吉川経家「哀れなる義士」と惜しまれた侍

吉川経家

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人物記
名前
吉川経家(1547年〜1581年)
出生地
鳥取県
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鳥取城

鳥取城

関係する事件

戦国時代後期、織田信長は足利義昭を擁立し畿内を支配下に治めます。更に畿内の平定が
一段落すると、畿内の外に目を向けました。中国地方は羽柴秀吉に攻略を命じます。毛利家の側に属していた鳥取城も攻略の対象となりました。この城で籠り指揮を執るよう命じられたのが吉川経家です。経家は鳥取城でどのように対抗したのか。今回は毛利家の家臣、吉川経家について見ていこうと思います。

石見吉川家

吉川経家を出した吉川家。吉川家は中国地方にどのように根付いたのか。
吉川家は藤原氏を祖としていると言われています。平安時代、藤原経義が駿河国入江庄吉川に住した事から吉川と姓を名乗るようになりました。

鎌倉時代、吉川家は源頼朝に仕え手柄を挙げて播磨国福井荘(現在の兵庫県姫路市網干区)を与えられます。北条政子を中心とした執権北条氏と朝廷が争った承久の乱でも鎌倉の北条側に付き、吉川氏は安芸国山県郡大朝荘(現在の広島県北広島町大朝)の地頭に任じられました。この頃に安芸国に土着します、これが吉川家の宗家となる安芸吉川家の始まりです。その他、それまで治めていた播磨や駿河にも吉川氏の庶流が出来ました。吉川経家の吉川氏も庶流で、石見津淵荘の地頭職を治めた事から石見吉川氏が出来ました。

ところが南北朝時代に入ると宗家の安芸吉川家が北朝に付き、石見吉川家は南朝方に付きます。更に足利尊氏が台頭し室町幕府が出来た頃、尊氏は弟の足利直義と対立します。吉川家はここでも安芸吉川家が足利尊氏方に石見吉川家が足利直義の側について対立しました。宗家の安芸吉川家と庶流の石見吉川家とは付いたり離れたりを繰り返します。

室町時代中期、戦国時代に入ると安芸吉川家は同じ安芸国の国人(地域の小領主)毛利家と姻戚関係を築きます。特に毛利元就の妻となる妙玖(みょうきゅう)を嫁がせ、その間に生まれた元就の次男吉川元春が養子として安芸吉川家に入ります。石見吉川家の当主であった吉川経安も毛利家に臣従しました。吉川経安は手柄を挙げ毛利家から石見国福光と石見銀山の管理を任されました。

こうして中国地方の大国毛利家の家臣となった吉川経安の子として吉川経家は生まれます。

吉川経家の誕生

天文16年(1547)、吉川経家は石見吉川氏の当主であった吉川経安の長男として生まれ永禄3年(1560)に元服しました。

経家が元服する前年の永禄2年(1559)、毛利家は石見小笠原家を攻めました。経家の父、吉川経安はこの戦いで武功を挙げ石見福光の地を与えられます。ところがこの小笠原家討伐に不満を抱いた者がいました、石見の国人であった福屋隆兼です。毛利家は勝ったことで福屋隆兼に領地を与えましたが、それまで福屋が領していた地は降伏した小笠原家に与えられます。この論功行賞に福屋は不服を抱きました。

永禄3年(1560)、福屋隆兼は毛利家を離れ出雲の尼子家に鞍替えしました。そして近隣にあった吉川経安の福光城を攻めます。吉川経安は迎撃し、当時としては珍しい火縄銃を使用する事で撃退しました。吉川経家も若年ながら参戦し、大きく戦っています。

吉川家が属していた毛利家は出雲の尼子家を倒し、中国地方を中心に西は北九州から東は播磨国(現在の兵庫県南西部)にまで伺う程の大名となりました。この毛利家の拡張途中の天正2年(1574)、吉川経安は石見吉川家の家督を嫡男経家に譲りました。

毛利家と織田家の争い

永禄11年(1567)、毛利家が尼子家を倒し九州から畿内の西に領土を拡大していた頃です。尾張国(現在の愛知県西部)の織田信長が足利義昭を奉じ上洛しました。足利義昭は室町幕府15代将軍に就任し、将軍を擁立していた織田信長は畿内を勢力下に置きます。その後、東海から畿内地方を支配下に置くと中国地方侵攻に着手します。織田信長は家臣の羽柴秀吉に播磨国、更に因幡国(現在の鳥取県)への侵攻を命じます。

