本多正信天下人に友と呼ばれた男
本多正信
- 関係する事件
中国の歴史になぞらえ戦国時代と呼ばれた時代は、徳川家康によって終止符が打たれました。家康の天下統一を助けた家臣達の中に、「友」のような関係だと言われた武将がいます、本多正信です。本多正信は三河国に生まれ徳川家康の家臣でしたが、一度家康の下を去り諸国を放浪しました。その後、徳川家の下に戻ると家康を助けました。今回は徳川家康の友と言われた本多正信を見ていきます。
本多正信を出した本多家とは
本多正信を出した本多家。本多家は松平家(徳川家の前身)に古くから仕えた安祥譜代(安祥以来の7家とも)の1つ。「安祥譜代」とは松平家がまだ小豪族で三河国安祥城の周辺を治めていた頃から仕えていた家臣たちの総称です。
酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村の7家が代表として挙げられます。本多家はこの古くからの家臣の一つでした。
また本多家は、江戸幕府開幕時に大名旗本50家と言われる程に本流支流が多い家で戦国時代、徳川家康の家臣の中に本多○○という武将がたくさんいました。そこで誤解を招かないように比較的有名な本多家を挙げておきます。
- 平八郎家(本多忠勝)
- 本多家でも有力な家となったのが「平八郎家」です。徳川家康が松平家を継ぐと、家臣の中に合戦上手な者がいました、本多忠勝(平八郎)です。本多忠勝は戦いの中で流れを読み解く力が強く、徳川家康もこの年下の家臣を信頼し徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の一人に挙げられました。数ある本多家でも平八郎家は本多忠勝を出した事で徳川家と姻戚関係を築き、江戸初期大きく栄えます。
- 作左衛門家(本多重次)
- 本多作左衛門家は三河国額田郡大平城の城主でした。徳川家康が松平家の当主となった時、この作左衛門(以下作左家)に本多重次がいました。重次は徳川家康への忠誠心が強く勇猛果敢でしたが、短気で怒りやすい性格でした。その直情型の性格を表した逸話が日本一短い手紙です。長篠の合戦の際、妻に出した手紙が「一筆申す 火の用心 お仙(長男)痩さすな 馬肥やせ かしく」です。このような重次は人々から「鬼作左」と呼ばれていましたが公明正大な性格でもあり、三河三奉行の1人などを歴任しました。 その後、作左衛門家は幾つかに分かれていきますが江戸時代、越前藩(現在の福井県)の付家老として入るなど明治まで続きました。
- 彦八郎家(本多忠次)
- 三河国宝飯郡伊奈城の城主であった本多忠次。徳川家康が今川家から独立し三河国もまとめきれていなかった頃、本多忠次は三河国東部を説得して回り徳川家(松平家)の帰参を促しました。こうした徳川家創成期に尽力した事により彦八郎家は江戸時代、小さいながら幾つかの大名として成立し明治時代まで続きました。
- 弥八郎家(本多正信)
- そして本多正信を出した弥八郎家。弥八郎家も本多家の1つなのですが、他の本多家と少し毛色が異なります。後述しますが本多正信は若い頃に一度、三河国を出奔し放浪します。正信の弟、本多正重は織田信長をして「海道一の勇士」と言われる程の強者でしたが正信の徳川家帰参後に今度はこの弟の正重が徳川家を出奔します。更に正信の次男や正重の子も徳川家を出奔するなどしました。「三河武士」に代表されるように徳川家の忠誠心と戦場の勇気を求められた三河の侍にあって、徳川家を一度出る者が多くいた本多弥八郎家は異端でした。本多家の一員であった本多忠勝は智者で異端でもあった本多正信を毛嫌いし「同じ本多一族ではあっても本多正信とはまったく無関係である」とまで言う程、弥八郎家は三河武士の中でも異端として見られていました。 こうして三河の徳川家の中でも多数いた本多家の中から本多正信は生まれます。
若い頃の本多正信
本多正信は、三河国松平家重臣の酒井忠尚の家臣であった本多俊正の次男として天文7年(1538)に生まれます。正信は後に江戸幕府を開く徳川家(松平家)の家臣の、そのまた家臣の子として生まれました。桶狭間の戦いの頃には戦場にも出ていたようで、今川方の一員として参戦した徳川家康(松平元康)の下で戦いました。一説にはこの桶狭間の戦いにおいて片足を負傷し以降、足を引きずるように歩いたと言われています。
