徳川家斉子どもの数55人「オットセイ将軍」が築いた最長政権で何をしたか

徳川家斉
江戸時代、徳川将軍家15代のなかで最も長い50年間政権を運営した将軍として知られるのが、第11代将軍の徳川家斉。55人の子供を設けた「オットセイ将軍」としても名高い人物です。
贅沢な生活を送ったことで知られており、豪華絢爛な暮らしぶりは江戸を中心とした町人文化「化政文化」を育みました。今回は大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』でも今後登場予定の徳川家斉について解説します。
突然の11代将軍就任
徳川家斉は安永2年(1773年)10月5日、御三卿の一橋徳川家(一橋家)当主・一橋治済の長男として生まれました。幼名は豊千代です。
実はもともと、第10代将軍・徳川家治の跡継は側室のお知保の方(後の蓮光院)が宝暦12年(1762年)に産んだ徳川家基でした。ところが安永8年(1779年)2月、家基は鷹狩りの帰り、休憩した東海寺(東京都品川区)で急に体調を崩します。急いで江戸城に搬送され、病気平癒の祈祷が行われたものの、3日後に18歳(満16歳)の若さで急死しました。
家基は急死するまで何度も鷹狩りを楽しんでいたため、あまりの突然の死に「病死ではなく田沼意次による毒殺だったのでは」という説が出たほどです。大河ドラマ『べらぼう』では意次による毒殺説が採用されていましたが、現在に至るまでその死の謎ははっきりわかっていません。
家治にはほかに跡継ぎがいなかった(安永8年時点で子供はすべて死亡)ため、家基の死により後継者問題が勃発します。次代将軍の主な候補は御三卿である田安徳川家(田安家)の賢丸(松平定信)でした。ところが賢丸は安永3年(1774年)に白河藩(現福島県白河市)藩主の松平定邦の養子になっていました。実は養子になってから田安家の当主が病没したため、賢丸を田安家に戻して後継者にしたい、と田安家は希望したのですが、幕府は許可しませんでした。なお、この交渉の裏には田沼意次の影があったようです。
このため家治の跡継ぎは豊千代に決まります。こうして豊千代こと家斉は天明7年(1787年)、15歳で第11代将軍に就任しました。
松平定信による寛政の改革
まだ15歳の若き将軍・徳川家斉を支えたのは老中首座についた松平定信でした。あれ?田沼意次はどうなった?という方もいると思いますが、家斉は就任直後に田沼意次を罷免しています。
松平定信は家斉の元で「寛政の改革」を主導。前任の田沼意次が進めた重商主義的な政策から、緊縮財政と重農主義への転換をはかります。定信は幕府財政の立て直しをはかり、質素倹約を掲げて倹約令を発出。庶民に加え、幕府や大奥まで倹約の対象とし、贅沢品を取り締まりました。さらに御家人や旗本の借金を棒引きする「棄捐令」も出しています。
加えて農村再建のため、荒地の開墾促進や都市に流出していた元百姓の帰農を促す「旧里帰農奨励令」を発布。天明2年(1782年)から天明8年(1788年)にかけて起こった「天明の大飢饉」を踏まえ、米を備蓄する囲米制度や、江戸で天災や飢饉などに利用するための「七分積金(積立金)」制度を実施しました。
さらに、次々と来訪する外国船対策として「異国船取締令」を発布。江戸湾の防備に取り組みました。このほか朱子学以外を幕府御用達の昌平坂学問所(当時は聖堂学問所)で教えるのを禁じる「寛政異学の禁」や「出版統制令」を発布し、思想・言論統制もおこなっています。この出版統制令の影響を受けたのが大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎で、多額の罰金刑を受けました。
定信の改革は厳しいもので、耐えかねた人々の多くは定信を非難するようになりました。当時、「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と、田沼時代を懐かしむ狂歌も詠まれました。
尊号事件で松平定信が失脚
松平定信をブレーンとして採用した家斉でしたが、家斉が成長するにつれ、徐々に二人の関係は悪化していきます。対立が決定的になったのが「尊号事件」です。光格天皇が「実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたい」と幕府に願い出たのに対し、定信が「天皇位についていないためその資格がない」と反対したのが始まりでした。
