龍造寺隆信肥前の熊と呼ばれた男
龍造寺隆信
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戦国時代、全国各地で覇権を争った武将たちですが、徐々に各地域で有力な戦国大名が台頭してきます。中部地方なら織田信長、関東地方は北条氏、中国地方は毛利氏といった具合です。九州では、島津氏・龍造寺氏・大友氏が九州三強と呼ばれ、しのぎを削っていただけでなく、一時は肥前国を統一して「肥前の熊」とまで呼ばれるほどでした。鍋島氏と関係もある龍造寺隆信について紹介します。
龍造寺氏の出自
龍造寺氏は、戦国時代に肥前国東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長しました。龍造寺隆信は鍋島直茂の義兄でもあります。
出自には諸説があり定かではありません。よく言われているのは、藤原秀郷から8代孫にあたる藤原季善が肥前の佐賀郡小津東郷内龍造寺村に入り、地名から龍造寺姓を名乗ったのが始まりだという説です。
藤原道隆の流れをくむとされる草野季貞の子孫とする高木季経の次男・高木季家が、季善の養子となり南次郎と称しました。
後に数家に分かれていきますたが、室町時代末期から戦国時代にかけて本家である村中龍造寺氏が当主の若くして死んだことなどから衰退したため、水ケ江城を拠点としていた水ケ江の龍造寺氏が最も力を持ちます。
その後、鍋島家に両国の実験を譲り、子孫は姓を変えて現代まで残っているとされています。
誕生から家督相続まで
享禄2年(1529)2月15日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男として肥前佐嘉郡水ヶ江城の東館天神屋敷で誕生しました。
幼少期は宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育されます。天文5年(1536)、7歳のときに出家して寺僧となり、中納言房あるいは中将を称し、法名を円月(圓月)となります。円月は、12~13歳の頃から20歳くらいの知識があり、腕力も抜群であったと言われています。
まだ15歳の僧侶であった頃、宝琳院の同僚が付近の領民と諍いを起こし、院内へ逃げ込み門戸を閉ざしていました。これを領民6、7人がこじ開けようとしていたのを円月が一人押さえていたが、力余って扉が外れ、領民4、5人がその下敷きになった。領民は恐れをなして逃げ帰ったという逸話が残っています。
天文14年(1545)、祖父・龍造寺家純と父・周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺されます。円月は、曽祖父の家兼に連れられて筑後国の蒲池氏の下へ脱出。天文15年(1546)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、まもなく家兼は高齢と病のために死去。
家兼は円月の器量を見抜いて、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残しました。遺言に従い翌年、円月、重臣石井兼清の先導で、兼清の屋敷に入り、還俗して胤信を名乗り]、水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぐことになります。
しかし胤信が水ヶ江家の家督を相続することに対し一族・老臣らの意見は割れた。そこで八幡宮に詣でて籤を三度引き神意を問いますが、籤は三度とも胤信を選んだため、家督相続が決定したと言われています。
その後、龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年(1547)には胤栄の命令で主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放。
天文17年(1548)、胤栄が亡くなったため、胤信はその未亡人を娶り本家(村中龍造寺)の家督も継承。しかし胤信の家督乗っ取りに不満を持つ綾部鎮幸等の家臣らも少なくなく、胤信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、翌天文19年(1550)には義隆から山城守を敷奏され、さらに実名の一字を与えられて7月1日に隆胤と改め、ついで同月19日に隆信と名乗りました。
また同年、祖父・家純の娘である重臣・鍋島清房の正室が死去すると、隆信の母・慶誾尼は、清房とその子・直茂は当家に欠かすことができない逸材として、押し掛ける形で後室に入って親戚としています。
肥前統一