永禄6年(1563)本多正信20代半ばの頃の事です。父と共に仕えていた酒井忠尚が徳川家康に反乱を起こしました。当初こそ主である酒井忠尚に従い徳川家康に抵抗していた本多俊正でしたが、翌永禄7年(1564)に酒井家を出て徳川家康(この頃は松平元康)に臣従し直接の家臣となりました。ここで本多正信の弥八郎家は徳川家の直臣になります。
ところが臣従した同じ年の永禄7年(1564)。三河国で一向一揆が起こります。本多正信と弟の正重は浄土真宗門徒として一揆側に付きました。反対に父の本多俊正と長男の青野重貞(本多正信の兄)は徳川家康に付いて戦います。結果、一向一揆は徳川家康に鎮圧され本多正信は三河国を出奔しました。
さて三河国を出奔した本多正信。この20代半ばから壮年期までの時代に関しては詳しくは伝わっていません。加賀国(現在の石川県)に赴き一向一揆の指導に当たっていたとも言われています。
また1700年に新井白石が伝聞などを集め編纂した「藩翰譜」(はんかんふ)では畿内に立ち寄り松永久秀に出会った、或いは仕えたと言われています。この時、松永久秀は本多正信を「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評しています。
こうして三河国を出た本多正信でしたが遅くとも本能寺の変が起こる天正10年(1582年)頃までに大久保忠世の執り成しで徳川家に帰参しました。
徳川家内での頭角
大久保忠世の仲介で徳川家に帰参した本多正信ですが、最初は徳川家康の鷹匠などをしていました。ところが本能寺の変が起こると、徳川家康は信濃(現在の長野県)、甲斐国(現在の山梨県)を独力で奪います。信濃国には大久保忠世を信州惣奉行として置き、忠世の配下として本多正信も信州へと赴きました。信濃国に入った本多正信は信州、甲斐にいる武田家旧臣に領地の安堵と引き換えに徳川家の傘下を呼びかけ成功します。このころから奉行としての行政能力を見せ始めました。
この後、徳川家康は豊臣秀吉に臣従します。秀吉は家臣となった徳川家康を優遇する為、家康家臣達の官位任官を推薦しました。本多正信も秀吉の推薦により従五位下佐渡守に就き、本多佐渡と呼ばれるようになります。
天正18年(1590)、小田原征伐を終えた豊臣秀吉は徳川家康にそれまで治めていた三河、駿河、遠江、信濃、甲斐5ヶ国から関東250万石への国替えを命じました。旧領150万国から250万石への国替えで徳川家康の直轄地も100万石を越える程に増えます。この増えた直領を治める為に行政能力を持った家臣を抜擢しました。この抜擢された1人に本多正信も含まれており、それに伴い相模国玉縄で1万石の所領を与えられ大名となりました。本多正信は徳川家康が留守の関東で奉行たちの監督を行います。
一度徳川家を出た本多正信は徳川家帰参後に鷹匠から事務方、更に奉行などを行うなど徳川家康の信頼を得ていきました。
関ヶ原の苦労
慶長5年(1600年)。豊臣秀吉の亡くなった豊臣家の中で徳川家康は台頭していきます。これに立ち向かったのが石田三成でした。石田三成は上杉景勝と謀り徳川家康を打倒しようとします。最初に会津(現在の福島県)で上杉景勝が反徳川の狼煙を挙げ挙兵します。徳川家康は軍勢を整え大坂を出ると自らの領地である関東へ到達しました。そこで石田三成が大坂で挙兵します。
石田三成の挙兵を知った徳川家康は関東から二手に分かれ、石田三成討伐へ引き返しました。この時、本多正信は徳川秀忠の軍勢に入り中山道から大坂を目指します。途中信州(現在の長野県)で真田昌幸に遮られ、徳川秀忠は上田城攻略に動きました。これに対して本多正信は真田昌幸を棄て一刻も早く西に向かうよう進言しましたが聞き入られませんでした。結果、戦いは長引き関ヶ原の戦いに遅参してしまいました。
この時、徳川家康の下でなら一丸となって戦う徳川家の家臣達も家康がいない状況では手柄を争い各個で戦う様を見て、本多正信は改めて家康の統率力の凄さを知ったと言われています。
江戸幕府初期の閣僚
関ヶ原の戦いは本多正信の属していた徳川秀忠の軍が遅参しましたが、徳川家の勝利に終わりました。
関ヶ原の戦いが終わった慶長6年(1601)から、本多正信は朝廷と交渉し徳川家康を将軍職に就けるよう交渉したと言われます。その甲斐もあって慶長8年(1603)に徳川家康は征夷大将軍となります。本多正信は家康の下で初期江戸幕府の幕政に参画しました。