実は家斉も一橋治済に大御所の尊号を贈りたいと考えており、天皇の要求を退けたことで家斉の要求も成り立たなくなったのです。『徳川実紀』によれば交渉の際、家斉は怒りのあまり刀に手をかけて定信を斬ろうとしたこともあったのだとか。
結局家斉は寛政5年(1793年)7月、定信を罷免します。当時家斉は21歳。いつまでも口煩く諫言する定信を煙たく思っていたのかもしれません。また、厳しい倹約令に大奥から猛反発を受けたことが一因だったとされています。
その後、政治は定信とともに寛政の改革を実行してきた、松平信明を中心とした「寛政の遺老」達が主導することになります。家斉としてもすぐに政治の方針を大きく変えようとは考えていなかったようです。
贅沢な暮らしと子供たちの多さで幕府の財政が悪化
家斉は寛政の改革のころから贅沢な生活を好んでいましたが、質素倹約を重視した松平定信が罷免されたことで加速化し、幕府の財政に大きな悪影響を与えました。酒好きで頻繁に酒宴を開き、費用の掛かる鷹狩りを好んだほか、絵画や生け花など様々な趣味を持っていました。
また、家斉の特徴としては女癖の悪さと子どもの多さ。なんと精力を保つために「オットセイの陰茎の粉末」を飲んでいたとも言われており、「オットセイ将軍」の由来となっています。
寛政元年(1789年)2月、家斉は島津家から婚約者だった篤姫を正室に迎えます。将軍就任前に婚約していたため正室とするには身分が不足しており、篤姫は五摂家の近衛家の養女「近衛寔子」と名を改めて嫁ぎました。
ところが婚姻の1か月後、早くも大奥の女中・お万が家斉の第一子・淑姫を出産。このため、江戸市中では「薩摩芋の ふくる間を 待ちかねて おまんを喰うて 腹はぼてれん」という落首が流行したそうです。
その後も側室は次々と増え続け、なんと16人(※24人等異説あり)、さらにお手付きの女性は20人以上いたのだとか。大奥には最盛期で1500人の女性が住んでいたそうです。
当然子供の数も多く、男子27人、女子28人の計55人。当時の医療事情などから成人できたのは約半数の28人でした。なお、こちらの数字には死産の数え方等で諸説あります。とはいえ、累計50人以上の子供を持ち、ほぼ毎年のように誰かが出産しているという状況は、現代の常識からするとありえない事態です。
この子供の多さは家斉の女癖の悪さも一因ですが、跡継ぎの確実な確保や、養子・婚姻政策による徳川家と諸大名の関係強化などの意味合いもあったようです。事実、男の子は御三家や御三卿などの徳川一門に養子に入り、女の子は関係性の薄い外様大名をメインに嫁がせました。
こうした養子や婚姻には幕府・藩ともに莫大なコストがかかりました。藩からすると将軍の子を迎え、縁戚関係になるのは格式を高める良い機会ですが、受け入れ環境を整えるのにかかる費用は辛いところでした。例えば東京大学にある「赤門」は元は加賀藩の屋敷門ですが、こちらは加賀藩12代藩主の前田斉泰が家斉の二十一女・溶姫を迎える際に建てた、溶姫のための御殿の正門です。このように家斉の子供の養子・婚姻は幕府・藩ともに財政を圧迫する原因となりました。
水野忠成が老中就任、「もとの田沼となりにける」
文政元年(1818年)、松平信明が亡くなると、他の寛政の遺老達も老齢のため次々と政治の場から姿を消していきます。代わって重用されるようになったのが、若年寄や側用人として家斉の側近を務めていた、駿河国沼津藩(静岡県沼津市)藩主の水野忠成です。
水野忠成は松平定信と対立していた田沼意次派の流れをくむ人物で、文政元年8月に老中になりました。このころ徳川家斉は政治に興味を失っており、幕政は忠成に任せきりでした。忠成は田沼意次と同様に賄賂を受け入れるタイプ。このため忠成の元で賄賂政治が横行し、人事は乱れ、政治的な腐敗を招きました。「水野出て 元の田沼と なりにけり」といった狂歌が詠まれるほどです。
そんな忠成が取り組んだのが、幕府の財政再建でした。実はこのころ、家斉の暮らしぶりや子供たちの縁組費用に加え、相次ぐ外国船の出没に伴う海防費の増加により、幕府の財政は非常に悪化していました。このため忠成は徳川吉宗以来初めて、「文政の改鋳」と呼ばれる貨幣の改鋳に踏み切ります。金や銀の品位を低下、つまり金・銀の含有率を下げた貨幣を鋳造し、既存の通貨と交換することで改鋳利益を得、財政を補填しようと考えたのです。
