福岡藩黒田家が治める
黒田家の家紋「黒田藤」
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福岡藩は、現在の福岡県福岡市にあった大藩です。ほぼ、筑前国の全域を領有しており、支藩として秋月藩があります。
福岡藩は、軍師として有名な黒田官兵衛(黒田如水)の息子、黒田長政が初代藩主となって以降、幕末まで黒田家が治めました。移封が当り前だった江戸時代において、一つの家が幕末まで治めた藩は珍しいです。そんな福岡藩の歴史を紐解いていきましょう。
福岡藩の誕生から黒田騒動まで
福岡の地は豊臣秀吉が関白だった時代、小早川隆景が治めていました。秀吉が亡くなり、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こります。小早川隆景の養子である小早川秀秋は西軍を裏切り、東軍の勝利に貢献しました。この功績により、小早川秀秋は現在の岡山県に加増・移封となります。その後に福岡の地を与えられたのは、やはり関ヶ原の戦いで功績を立てた黒田長政でした。
黒田長政は、黒田官兵衛(黒田如水)の嫡男であり、豊臣家の重臣でした。しかし、豊臣秀吉の死後、石田三成と対立して早々に徳川家康に接近します。関ヶ原の戦い前は父親譲りの交渉術を用いて、福島正則や小早川秀秋など、有力な大名を石田三成から離反させることに成功しました。
徳川家康はこの働きに対して、「関ヶ原の戦い一番の功労者として子々孫々まで罪を免除する」といった内容の感謝状を贈り、筑前国名島に52万3,000余石を与えたのです。
福岡の地に入った黒田長政は父、黒田官兵衛と共に慶長6年(1601年)より福岡城の築城に着手します。黒田官兵衛は福岡城の落成前、慶長9年(1604年)に残念ながら死去しましたが、福岡城は慶長11年(1606年)に無事に完成しました。
初代藩主となった黒田長政は、福岡まで同行してきた商人、大賀宗九へ海外貿易の免状でもある朱印状を徳川家康より受けて与え、博多商人として巨万の富を築かせたり農業だけでなく数々の産業を奨励したりしました。今も博多名物として名高い博多人形や博多織、高取焼などは黒田長政が奨励をした産業です。黒田長政は福岡藩の基礎を築いて56歳で病死、跡を継いだのは嫡男の黒田忠之です。
黒田忠之は父や祖父とは異なり、生まれながらの大大名でした。そのため華美を好み、性格もややわがままで、家臣達のえり好みも激しかったと伝わっています。特に、黒田家の重臣が城主を務めている「筑前六端城」や、黒田長政時代からの重臣達と激しく反目し合い、ついに寛永9年(1632年)、六端城の一つ麻底良城の城主・栗山利章(大膳)が幕府へ黒田家が幕府に対して謀反を企んでいると訴えます。これを「黒田騒動」といい、「伊達騒動」「加賀騒動」と並び、三大騒動とも呼ばれます。
この訴えに対し、三代将軍徳川家光が直々に裁定を下し、訴え出た栗山利章(大膳)が「精神異常による逆恨み」として追放されてしまいました。
伊達騒動や加賀騒動はそれぞれ死者が出る後味悪い結果となりましたが、黒田騒動だけは記録上は死者がでておらず、平和的な解決ができたといわれています。しかし、黒田忠之は黒田長政と懇意であった幕府老中の安藤直次、幕府古老・成瀬正虎らから、忠告の体をとった叱責を受け、黒田忠之の過剰な側近厚遇はなりをひそめたそうです。なお、黒田忠之は寛永14年(1637年)、島原の乱に出陣して武功もあげています。
また、寛永18年(1641年)、江戸幕府が鎖国を決定して海外との貿易窓口を長崎の出島に限定すると、幕府より肥前佐賀藩鍋島家と交代で、長崎警護をするように命を受けました。この命の後、福岡藩は博多商人を数多く長崎に出入りさせ、商売をさせるようになります。そして、幕府からも参勤交代の回数減、藩主の江戸滞在期間短縮などの特権も受けるようになりました、
黒田騒動以降から幕末まで