天正9年(1581)、羽柴秀吉は因幡国の攻略を開始します。鳥取城主であった山名豊国は毛利家に属していました。山名豊国は鳥取城に籠城し、家臣達も徹底抗戦を主張していました。ところが籠城に賛同していたはずの山名豊国は単身で城を抜け出すと、羽柴秀吉に降伏します。

鳥取城は城主が居なくなった為、毛利家は牛尾元貞を派遣します。しかし牛尾元貞が負傷し指揮が出来なくなりました。そこで吉川一門であった吉川経家を鳥取城主として派遣します。この時、経家は相当の覚悟を持って鳥取城に赴いており、自らの首桶まで用意して参陣したとされています。

鳥取城の籠城

2月、吉川経家は鳥取城に入城とすぐさま防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めました。ところが羽柴秀吉は若狭国の商人に命じて鳥取の米を買い占めさせます。高値で買い占めを命じていた為、鳥取城の城兵が備蓄米まで売り払ったので鳥取城内の備蓄は一月あるかどうかでした。

6月、羽柴秀吉は2万の兵で鳥取城に侵攻してきて包囲します。黒田官兵衛の策でやみくもに力押しはせず、鳥取城と外部との連絡だけを潰していきました。城は糧道を断たれ、陸、海からの食糧搬入も失敗。食料が尽くと、家畜や草を食べ、それも尽きると餓死者が出始めます。鳥取城内は「餓死した人の肉を切り食い合った。子は親を食し、弟は兄を食した」と言われる程の有り様になりました。

羽柴秀吉の鳥取城包囲網が始まって4ヶ月耐えましたが、外部の応援が無いことから降伏の話し合いが持たれました。羽柴秀吉は吉川経家の粘りを称賛し、責任は鳥取城を預かっていた山名家の家臣に取らせるよう提案します。それに吉川経家が異を唱え、自分一人の自害で城兵全員の助命を願います。再三秀吉は吉川経家を止めましたが、経家は聞きません。秀吉は安土にいる信長に確認を取り、信長は経家の自害で城兵全員の助命を裁定しました。

経家の最期

吉川経家は自害する事になりました。この自害の瞬間に関して話が克明に残っています。安芸吉川氏(吉川元春が当主となっている吉川家宗家)の家臣に山県長茂という人がいました。

山県長茂は吉川経家が鳥取城に入城する際に一緒に城に入っています。そして経家が自害の際には小姓として現場にいました。鳥取城が落城すると、山県長茂は安芸国に生還します。戦国時代が終り、毛利家も安芸吉川家も周防国に転封すると山県長茂も従い、その後も吉川家に仕えました。晩年、山県長茂は吉川経家の孫、吉川正実に宛てて「山県長茂覚書」を残します。この中の多くが鳥取城の籠城についてであり、吉川経家の自害に関しても含まれていました。これが現在まで残っており、自害の瞬間という記録に残らないような話が今日まで伝わる由縁となりました。

又、吉川経家自身の遺書も5通のうち3通が残っており自身の心情も伺う事ができます。3通のうち1通は宗家筋に当る吉川元春の3男吉川広家宛てでした。そこでは「毛利と織田が激突した日本二つの弓矢の境目で切腹できることは末代までの名誉と存じまする」と述べています。

別の1通は家臣に宛てたもので、自分一人が犠牲になるので家(経家の家臣)は異議を申し立てるな、という内容です。

最後に残っているのが子供達宛てで、「鳥取の事、夜昼二百日、こらえたが兵糧が尽き果てた。そこで我ら一人がご用に立ち、みんなを助けて、吉川一門の名をあげた。その幸せな物語を聞いてほしい」と残しています。
吉川経家も覚悟を決め、城兵の代表として責任を果たす心情が伺えます。

天正9年(1581)10月25日早朝、吉川経家は家臣と盃を交わし後に具足櫃に腰を掛けました。それから「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切りようになろう」と言いながら切腹し果てたと言います。介錯は家臣の静間源兵衛が務めました。辞世は「武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖(すみか)なるらん 」。

落ちた首は開城の証として羽柴秀吉の下に送られます。経実の首を見た秀吉は「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝わります。その後、経家の首は安土城の織田信長に送られ丁重に葬られました。
亡くなった吉川経家は城内に墓を築いて葬られ、江戸時代に入ると城外の円護寺五反田に移されました。戦国時代は大きな戦いもありましたが、鳥取城の籠城のような小さな戦いの方が多くありました。その戦いの中で吉川経家は、城兵全員の助命の為に犠牲になるという責任を果たしました。

