喜多川歌麿美人画で名をはせた浮世絵師と蔦重の関係は?

喜多川歌麿

喜多川歌麿

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人物記
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喜多川歌麿(1753年〜1806年)
出生地
東京都
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江戸時代を代表する浮世絵師の一人・喜多川歌麿(きたがわうたまろ)。大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(以下べらぼう)』では主人公の蔦屋重三郎と苦楽を共にするキーパーソンとして描かれています。「美人大首絵」で有名な歌麿ですが、女性の表情や仕草を巧みに捉えた作品を数々残し、欧州のジャポニズムや19世紀の印象派画家たちなどに大きな影響を与えました。今回はそんな歌麿について、その生涯や代表作について分かりやすく解説します。

喜多川歌麿ってどんな人?謎に満ちた生い立ち

喜多川歌麿の生い立ちについては、実はよく分かっていません。出生地には諸説あり、没年から逆算すると宝暦3年(1753年)に、江戸で生まれたという説が有力です。

本名は北川で幼名は市太郎、のちに勇助(あるいは勇記)となったようです。ちなみに『べらぼう』では少年時代の名前は唐丸で、毒親に苦しめられた壮絶な過去を持つ蔦屋重三郎の幼馴染として登場していますが、こちらはフィクションで史実ではありません。

歌麿は当初、狩野派の町絵師・鳥山石燕に師事しました。このころは「石要」と名乗っており、明和7年(1770年)刊行の俳諧書『ちよのはる』にある茄子の絵が、確認できる限り最も古い作例とされています。この絵には「少年石要画」と書かれています。

その後歌麿は「北川豊章」と名乗るようになります。この時代の歌麿は浄瑠璃の正本や洒落本、黄表紙に役者絵などさまざまなものを手がけ、勝川春草や北尾重政、鳥居清長などの絵師たちの作品をもとに、自分らしい画風を探して迷走していました。

現在確認できる中で最も早いとされている錦絵の一枚絵が『五郎時宗 市川八百蔵(ごろうときむね いちかわやおぞう)』。2代目市川八百蔵が安永5年〜6年(1776年〜1777年)頃に曽我五郎を演じた姿を描いたものだと言われています。役者絵は芝居上演中が売り時で、期間限定かつ安価だったことから新人絵師が担当することも多かったのだとか。

喜多川歌麿と蔦屋重三郎の関係は?

喜多川歌麿は安政年間の終わりごろから、蔦屋重三郎のもとに身を寄せていました。蔦屋重三郎といえば『べらぼう』の主人公で、版元としてさまざまな作品を世に送り出してきた名プロデューサーです。重三郎は歌麿の才能を見出し、歌麿を一流の浮世絵師に育て上げました。

歌麿が「歌麿」を名乗り始めたのは天明期(1781年~1789年)頃で、天明元年(1781年)刊行の黄表紙『身貌大通神畧縁起(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)』に「うた麿」と署名しています。この黄表紙の版元は蔦屋重三郎で、2人が初めて組んだ仕事でした。

大ヒットした狂歌絵本『画本虫撰』

天明年間は狂歌が一大ブームでした。狂歌というのは、しゃれや滑稽、風刺や皮肉を盛り込んだ5・7・5・7・7の定型で詠む短歌のこと。狂歌ブームは武士から町人まで幅広い層で盛り上がっており、蔦屋重三郎は大田南畝(四方赤良)等と組んで次々と狂歌本を刊行します。重三郎自身、狂名「蔦唐丸」を名乗り、狂歌師と交流していました。

ところが天明6年(1786年)、華やかな江戸文化をけん引した老中・田沼意次が失脚し、質素倹約を重視する松平定信が台頭すると、狂歌ブームにも次第に陰りが訪れます。

そんななか出版されたのが狂歌絵本3部作の『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』『百千鳥狂歌合(ももちどりきょうかあわせ)』『潮干(しおひ)のつと』でした。

『べらぼう』でスポットライトが当たった『画本虫撰』は天明8年(1788年)の出版で、全15図全てが喜多川歌麿の手によるものでした。植物や虫を描いた精緻な花鳥画は、歌麿の名を世間に知らしめました。ちなみに歌麿も「筆綾丸」という狂名を持っています。

『画本虫撰』の序文を手掛けたのは師匠の鳥山石燕でした。石燕によると、歌麿が小さいころからトンボをつないで遊びコオロギ、バッタを手の上でじっと観察していたのだとか。子どものころからの観察眼が絵に活きたということでしょう。

