人吉藩お家騒動が多い
相良家の家紋「相良梅鉢」
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人吉藩は、熊本県南部にある球磨地方にあった藩です。人吉藩の藩主は開藩から明治維新まで、相良家が藩主を務めました。また、相良氏は鎌倉時代からこの地を治めてきた豪族であり、一つの家が鎌倉時代から明治時代まで同じ土地を治め続けた希有な例でもあります。
その一方で、人吉藩は何度も家臣同士の争い、いわゆるお家騒動が絶えませんでした。
そんな人吉藩の歴史を紐解いていきましょう。
鎌倉時代から始まる相良氏の治世
相良氏が球磨地方を治め始めたのは、鎌倉時代のことです。源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人、相良長頼がこの地を治めていた平頼盛の家臣、矢瀬主馬佑という人物を謀殺し、地頭としてこの地を治めはじめました。
戦国時代になると、島津氏が九州制覇に乗り出しますが、相良氏は島津氏に従属して家を存続させます。また、豊臣秀吉が九州征伐をおこなった際は、家臣の深水長智が豊臣秀吉に直談判をおこない、所領の安堵を約束させました。
しかし、その後、深水長智の甥にあたる深水頼蔵が別の重臣犬童頼兄と対立、石田三成が仲裁に入る事件にまで発展し、深水頼蔵が出奔、深水一族が犬童頼兄に打たれるという事件が起こります。これにより、犬童頼兄が家臣団の中心となり、家老・執政となって名前も相良清兵衛頼兄と改名しました。そして、この頼兄が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、西軍を裏切って東軍と内通しました。この働きが、結果的に相良氏の領土安堵につながったのです。こうして、江戸時代になっても球磨の地は相良氏のものであり続け、20代当主、相良頼房の代で、人吉藩が誕生しました。
江戸時代を通して繰り返されたお家騒動
人吉藩が開かれて明治維新を迎えるまで、16人の藩主が藩を治めました。その間、記録に残っているだけでも5回のお家騒動が起きています。一つの藩でこれだけのお家騒動が起きるのは他に例がなく、それでも相良家は改易させられることもなく、藩主であり続けました。
最初のお家騒動が起きたのは、2代目藩主相良頼寛の時代です。寛永17年(1640年)家臣団の中心となり、家老・執政となっていた相良清兵衛頼兄の専横が目に余るようになり、相良頼寛は、幕府にそのことを訴えて裁可を仰ぎます。その結果、幕府は相良清兵衛頼兄を小田原藩仮預かりにすると、決定します。その事実を、江戸屋敷から国元へ神瀬外記、深水惣左衛門が伝えるのですが、同時に「頼兄の養子、田代半兵衛頼昌は引き続き藩士として召し抱える」という知らせも伝える予定でした。しかし、田代半兵衛頼昌は義父の処分をすでに知っており、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に、使者2名を監禁しました。深水惣左衛門は逃げ延びましたが、神瀬外記は殺害されます。そして、藩兵がお下屋敷を取り囲み、最終的に頼兄の一族全員が討死または自害により121名が死亡しました。なお、騒動の発端となった頼兄は、津軽藩預かりとなり、青森で88歳まで生き延びました。これが、「お下の乱」と呼ばれるお家騒動です。
2度目の内乱は、お下の乱の4年後の正保2年(1645年)に起きています。300石取りの上士である村上顕武をはじめとする一族70名が、顕武の養子である角兵衛とその実兄である柳瀬長左衛門によって皆殺しになりました。惨劇は先祖供養の法要をおこなっている最中に起きたと伝わっています。この事件は、角兵衛の母の身分が低いことを理由に養子縁組の話しが一時中断になったことが原因とされています。この事件は、「村上一族鏖殺事件」と呼ばれ、実行犯の2名もその場で自害しました。
これは、相良氏とは直接関係がありませんが、家臣の監督不行き届きとして藩主が罰せられてもおかしくない事件です。