吉川経家の子孫、その後

吉川経家が亡くなり、長男の吉川経実が石見吉川家を継ぎます。関ケ原の戦いの後、毛利家が転封されると吉川経実もれに従います。そして宗家筋に当る吉川広家(安芸吉川家、江戸時代の岩国領吉川家)に仕え、明治時代まで続きました。

吉川経家の長男(経実)は毛利家に仕えましたが、3男の家好は江戸時代に入ると鳥取藩池田家に仕えます。この池田家に仕えた吉川家好の子孫の中の1人が落語家の5代目三遊亭円楽(本名:吉河寛海、6代目三遊亭円楽⦅楽太郎⦆の師匠)がいます。この縁から5代目三遊亭円楽は鳥取城にある吉川経家の銅像のモデルの1人となりました。

鳥取城と吉川経家像

鳥取城は、鳥取県鳥取市にあった城です。戦国時代中期、久松山の上に建ったことから、久松城、あるいは久松山城の異名があります。戦国期には、山名氏、武田氏、尼子氏、毛利氏の争いの場となり、羽柴秀吉により落されると織田家、豊臣家の管理になります。織豊時代が終り江戸時代に入ると、鳥取藩池田家の支配になり明治を迎えました。現在では天守台、石垣、堀、井戸などが残っており、天災などの度に改修を行った事から時代ごとの城郭形態が見られる「城郭の博物館」とも言われています。

さて鳥取城は池田経家と羽柴秀吉とが戦った舞台でもあります。その縁から鳥取市では平成5年(1993)、吉川経家の銅像を建てる事になりました。ところが吉川経家には肖像画がなく、姿形がわかりません。そこで経家の子孫の方を参考にイラストレーターが顔を書き、彫刻家がそれを元に作成する事になりました。このモデルとなった子孫の1人が5代目三遊亭円楽(本名、吉河⦅よしかわ⦆寛海)です。

5代目円楽が鳥取を訪れた際、地元の図書館長が円楽に語った所によると、藩翰譜に円楽の曽祖父にあたる武士が切腹したといいます。この武士は吉川経家の3男家好の流れに当る侍でした。この武士の切腹の際、立ち会った7歳の子(円楽の祖父である寛雅)は侍家業が悲惨なもので跡を継げないと思いつめ、江戸の増上寺で僧となったといいます。この僧となった寛雅は明治に入ると苗字を「吉川(きっかわ)」から「吉河(よしかわ)」に改めました。そうした縁から5代目三遊亭円楽は吉川経家の子孫としてモデルの1人となったといいます。

鳥取三十二万石お城まつり

籠城戦の舞台となった鳥取城。
鳥取城は江戸時代になると池田家が藩主となり明治まで続きます。さてこの城がある鳥取県では毎年秋になると鳥取池田三大祭の1つ「鳥取三十二万石お城まつり」を行っています。因幡鳥取藩初代藩主の池田光仲など殿様や姫様、武士などの時代行列から始まり、舞台での演奏演劇、「備州岡山城鉄砲隊」(備前岡山藩と因幡鳥取藩は同じ池田家の領地で転封により藩が入れ替わるなど深い関係にあります)による火縄銃鉄砲隊演武などを行います。この祭りの出し物の中に江戸時代前の城主であった吉川経家にちなんだ演劇などを行う年もあります。
鳥取城と久松公園において地域の歴史に触れながら秋を楽しむお祭りとなっています。

また毎年11月になると「鳥取市剣道大会兼吉川経家祭剣道大会」という剣道大会が開かれます。鳥取県では最も古い剣道大会で、このように鳥取県では現在でも吉川経家の面影を見る事が出来ます。

福光城と不言城まつり

福光城(別名:物不言城・ものいわずじょう)は現在の島根県大田市温泉津町福光にあった山城です。永禄2年(1559)、吉川経安が毛利家から福光の地を与えられると福光城を改修しました。そこから吉川家の拠点となり、吉川経家はこの城で育ちます。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで毛利家が長州へ転封となると吉川家もそれに従い福光城は廃城となりました。
現在では城跡があるだけですが、毎年10月に在りし日の吉川家を偲び「不言城まつり」を行っています。地元の寺で受付をすると毛利、吉川家に関する歴史講演会、福光城のあった場所までの登頂ウォーキング、昼食会などを行い秋の日を楽しみます。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。