寛政の改革で弾圧を受ける蔦屋重三郎

江戸文化が興隆した田沼時代とは異なり、松平定信の時代は蔦屋重三郎や喜多川歌麿にとって厳しい時代となりました。定信は天明7年〜寛政5年(1787年〜1793年)の間、「寛政の改革」を断行します。質素倹約、綱紀粛正で文化は停滞。さらに思想・言論統制の嵐が吹き荒れました。

重三郎は庶民に厳しい定信への批判を込めて、天明8年(1788年)に黄表紙『文武二道万石通』(ぶんぶにどうまんごくとおし)』を出版します。しかし、幕府により絶版処分を受け、作者の朋誠堂喜三二(久保田藩藩士)は藩主から叱責されたことで戯作者を引退しました。

寛政元年(1789年)には人気絵師で作家でもある恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』が発行された。松平定信を批判する内容でこちらもベストセラーになりますが、こちらも幕府により絶版処分を受けました。さらに恋川春町は幕府から呼び出しを受けた挙句、同年亡くなってしまいました(自殺説もあり)。

出版統制令で蔦屋重三郎が罰金刑に

幕府は寛政2年(1790年)、風俗を乱す好色本・洒落本、政治批判や時事風刺を含む黄表紙・滑稽本などの出版物を禁じる「出版統制令」を発布しました。実はこのころ、蔦屋重三郎と喜多川歌麿は春画を企画・出版していましたが、規制に引っ掛かってしまいました。

しかし、こりない重三郎は寛政3年(1791年)、山東京伝による洒落本『仕懸文庫(しかけぶんこ)』や『青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら)』などを出版しました。

これらが幕府に摘発された結果、山東京伝は手に鎖をして自宅謹慎する「手鎖50日」、重三郎は身上に応じた重過料(罰金刑)が課せられました。一説によれば重三郎は財産の半分を没収されたそうです。

この影響を受けたのが喜多川歌麿で、錦絵を出版できなくなってしまいました。ただし、歌麿は親しい女性を亡くしたショックもあり、寛政3年には栃木に滞在し、「雪月花」3部作の『吉原の花』を制作したほか肉筆画を数点描いていたようです。歌麿は肉筆画を天明中期から書き始めており、死ぬまで50点以上の作品を残しています。

「美人画大首絵」で巻き返しをはかる

罰金刑を食らった蔦屋重三郎でしたが、巻き返しをはかろうと美人画に注力します。絵師はもちろん喜多川歌麿。重三郎は歌麿に美人画を依頼したのです。

こうして歌麿が発表したのが、美人画の大首絵でした。大首絵は上半身をアップにして顔を大きく描く書き方で、すでに役者絵で多く見られていましたが、歌麿は美人画に取り入れたのです。

加えて、喜多川歌麿は美人の描き方にもこだわりました。髪の毛を一本一本丁寧に描き、生え際まで繊細に表現した「毛割」、背景を雲母で摺ってきらきら輝かせる「雲母摺」、版木の凹凸を利用したエンボス加工「空摺」などにより、美人画をより輝かせたのです。

また、喜多川歌麿はモデルに吉原の遊女に加え、美人で評判の町娘を取り上げました。それが『当時三美人』の作品で知られる、吉原の芸者・富本豊雛、浅草寺の随身門(後の二天門)近くの水茶屋の看板娘・難波屋おきた、両国の煎餅屋・高島屋の娘の高島屋おひさの3名で、江戸庶民のマドンナ的存在でした。そんなマドンナたちの絵姿は空前の大ヒット!歌麿は彼女たちをモデルに何枚も錦絵を描いています。

加えて喜多川歌麿はただ女性を描くだけでなく、表情の繊細な変化や個々人のしぐさをうまく表現し、人物の内面を表現しようと試みました。その代表作が寛政3年(1791年)から寛政5年(1793年)頃に制作・出版された『婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)』です。このシリーズは途中で『婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)』と改名し、計8図・9枚が刊行されました。

両シリーズで刊行されたのが、喜多川歌麿の代表作『ポッピンを吹く娘』です。当時流行していたガラス製の玩具「ポッピン」を町娘が吹いているとき、声をかけられたからか、勢いよく振り向いた瞬間を描いています。あどけない表情にかわいらしい赤系統の市松模様の着物にも注目です。