3度目の内乱は、8代藩主相良頼央が鉄砲により暗殺された事件です。なお、2代~7代目藩主までの間、人吉藩は水害は飢饉に悩まされ、藩政が逼迫します。また、人吉藩はキリシタン禁令だけでなく、浄土真宗の信仰を禁止しており、信者が集団自殺するなどの事件も発生しました。さらに、藩政改革を巡って7代目藩主相良頼峯の時代、相良一族で小衆議派である「門葉」と家老の対立が深まります。結果的に、頼峯が門葉を指示したことで家老は劣勢に追い込まれますが、門葉が藩医と共謀し、藩主を毒殺しようとした陰謀が明らかになりました。最終的に門葉一派は処罰されますが、7代目藩主相良頼峯も24歳の若さで死亡します。そしてこの一件が、8代目藩主相良頼央の遠因となるのです。
7代目藩主相良頼峯には実子がありませんでした。そのため、門葉の中心人物であり、実弟でもある相良頼母を仮養子とします。若くして頼峯が亡くなったので、養子となった相良頼母が8代目藩主頼央となり、人吉藩に入りますが、その2ヵ月後、薩摩瀬屋敷という場所で休息していたところ、なにものかに鉄砲で狙撃されてその傷が元で1ヵ月後に死亡しました。この事件は長い間秘匿されていましたが、明治時代に渋谷季五郎という人物が、相良家近世文書を整理中に偶然記録を発見し、公になりました。
この暗殺事件により、頼央が23歳で子どもを残さないまま死亡したため、以後相良家は養子を迎え、短期間に藩主が4人も交代するという混迷の時代を迎えます。しかも9代目藩主相良晃長は、11歳で死亡しましたが、相良家はお家断絶をおそれて、相良頼完という別の同年代の子どもを後釜に据え、相良晃長と同一人物で、改名した、という体で押し切りました。そのため、相良頼完が実質10代目当主ですが、藩の記録では9代目藩主となっています。しかし、相良頼完も19歳の若さで死亡、藩は天災でさらに困窮します。
その跡を継いだ10代目藩主相良福将の時代には、米良山騒動という騒動が起き、182人が処罰されるという事件が起き、さらに水害や干ばつで実質的な石高が2万石から1万4千石まで減ってしまいます。そんなことが心労となったのか、相良福将は20歳で早世しました。11代目藩主の相良長寛の時代には天明の飢饉が発生します。
13代目藩主相良頼之の時代、4度目の内乱茸山騒動(なばやまそうどう)が発生します。この騒動は、頼之が家老して登用した田代政典という人物が、藩政改革の一環として茸山を入山禁止にしたことが原因です。茸山入山禁止に不満を抱いた農民1万人が一揆を起し、特権商人宅などを打ち壊したため、田代政典は責任を取って切腹しました。しかし、コの字券の裏には、次期藩主、長福の擁立をめぐり、擁立支持の家老派と擁立反対の門葉派との対立があったためことが大げさになったという説もあります。
最後の騒動、「丑歳騒動」は幕末の慶応元年(1865年)におきました。最後の藩主相良頼基の時代です。騒動の少し前、文久2年(1862年)に発生した大火「寅助火事」により、代の建物全部と、城下町の大半、さらに貯蔵していた武器も消失しました。そのため、武器を新たに購入しようと松本了一郎という藩士を起用し軍制改革にも同時に乗り出します。
了一郎を筆頭とする一派は佐幕派であり、「洋式派」と呼ばれました。一方、家老達は勤王派であり、江戸初期からの伝統である山鹿流軍制を維持しようとしました。そして、洋式派がオランダ式軍制への改革を推し進めたのをきっかけに、家老達が洋式派14人を上意討ちにしてしまいます。結果的に勤王派が藩の実権を握り、薩摩藩よりイギリス式軍制を導入しました。しかし、この騒動によって藩内がごたついて改革もおくれ、明治維新では新政府軍に参加しましたが、目立った活躍はほとんどできないまま明治を迎えます。
最後の藩主相良頼基も藩主を退いた後は早々に隠居し、45歳で亡くなりました。その後、相良家は子爵の位を拝領し、華族屈指の資産家となって現在まで代を重ねています。
人吉藩まとめ
人吉藩は相良家が明治維新まで治めましたが、歴史の長い家ならではの内乱が絶えず、天災も多く、決して豊かな藩とはいえませんでした。明治維新でも活躍しきれませんでしたが、今でも家は存続し、歴代の藩主は「お殿様」として人吉市のイベントなどに登場しています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。