家に書状を送り自らを支えるよう求めました。

元亀3年(1572)求めに応じた武田信玄が西上を始めます。この武田家に呼応し足利義昭は織田家に反旗を翻しました。(「第二次信長包囲網」)

ところが翌元亀4年(1573)、西上途中の武田信玄が病死。武田家の脅威から逃れた織田信長は朝倉家、浅井家を滅亡に追い込みます。更に足利義昭を追放しました。

天正4年(1576)、織田信長は畿内周辺の安全を確保できたので冷戦状態が続いていた石山本願寺に対し攻勢に出ます。顕如は紀伊国(現在の和歌山県)の鈴木重秀を中心とした雑賀衆の助力を得、石山本願寺に籠りました。そして越前や伊勢の一向一揆に促し抵抗します。更に追放された足利義昭のいる中国地方の毛利家や北陸の上杉家と連絡をとり織田家に抗いました。(「第三次信長包囲網」)

しかし各地の一揆は織田家によって鎮圧され、北陸の上杉家当主上杉謙信も亡くなり上杉家が離脱。顕如は毛利家と共に不利となる戦いを続けました。

石山合戦の終戦と顕如の最期

毛利家と組み織田家と戦った石山本願寺の顕如。当初、瀬戸内海の制海権を握っていた毛利家の助力もあり、戦いを優位に進めていました。ところが木津川口の戦いなど海戦に敗れると制海権を奪われ、苦しい籠城戦となります。

天正8年(1580)朝廷の仲介により石山本願寺と織田家は和睦。顕如の長男教如や雑賀衆は和睦に反対しましたが、最終的に教如たちも受け入れ石山本願寺を織田家に明け渡しました。ところが明け渡しの直後、石山本願寺と周辺の寺内町は謎の出火により焼失します。一部の和睦に反対した石山本願寺の僧が火を付けたとも、織田家の兵が持っていた松明が燃え移ったとも言われていますが2日間石山本願寺は燃え続け無くなりました。
顕如は明け渡し直後、紀伊国鷺森御坊に移り拠点とします。更に貝塚御坊へ移動します。

さて石山本願寺を退けた織田信長。織田家は畿内をほぼ掌握し、日本各地に侵略を広げていきます。ところが天正10年(1582)6月、家臣の明智光秀により織田信長が討たれました(本能寺の変)。この織田信長の後を受けて天下人となったのが羽柴秀吉(豊臣秀吉)です。羽柴秀吉は織田家の中の政争に勝ち抜き、日本全国を掌握しました。また秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築きます。そして貝塚道場にいた顕如を呼び戻し天満に寄進地を与えます。顕如はこの地に天満本願寺を建て新たな拠点としました。

そして天正19年(1591)豊臣秀吉から京都七條堀川に新たな寺地を与えられ、本願寺を築き拠点を移します。ところが翌天正20年(1592)、顕如はこの七條堀川の地で亡くなりました、50歳で示寂。
顕如は本願寺を最も繁栄させましたが、織田信長と戦い苦しい時期も過ごし波乱の人生を終えました。

石山本願寺のその後

さて顕如が亡くなった後の本願寺。
天正20年(1592)11月、顕如の示寂で長男の教如が七條堀川にある本願寺を継承します。天下人の豊臣秀吉もこの後継には朱印状を出し認めました。継いだ教如は石山合戦において最後まで抗戦を主張した人物ですが、自らが本願寺住職の位に付くと顕如の周りにいた穏健派から自らを支える強硬派を周りに据えます。穏健派は謹慎等にあい内部対立が起きました。

およそ半年後、顕如の室であった如春尼(教如の母)は豊臣秀吉を訪ね相談を持ち掛けました。結果、秀吉の裁定により教如は強制的に隠居、顕如の三男准如が新たな住職となります。教如は隠居のまま、各地にいる支持者を回り布教活動を行いました。

さて豊臣秀吉の亡くなった後。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こります。
この時、教如は危険を冒して徳川方に付きます。結果、慶長7年(1602)に徳川家から新たな寄進地を与えられ寺を設立。ここから本願寺は准如の西本願寺と教如の東本願寺に分かれ今に至ります。顕如の時代に一時代を築いた本願寺は幾つかに分派して残る事になりました。

石山本願寺(大坂本願寺)

石山本願寺は現在の大阪城と大阪城公園の場所にあった(正確には摂津国東成郡生玉荘大坂)にあった寺院です。石山本願寺という名称は後世で定着した名前で大坂本願寺、大坂城など種々の名で呼ばれていました。

本願寺中興の祖蓮如は山科本願寺を中心に布教活動を行っていました。延徳元年(1489)、住職の座を子の実如に譲りましたが引き続き精力的な布教活動を行います。特に大坂周辺へも度々訪れ明応5年(1496)には坊舎(大坂御堂)を建てました、これが石山本願寺の原型となります。坊舎は堺や摂津、河内、和泉など周辺の門徒の助けを得、建てられていきます。この時、大坂の地を掘ると礎石に使用できるような石が出土した事から「石山」と名付けられた、とされています。

蓮如の曾孫、顕如の父に当たる実如の時に山科本願寺を焼かれ、石山本願寺へ拠点を移しました。焼かれた山科本願寺から塑像が移され天文2年(1533)に安置された事から石山本願寺の築城年数をこの年とされています。周辺の大名や他宗派との抗争から城郭建設の技術者を集め、堀を巡らし、土塁を上げ、柵を建てて堅牢に造られました。また古代より京と瀬戸内海を中継してきた港(渡辺津)に隣接していた事や四方の街道が集まっていた事から発展し寺の周りに大規模な寺内町を形成します。その規模はヨーロッパから布教に来ていた宣教師ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスに「日本有数の都市」として報告されています。石山本願寺は堀や土塁で守られ、大規模な寺内町に囲まれた城塞都市となりました。

そして顕如の時代、元亀元年(1570年)9月12日から石山合戦が始まります。戦いは11年間続き天正8年(1580年)に終わりました。ところが終戦の直後、石山本願寺は謎の出火により寺も町も焼けて無くなります。その跡地に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が大坂城と町を築いた為、石山本願寺の痕跡すら分からなくなりました。そして大坂の陣で大坂城は陥落しましたが、その後に何度か再建され石山本願寺のあった場所には現在も大坂城が建っています。

顕如の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1543年 天文12年 0歳 本願寺第11世法主の子として生まれる(のちの本願寺顕如)
1554年 天文23年 11歳 本願寺第11世法主となる
1570年 元亀元年 27歳 織田信長と対立し石山本願寺を拠点に戦う(石山合戦の開始)
1570年代 元亀・天正年間 30代 一向一揆勢力と連携し信長と長期戦を展開
1580年 天正8年 37歳 織田信長と和睦し石山本願寺を退去
1592年 文禄元年 49歳 死去
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。