この参画した幕政の1つが徳川家康の後継問題です。将軍となった徳川家康でしたが後継が決まっていませんでした。当時、次男の結城秀康、三男の徳川秀忠、そして四男の松平忠吉が家康の後継者と目されていました。
この三人をそれぞれ、家康配下の有力家臣が推します。順番として一番兄に当たる結城秀康を本多正信と正信長男の本多正純が推し、あくまで家督は上の順番からという理由でした。徳川秀忠は秀忠の家老であった大久保忠隣(大久保忠世の長男)が、松平忠吉は義理の父(嫁の父)である井伊直政が推します。結果的に徳川家康は徳川秀忠を後継に据えました。
慶長10年(1605)徳川家康は隠居して大御所となり、徳川秀忠が第2代将軍になります。本多正信は江戸にあり徳川秀忠の下で引き続き幕政をとり行います。更に慶長12年(1607)からは秀忠付の年寄(老中)になりました。こうして徳川家の中で本多正信は地位を固め初期江戸幕府の執政をとり行うまでになりました。
宇都宮釣り天井事件と本多家のその後
本多正信は将軍徳川秀忠の年寄として幕政に参画しましたが元和2年(1616)、主君であった徳川家康と同じ年に後を追うように亡くなりました。
さて本多正信の本多家。正信の長男本多正純は徳川家康の下で側近をしていましたが、徳川家康、本多正信が亡くなると本多正信の所領を受け継いだ上で徳川秀忠の年寄(後の老中)となり幕政に参画します。ところが本多正純は自らの権勢をほこり、次第に徳川秀忠や側近達から疎まれるようになりました。
元和8年(1622)。徳川秀忠は徳川家康の7回忌に日光東照宮へと参拝します。その帰り、本多正純の居城である宇都宮城に泊まる事になりました。そこで正純は将軍を迎えられるよう城の修理を行います。ところが修理を行った宇都宮城に疑惑がある、という話が将軍の下に持ち込まれました。宇都宮城に作った将軍の寝室の天井を釣り天井とし圧死させる仕掛けがある、内緒で軍備を拡大している、などでした。
秀忠は本来寄る筈だった宇都宮城を素通りし江戸へと戻ります。そして本多正純に詰問状を送りました。正純は次々と質問に答えました。
ところが追加で出された質問に窮したため、反逆の疑いがあるとして所領を召し上げられました。宇都宮城に釣り天井など無く、本多正純を疎ましく思った徳川秀忠や側近による言い掛かりと考えられています。
ここに本多正信から興った大名家の本多家は途絶えました。本多正純の家系はその後細々と続きますが、弟の本多政重は早くから徳川家から離れ結果的に加賀の前田家に家老として仕えた事からこの家系が一番栄えた事になります。
徳川家康との関係
徳川家康は本多正信を重用し、「友」とよんだと言われています。藩翰譜には「大御所、正信を見給ふこと朋友のごとし」とあり、藩翰譜より後に書かれた「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)には「両御所(徳川家康・徳川秀忠)に奉仕して、軍謀にあずかり、国政を司り、君臣の間、相遭こと水魚のごとし」とあるように徳川家康と本多正信とは非常に仲が良く友達のような関係だったと言われています。
この関係を裏付ける話があります。本多正信の兄青野重貞の娘(つまり本多正信の姪)は、嫁ぎ先で後に詩人として名を馳せる石川丈山を産んでいます。この石川丈山は若い頃に徳川家康に近侍していましたが、その頃の話を語っています。「本多正信は家康様がおっしゃることで、賛成のときは大いに褒めて賛同した。納得がいかないことや反対のときは、わざと居眠りをした。その居眠りを見た家康様は考えを改めた」という趣旨の話を述べています。恐らく、同時代にしかも本多正信の近親(石川丈山)が見た事からこの話が一番二人の関係を表していると思います。徳川家康はよほど本多正信を信頼していたのでしょう、正信の反応で自分の考えの正否を占っていました。
本多正信は現代の話やドラマにおいて、徳川家康の謀臣や参謀として書かれる事が多いですが、事務方として徳川家康に仕え、奉行衆などを歴任し家康の信頼を勝ち取ったようです。そこから朝廷や各大名の下交渉を行うようになり、最後は江戸幕府初期の幕政に参画しました。このような本多正信を徳川家の家臣の中には理解できず疎ましく思う者もいたようですが、徳川家康の良臣として初期江戸幕府の幕政に携わり一生を終えました。
- 関係する事件
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。