天文20年(1551)、大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により死去すると(大寧寺の変)、後ろ盾を失った隆信は、(密かに大友氏に通じて)龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立しようと謀った家臣・土橋栄益らによって肥前を追われます。筑後に逃れて、再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せました。天文22年(1553)、蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利し、肥前の奪還を果たす。その際に小田政光が恭順、土橋栄益は捕えられて処刑され、龍造寺鑑兼は隆信正室の兄であり佐嘉郡に帰らせて所領を与えました。
その後は勢力拡大に奔走、永禄2年(1559)にはかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込み、大名としての少弐氏を完全に滅ぼしました。
また、江上氏や犬塚氏などの肥前の国人を次々と攻略、永禄3年(1560)には千葉胤頼を攻め滅ぼします。
さらに少弐氏旧臣の馬場氏、横岳氏なども下し、永禄4年(1561)には川上峡合戦で神代勝利を破り、永禄5年(1562)までに東肥前の支配権を確立しました。
急速な勢力拡大は近隣の有馬氏や大村氏などの諸大名を震撼させ、永禄6年(1563)に両家は連合して東肥前に侵攻するも、隆信は千葉胤連と同盟を結んでこの連合軍を破りました(丹坂峠の戦い)。南肥前にも勢威が及ぶようになったため、今度は豊後国の大友宗麟が隆信を危険視、少弐氏の生き残りである少弐政興を支援。これに馬場氏や横岳氏ら少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗します。
永禄12年(1569)には宗麟自らが大軍を率いて肥前侵攻を行なうも、毛利元就が豊前国に侵攻してきたため、宗麟は肥前から撤退しました(多布施口の戦い)。
その後、元就を破った宗麟は、元亀元年(1570)に弟の大友親貞を総大将とする3千の軍を組織し、肥前に侵攻。しかし隆信はこれを鍋島信生(後の鍋島直茂)による奇襲策によって撃退しました。
その後、大友氏と有利な和睦を結びますが、隆信は今山の戦いで勝利したものの、局地的な勝利でした。この時点で大友氏の肥前支配を排除できていません。
今山の戦い以降も、大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送って、また子・政家が大友宗麟(義鎮)から偏諱(「鎮」の字)を賜って一時期「鎮賢」(しげとも)と名乗っています。隆信が周辺の国人を滅ぼしたり、従属させたりするたびに宗麟から詰問の使者が来ます。
結局既得権として切り取った領土を認められ、耳川の戦いまでに確実に領土を広げ、力を蓄えていきました。
元亀3年(1572)、少弐政興を肥前から追放。天正元年(1573)には西肥前を平定し、天正3年(1575)には東肥前を平定。天正4年(1576)には南肥前に侵攻し、天正5年(1577)までに大村純忠を降して、天正6年(1578)には有馬鎮純の松岡城を降して肥前の統一を完成しました。天正8年(1580年)4月に家督を嫡男・政家に譲って、自らは須古城へ隠居。隠居後も政治・軍事の実権は握り続けました。
勢力拡大と最期
天正6年(1578)、大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗すると、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の領国を席捲、大友氏からの完全な自立を果たし、それまで対等な関係であった国衆を服属化させます。
天正8年(1580)までに筑前国や筑後国、肥後国、豊前などを勢力下に置くことに成功しています。しかし天正8年(1580)、島津と通謀した筑後の蒲池鎮漣を謀殺、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにしています。また天正11年(1583)に赤星統家が隆信の命に背いた際、人質として預かっていた赤星の幼い息子と娘を殺したため、隆信は麾下の諸将の一部からも冷酷な印象で見られるようになっていきます。
天正12年(1584)3月、有馬晴信が龍造寺氏から離反。晴信の縁戚である同地深江城主・安富純冶、純泰父子は依然龍造寺方でしたが、有馬晴信は深江城を攻め島津がこれに加勢したため、隆信は深江城を救援し有馬を討つべく軍勢を差し向けました。
