斎藤道三(2/2)美濃を統一し、織田信長に娘を嫁がせた男

斎藤道三

斎藤道三

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人物記
名前
斎藤道三(1494年〜1556年)
出生地
京都府
関連する城
岐阜城

岐阜城

戦国美濃には茶の湯の流れが二派ありました。草庵茶の系譜と書院風茶の系譜です。
道三が足利義輝側近の梅雪を招聘したのは、梅雪流の書院風数寄屋を建てることにより、領国内の武将、武家、領民たちに文化的優越を誇示するための政治的意図があったからとされています。

天文23年(1554)2月22日から3月10日の間に、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居しました。

道三の突然の引退は家臣達により強制的に行われたと推測されています。
道三は、当時他の戦国大名が次々に打ち出している民政の新しい施策に匹敵するものの片鱗すら行うことができず、国内統治者および主君としての資格なしと家臣に判定されたのです。

ところが、道三は義龍よりも、その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛しており、ついに義龍の廃嫡を考え始めたといわれています。

道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵します。国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(1556年)4月、17,500の兵を率いる義龍に対し、わずか2,500の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わず戦死しました。享年63。

長良川の戦いで戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を末子である斎藤利治が信長に渡したとする記録が存在しています。

京都の妙覚寺、大阪城天守閣に書状が存在するほか、江濃記にも記録されています。一方、道三は従来義龍を「無能」と評していましたが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したとも伝えられます。道三の首は、義龍側に就いた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られました。

稲葉山城(岐阜城)

美濃国井之口の山「稲葉山(現・岐阜県岐阜市の金華山)」にあり、もとは稲葉山城と呼ばれてきた歴史があります。鎌倉時代以来の歴史を持っており、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の時期だと考えられています。

その後、織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城です。

『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことで「岐阜城」と呼ばれるようになりました。

山上の城郭部分と山麓の居館部分を中心としつつ、それらの間を結ぶ登城路、さらに山中の要所に配された砦もあり、なにより山そのものが天然の要害として機能していました。

麓に置かれた城主の館は、山の西麓にある槻谷にあり、地形は斎藤氏三代の頃に造られ、信長が大規模に改修をして、大きな池の南北に建物が2つあり大きな庭園があったことが発掘調査で分かっています。かのルイス・フロイスが訪れた記録もあり、関ヶ原の合戦の前哨戦のころまで使われていたとされています。

当城の城主は、織田信長の後は、織田信忠、(信長亡き後に)織田信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信らがなっています。秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につき、関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦い(1600)で東軍側の池田輝政や福島正則らに攻められ落城、翌1601年(慶長6年)徳川家康によって当城は廃城とされました。

現在の建造物は、1956年(昭和31年)に(当時なりに想像し往年の天守を模したつもりの)鉄筋コンクリートの模擬天守である。山麓付近では1984年ころから発掘調査が行われるようになり、現在も発掘が進行中です。
山麓の岐阜公園内にある信長公居館跡は、槻谷を流れる谷川の両側に段々地形が造られ、建物や庭園を配したものとなっています。

道三まつり

岐阜県岐阜市で毎年4月に催される祭りです。

NHKの大河ドラマ『国盗り物語』が放送されたことを機に、地元の商工関係者が創った商業イベントが始まりとなっています。伊奈波神社・金神社・橿森神社を始めとする市内多くの神社の例祭「岐阜まつり」に協賛して行われるため、岐阜市内は祭りムード一色になります。

1972年(昭和47年)に始まり、1980年(昭和55年)頃からは岐阜青年会議所や地元新聞社らが地元企業の参加を促進し、みこし広場を開設してみこしパレードを行いました。折からの岐阜まつりと重なり、年々華やかになり、現在はメイン行事となっています。

期間中は、斎藤道三ゆかりの寺院である常在寺にて追悼式が営まれ、祭り中は無料開放されます。多くの人が訪れ、主催者の発表によると二十万人もの人が集まると言われています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.03