3代目藩主黒田光之は2代目藩主黒田忠之の代から始まっていた藩の財政悪化を建て直そうと、厳しい倹約令を敷きました。その一方で、今も銘菓として名高い「鶏卵素麺」を博多から全国へ広げたお殿様としても知られています。黒田光之は文治を好みましたが、嫡男を廃嫡して四男を後継としたり、有力な博多商人であった伊藤小左衛門を朝鮮と密貿易をしたことを理由に処罰したりするなど、藩に混乱ももたらしました。
4代目藩主黒田綱政は、父の跡を継いで藩の財政を建て直そうとあれこれ頑張りましたが失敗、5代目藩主黒田宣政は病弱でほとんど政治が行えませんでした。
6代目藩主黒田継高は、初代黒田長政の血統最後の藩主であり、文化を保護し、藩政改革や財政再建にも積極的に取り組みました。
藩主である間に享保の大飢饉にも襲われましたが、窮民対策を行なって被害を最小限に抑えます。彼の治世は50年物長きにわたりましたが、晩年は嫡男、三男が相次いでなくなり、後継者がいなくなり、10代将軍徳川家治の従兄弟にあたる隼之助を養子に迎えました。ここで、黒田家の血統は途絶えたのです。
しかし、養子となった黒田治之は7代目藩主となって間もなく30歳で早世、末期養子とした8代目藩主黒田治高も29歳の若さで病没、さらに9代目藩主黒田斉隆にいたっては19歳でなくなってしまいました。
10代目藩主黒田斉清は、数代ぶりに50代まで長生きしました。蘭学に傾倒した蘭癖大名として有名な人物で、オランダ商館の医師であり、後にシーボルト事件を起したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトより、薬学から動植物・世界地理・文化風習まで広く対話した、という記録が残っています。また、歌舞伎や人形浄瑠璃などの芸能を奨励し、富くじを行なって財政再建を試みましたがうまくいきませんでした。著書に『鵞経(がきょう)』、『鴨経(おうきょう)』、『駿遠信濃卉葉鑑』などを残しており、鳥好きでもあったことがわかります。
11代目藩主黒田長溥は、薩摩藩11代目藩主の島津斉彬と親戚関係にあり、大変仲が良かったことでも知られています。また、養父黒田斉清同様蘭癖大名であり、オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだり、再来日した医師、シーボルトから解剖学の講義を受けたりしました。このほか、藩校修猷館を再興させたことでも知られています。
黒田長薄が藩主であった嘉永5年(1852年)、ペリーが来航し、その情報を知った長薄は徳川幕府に対して建白書を送り、海軍の設立や開国を進言したといわれています。この建白書は結局採用されることはありませんでしたが、黒田長薄の聡明さをしめす逸話として有名です。
また、彼は慶応元年(1865年)に乙紐の変と呼ばれる弾圧を行ない、過激な勤王志士を一掃しました。その後、薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を行なうなど、明治維新の隠れた立役者として、優れた力を発揮しています。なお、彼の後を12代目藩主黒田長知が継いでいますが、家督を譲ったのは明治2年であり、実質上黒田長薄が最後の藩主といわれています。
黒田長知は、岩倉使節団の一員として渡英し、ハーバード大学を卒業し、帰国後は東京に小学校を作るなど日本の教育に多いに貢献しました。
福岡藩まとめ
福岡藩は、江戸時代を通して黒田家が治め続けました。11代目黒田長薄は名君として知られており、表だってはいないものの、大政奉還をスムーズにすすめた影の立役者でもあります。なお、子孫には黒田家14代目当主にして日本鳥学会会長を務めた黒田長礼氏がいます。
そして、不動産会社の如水興産は黒田長礼氏の孫にあたる黒田長高氏が設立した会社です。氏は、16代目黒田家当主を務めており、ご本人は東京在住ですが、福岡県にも足繁く訪れ、地域の方と交流をしています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。