忠成は8度にわたって貨幣の改鋳を実施。例えば文政2年(1819年)から通用を開始した文政小判のケースでは、これまでの元文小判の金含有率が約65%だったところ、なんと10%減の約56%まで落としています。幕府はこの差益で約550万両の利益を得ています。
これにより忠成は幕府の財政の一時的な立て直しに成功。市場に流通する貨幣が増加したことで商業活動が活発化しましたが、後に大規模なインフレが発生することになります。
腐敗政治が大塩平八郎の乱を招く
政治的な腐敗が続くなか、天保4年(1833年)から天保8年(1837年)にかけて「天保の大飢饉」が起こり、飢えや疫病で全国でおよそ20万人~30万人が死亡しました。そんななかで天保5年(1834年)に水野忠成は死去。後任として本丸老中に水野忠邦が就きますが、政治は引き続き家斉の側近が主導しました。
政治的な腐敗や天保の大飢饉による生活苦から、人々は幕府に不満を抱くようになります。天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が発生。さらに平八郎が乱の前に書いた、役人の賄賂政治と農民に対する圧政を非難する「檄文」が全国に広がったことで、各地で乱が起こりました。
そんななか、家斉は4月、次男の徳川家慶に将軍位を譲ります。とはいえ大御所として幕政の実権は握り続けたため、この時代を「大御所時代」と呼んでいます。なお、「大御所時代」という名称は後に家斉の治世全体を指す用語としても使われるようになります。
大御所時代には、天保8年7月に漂流していた日本人を乗せた米国商船「モリソン号」が異国船打払令に基づき砲撃された「モリソン号事件」が発生。天保10年(1839年)にはモリソン号事件を批判した渡辺崋山や高野長英らが弾圧される「蛮社の獄」が起こっています。
華やかな化政文化の時代
飢饉に政治的腐敗、浪費による幕府の財政破綻など、マイナスのイメージが強い家斉の治世ですが、50年の長期政権とその華やかな生活は、文化・文政時代(1801~1830年)を中心に町人文化「化政文化」を生み出しました。江戸を中心とした都市の庶民たちの手による娯楽や風俗、文学、芸術が花開き、現在まで名を残す数々の作家・芸術家たちの作品が生まれたのもこのころです。
絵画では葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師たちが活躍し、『冨嶽三十六景』や『東海道五拾三次之内』等の名作を発表。文学では十返舎一九の『東海道中膝栗毛』をはじめとした滑稽本や人情本が人気を博しました。『東海道中膝栗毛』は伊勢参りをはじめ、旅行ブームを巻き起こしました。
また、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』などが生まれたのもこのころです。ちなみに馬琴は蔦屋重三郎が「発掘」した作家でもあります。なお、蔦屋重三郎は惜しくも寛政9年(1797年)にこの世を去っています。
さらに全国で歌舞伎が大流行。鶴屋南北が『東海道四谷怪談』を記したのもこの頃で、7代目市川団十郎らが人気役者として活躍しました。学問面では本居宣長の『古事記伝』が引き続き刊行されたほか、伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を完成させています。医学ではシーボルトの鳴滝塾が開学しました。
家斉の孤独な最期
天保12年(1841年)閏1月7日、家斉は享年69歳(満67歳)で死亡。死因ははっきりしていませんが、晩年に疝痛(周期的かつ非常に強い腹痛)があったことから、腹膜炎が原因だったと推察されています。その最期は誰にも看取られぬままで、ひとり寂しく息を引き取りました。このことから侍医長を務めていた吉田成方院が処罰されています。なお、『続徳川実紀』の死亡日は「閏1月30日」となっており、政治的な混乱を避けるため、幕府がその死を秘匿したと考えられています。
家斉の死後、家慶のもとで老中・水野忠邦が天保の改革を進めていき、幕府は再び倹約令と風俗取り締まりにかじを切っていくのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。