幕府の美人画規制に挑戦、絵を描き続ける歌麿

その後、喜多川歌麿は寛政5年から6年(1793年〜1794年)ごろに「恋」をテーマにした『歌撰恋之部(かせんこいのぶ)』を発表。物思いにふけったり、恋文を読んだり、湯上りでぼんやりとしたり…さまざまな年齢の女性たちをリアルに描き切りました。

美人画により歌麿の名は広く知られることになりますが、ここでまったをかけたのが寛政の改革の真っ最中だった幕府でした。歌麿の絵は風紀を乱すと判断されたのです。幕府は寛政5年(1793年)、町触れで錦絵に評判娘などの名を入れることを禁止します。

これに対し、歌麿は「判じ絵」で町娘を表現する絵を描きました。判じ絵というのは絵を使って言葉を連想させる謎解きの一種です。例えば『高名美人六家撰(こうめいびじんろっかせん)』シリーズの『難波屋おきた』では、左上の小さな判じ絵に描かれた「菜っぱが二把(=なにわ)」「矢(や)」「沖(おき)」「田んぼ(た)」で「なにわやおきた」と読めるようになっています。

また、このころ歌麿は上村与兵衛や近江屋権九郎など、蔦屋重三郎以外の版元からの仕事もどんどん受けるようになっています。一方で蔦屋重三郎は東洲斎写楽のプロデュースに注力するようになり、2人の蜜月期間はこの頃終わりを迎えました。

そうこうしているうちに寛政8年(1796年)、幕府は錦絵に吉原遊女以外の名前を入れるのを禁止し、判じ絵も不可としました。歌麿にとって大ピンチのなか、寛政9年(1797年)、蔦屋重三郎が脚気で死亡(享年47または48歳)しました。

大恩人がなくなったとはいえ、歌麿はすでに近江屋権九郎など他の版元と組んで作品を発表していたため、引き続き創作活動に打ちこみます。「美人はダメ」ということで、母と子のふれあいをテーマにした錦絵や、庶民の生活や風俗を描いた錦絵を発表していったのです。

ところが寛政12年(1800年)、「何かと目立つ」という理由で大首絵が禁止され、男女の戯れ絵も不行き届きということで禁じられてしまいました。しかし、歌麿は諦めず『山姥と金太郎』をテーマにした作品や『教訓親の目鑑(きょうくんおやのめがね)』といった教訓本を執筆します。

『絵本太閤記』で幕府に罰せられる

これまでの幕府の禁令を見ると、明らかに喜多川歌麿を意識した内容のものが多くありました。歌麿はうまくすり抜けて表現を続けてきましたが、ついに文化元年(1804年)『絵本太閤記』関連の錦絵が原因で、手鎖50日の刑に処されました。

『絵本太閤記』は豊臣秀吉の生涯を描いた全7編84冊の読本で、寛政9年から享和2年(1797年〜1802年)まで出版されました。著者は武内確斎で、大ベストセラーになり、浄瑠璃や歌舞伎の演目にもなっています。江戸では浮世絵師たちが次々と『絵本太閤記』をテーマにした錦絵を発表していました。

歌麿が描いたのは秀吉の醍醐の花見を題材にした『太閤五妻洛東遊観之図(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)』など3作です。これが、以前から禁じられていた「天正以降の武将を題材にした作品」であるとして罰せられたのです。

これにより歌麿の活動は大きく制限され、精神的に打撃を受けました。その後発表された錦絵は当たり障りのないものになっていったようです。そして文化3年(1806年)9月20日、歌麿は江戸で没しました。戒名は秋円了教信士で、享年は50歳前後(一説によれば54歳)だったと考えられています。

喜多川歌麿に妻はいたのか?

喜多川歌麿が葬られたのは専光寺で、当時は浅草にありましたが、関東大震災により焼失し、現在は世田谷区に移転しています。実は専光寺には歌麿ゆかりの女性とされる戒名「利清信女」が埋葬されています。

利清信女は寛政2年(1790年)に亡くなっており、喜多川歌麿の母、または妻ではないかと推測されています。歌麿は神田白銀町の笹屋五兵衛に専光寺(現東京都世田谷区)を紹介してもらい、利清信女を埋葬しました。なお、『べらぼう』で登場する「きよ」は利清信女の「清」が元ネタになっているのではと推察されます。

このほか、歌麿の「妻」説がささやかれているのが、門人の喜多川千代女。天明4年から翌5年(1784年〜天明5年)、黄表紙に数点の挿絵を残している以外は生没年不詳の謎の人物です。実は歌麿の変名だったのでは?ともされており、『べらぼう』ではその説を採用しています。

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栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。