高台院(北政所・ねね)(2/2)裸一貫の天下人を支えた妻

高台院(北政所・ねね)

高台院(北政所・ねね)

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人物記
名前
高台院(北政所・ねね)(1549年〜1624年)
出生地
愛知県
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大阪城

大阪城

ところが豊臣家は武断派と文知派との対立が表面化します。武断派は文知派の筆頭であった石田三成の屋敷を襲撃、三成は5大老の徳川家康の屋敷に逃げ込みました。家康は高台院の仲裁を受け、中立的な態度を取った高台院を家康が評価したと考えられています。

慶長4年(1599)9月、高台院は暮らしていた大坂城を退去します。豊臣秀次(豊臣秀吉の甥で摂政関白と呼ばれた人物)が失脚した後に破却した聚楽第。その聚楽第の後に建てられた京都新城で高台院は暮らし始めます。高台院には奥女中兼祐筆の孝蔵主(蒲生氏の家臣・川副勝重の娘で豊臣秀吉が関白となった頃より仕えている)が付き従いました。

木下家定と小早川秀秋

慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成が戦った関ヶ原の戦いが起こります。
高台院は京の京都新城にいましたが、関ヶ原の合戦直後には兄の木下家定が護衛に駆け付けるほど緊迫した状況でした。最終的に高台院は後陽成天皇の生母、准后の勧修寺晴子の屋敷に駆け込むほど戦い直後は錯綜していたようです。

さて妹の高台院の危機に駆け付けた兄の木下家定。杉原定利の嫡男として生まれましたが後年、豊臣秀吉に仕えます(一時、木下定家は「羽柴」の姓を与えられ名乗っていましたが江戸時代に羽柴の姓を禁じられ木下姓に戻します)。この木下定家の5男が関ヶ原の戦いで命運を左右した小早川秀秋でした。秀秋は高台院の甥にあたります。

小早川秀秋は木下定家の子として生まれましたが、小早川隆景(毛利元就3男)に養子として入り小早川家を継ぎます。秀秋は少年時代、蹴鞠や舞などの芸に才能を見せ、貧者に施しを行うなど優れた少年でした。ところが成長すると酒を覚え友人たちと呑み明かす日々を送ります。更に高台院に500両の借金をするなど奢侈な生活を送るようになり、高台院を悩ませました。秀秋は関ヶ原の戦い当初、石田三成方の西軍に付いていましたが本戦終盤、徳川家康方の東軍へ裏切り勝敗を決する役割を果たします。戦後、徳川家から領地を加増されましたが酒に祟り慶長7年(1602)に21歳で亡くなりました。子供がいなかったので小早川家は断絶します。

高台院の兄である木下定家。小早川秀秋は早くに亡くなりましたが、次男の利房、三男延俊は大名として残り明治まで続きます。豊臣家の中でも数少ない残った大名家でした。

豊臣家の終わり

慶長8年(1603)、高台院は養母七曲殿(叔母で浅野長勝室)の死や豊臣秀頼と千姫(徳川秀忠長女)の婚姻を見届けた事を一段落と考えて落飾します。落飾の際、後陽成天皇から院号を受け高台院快陽心尼(のちに改め高台院湖月心尼)と称しました。

慶長10年(1605)、実母(朝日殿、杉原定利室)と豊臣秀吉を祀る為に京都東山に高台寺を建立します。自らは高台寺の門前に屋敷を構えました。

しかし豊臣家と徳川家との対立は不可避になっていきます、大坂の陣です。徳川家は高台院を豊臣家の大阪城に入らせないよう、高台院の甥(兄木下定家の次男)木下利房を警備と監視の役として付けます。元和元年(1615)大坂の陣により豊臣秀吉と共に造った豊臣家は滅亡しました。

豊臣家の滅亡後も高台院は生き続けます。未だ豊臣家と徳川家が対立していた時代、徳川秀忠は人質として徳川家から大坂城の豊臣家に移されました。この時、秀忠の世話を高台院が行った事から高台院と将軍である秀忠とは特に関係が良好でした。徳川秀忠は江戸から京へ上洛するたびに高台院を訪ねたとされています。また公家との交流も活発で、京の東山で余生を過ごしました。

こうして天下を取った豊臣家を夫と共に造った高台院。その豊臣家の滅亡を見届けた後の寛永元年(1624)高台院屋敷において亡くなりました、享年76。遺骸は高台寺に安置され、墓所も高台寺に設けられました。

高台寺

高台寺は京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院です。寺の名前は北政所の落飾時に朝廷から賜った院号である高台院にちなんでいます。高台寺のある場所は元々、雲居寺がありましたが応仁の乱で焼失。その跡地に高台院は徳川家康の支援も受け高台寺を建てました。高台寺は霊屋(おたまや)の堂内装飾に桃山様式の蒔絵が用いられ又、高台院所蔵の蒔絵調度類も多数所蔵している事から「蒔絵の寺」とも言われています。

ところが慶長11年(1606)、曹洞宗の弓箴善彊を開山として高台寺は完成します。寛永元年(1624)7月、臨済宗の建仁寺から三江紹益を中興開山に招聘し、曹洞宗から臨済宗に改宗しました。これは高台院の兄木下家定の8男周南紹叔が三江紹益のもとで出家していることもこの改宗と関連するといわれています。

高台寺は幕末、争いの舞台ともなります。伊東甲子太郎が新選組から離脱した後に高台寺の塔頭・月真院に入って伊東甲子太郎一派「御陵衛士」の屯所としました。現在でも高台寺の並びに「御陵衛士屯所跡」の碑があります。

また高台寺門前の道は「ねねの道」として知られ、知恵の道、神幸道と合わせて円山公園から知恩院、八坂神社へと繋がる東山参道(三つの道)と言われています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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