しかし、有馬攻めは遅々として進まず、業を煮やした隆信は、自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決意。龍造寺軍は2万5千の大軍に対し、島津軍は僅か1万未満と圧倒的な兵力差も、龍造寺軍は大軍の進行が不可能な隘路に誘い込まれ、島津義久の弟・島津家久軍と有馬勢から挟撃されて、敗北。龍造寺方は多くの将兵を失い、大将の隆信が島津氏の家臣・川上忠堅に討ち取られてしまいました。享年56。法名は泰巌宗龍、法雲院。重臣の鍋島直茂は隆信の訃報に接し自害しようとするも、家臣に押しとどめられ、柳河へと撤退しました。島津軍に討ち取られた隆信の首級は、島津家久によって首実検された後、龍造寺家が首級の受け取りを拒否し、願行寺(玉名市)に葬られたと言われています。
佐賀城
龍造寺宗家代々の居城佐賀龍造寺城で、江戸時代の慶長期に鍋島氏による改修によって、現在の佐賀城の姿になりました。古名は佐嘉城、別名は沈み城、亀甲城と言われます。
江戸時代初頭に完成して以降、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城となりました。
城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつて幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際には多布施川より送り込んだ大量の水によって本丸以外を水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」と呼ばれてきた経緯を持っています。
明治時代初期に起こった佐賀の乱で大半の建造物は焼失、鯱の門と続櫓のみが残り国の重要文化財に指定されていまする。享保11年に焼失した天守は小倉城並みか、それよりわずかに大きい規模ではないかと最近の調査から推測されています。
現在、城跡は佐賀城公園として整備され、本丸御殿が木造で復元され佐賀県立佐賀城本丸歴史館として公開されている他、周辺は東堀や土塁が復元され往時の姿を取り戻しつつあります。二の丸には佐賀県庁、合同庁舎、放送局、美術館、博物館、小中高の各学校など公共施設が建ち並んで佐賀県政治経済の中心地です。
龍造寺隆信公まつり
川副町犬井道にある佐賀市史跡のひとつ「燈堂」(あかしどう)は、龍造寺隆信公が、家臣に追われて筑後に脱出した後、1553年に佐嘉城奪還のため地元住民の誘導で上陸を果たした場所で、地元住民により隆信公の坐像が建立されました。
地元の人たちが、龍造寺隆信公の像の前で「龍造寺隆信公まつり」が行っています。まつりは、天文22年(1553)、水ヶ江城奪還を企てていた隆信公がこの地に上陸、川副町の力がその後の活躍に大きくかかわったとの事で深いつながりがあり、今も大事にされています。
龍造寺隆信公と網漁業
天文20年(1551)、豊後の大友宗麟に内通した家臣等に水ヶ江城を攻囲され龍造寺隆信(1529〜1584)は、柳川城主蒲池鑑盛を頼って落ち延び、筑後柳川に近い一木村に身をひそめました。
天文22年(1553)ひそかに水ヶ江城奪還を企てていた隆信は鹿江兼明らの舟に乗り込み犬井道地先の燈堂に上陸。当時、この辺一帯は、まだ葦の生い茂った海岸で、航路の安全を祈る灯りをつける堂があったことから燈堂と呼ばれています。
この時、水先案内をつとめたのが漁夫の園田二郎兵衛と犬井道新兵衛で、この両名に、今の漁業権にあたる立切網・はじさし網(定置網)を許可する「お墨付き」が下されました。この判物木札は、慶長10年(1605)、隆信公の弟長信の子与兵衛(多久二代目邑主安順)が園田と犬井道に対し、従来どおり(はじさし網)の特権を認め、魚百掛を藩に納めるように命じたものです。
この漁業権は、その子孫等により守り続けられています。燈堂にある隆信の坐像は、昭和28年4月、この子孫等有志により建立されたものです。その後、隆信は鹿江の威徳寺に入り、川副・与賀郷の武士3,000余名の協力を得て旗揚げし、以来30年間に渡って破竹の勢いで周辺の武将を攻めて、五国二島の大守となり、薩摩の島津、豊後の大友と並ぶ九州の後の雄藩を築き上げました。
威徳寺には、寺宝として隆信公の法体の「画像」と隆信公が使用したと言われる「陣太鼓」がある。小々森にある此荷大明神は威徳寺で軍備を整えた際、この地に軍荷を置いたと言われています。早津江の志賀神社には、隆信公が使った軍旗が残っている。
また、町内には、海童神社(犬井童)、天満宮(咾分)天満神社(鰡江)、天満宮(船津)、天満社(重久)、天満宮(小々森)、海童神社(広江)天満社(久町)、天満社(新村)など、隆信公ゆかりの神社も多く点在しています。
- 関係する事件
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。