諏訪藩(1/2)神官の末裔が治める

諏訪藩

諏訪家の家紋「諏訪梶葉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
諏訪藩(1590年〜1871年)
所属
長野県
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諏訪藩は、諏訪高島城を居城にして信濃国諏訪郡周辺を領有した藩です。
日根野高吉が諏訪高島城を築き、その後を諏訪神社の大祝の末裔である諏訪氏が明治まで治めました。
そんな諏訪藩の歴史を紐解いていきましょう。

江戸時代までの諏訪

諏訪は、戦国時代まで諏訪神社の神職、大祝(おおはふり)である名門諏訪氏の支配下にありました。
しかし、天文11年(1542年)に諏訪氏は武田信玄の侵攻を受けて滅ぼされてしまい、諏訪の地は武田氏に支配されます。しかし、武田氏に滅ぼされた諏訪氏の当代、諏訪頼重の従兄弟に当たる諏訪頼忠は武田氏の支配下で神職として生き残っていました。

その後、武田氏が織田氏に滅ぼされ、諏訪は一時期織田氏の支配下に入りますが、その織田氏も天正10年(1582年)に本能寺の変で当主の織田信長が横死すると、それをきっかけに信濃・甲斐の支配を巡る天正壬午の乱が勃発しました。その際、諏訪頼忠が自立して滅ぼされた諏訪氏を再興します。その後、諏訪の地に侵略してきた徳川家康と戦いますが、後に和睦し、徳川家の家臣となりました。そして、徳川家康が関東に移封されるとそれに付き従って諏訪を離れ、武蔵国奈良梨に領地を与えられます。

領主不在となった諏訪の地は、豊臣秀吉によって日野高吉に与えられ、彼は諏訪湖の浮城諏訪高島城を築城し、諏訪藩を開きました。

江戸時代の諏訪藩

諏訪藩の初代藩主は日野高吉と言われていますが、高吉は関ヶ原の戦い直前に62歳でなくなったため、厳密にいえば初代藩主は彼の嫡男である日根野吉明です。

しかし、彼は慶長6年(1602年)に下野国へ移動になったため、藩主としての実績はほとんどありません。
日野氏が移封された後、諏訪藩に入ってきたのは、諏訪頼忠の息子である諏訪頼水です。
この移封により、諏訪は明治まで諏訪神社の大祝を勤めた諏訪氏が治めることになったのです。

諏訪頼水は徳川家康、その孫の徳川家光の信頼が篤く、元和2年(1616年)、改易となった徳川家康の6男、松平忠輝の身柄を高島城を増築して預かっています。

松平忠輝は、東北の覇者伊達政宗の娘である五郎八姫を娶ったほど期待されていた人物ですが、大阪の陣への出兵を巡って兄の2代将軍徳川秀忠、父の家康と争った事などが原因で改易となりました。
この一件は多くの小説やドラマでも取り上げられているので、興味がある方は詳細を調べてみてください。

2代目藩主諏訪忠恒は新田開発に努め、甲州街道、信濃国金沢宿の宿場町の建設にも尽力を尽します。

3代目藩主諏訪忠晴は文化人でもあり、武家伝記である『本朝武林小伝』7巻とその続編である35巻を編纂したり、狩野派の絵も描いていたりしたなどの記録が残っています。

また、政治家としても有能であり、延宝の飢饉の際に2代目藩主の治世のおりに発生した金沢山の入会権を巡る争いが再度激化したときには、金沢宿の問屋小松三郎左衛門だけを処刑して、事を治めました。山を巡る争いは何人も死者が出る恐れもありますが、ただ1人の処刑を持って事態を収束させた彼の政治的手腕は、今も高く評価されています。

このほか、検知を収めた功績に幕府から恩賞も受けていました。しかし、晩年は領地で家老が政治を専横するようになり、後の二の丸騒動につながっていきます。

4代目藩主諏訪忠虎は、江戸火消役や山里丸門番を勤めたほか、討ち入りで有名な吉良義央の孫で、流罪となった吉良義周の世話もおこなっています。

5代藩主諏訪忠林は、学問を好み詩人としても一流でしたが政治的手腕はなく、藩の財政を危機的にまで悪化させます。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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