忍藩江戸にほど近く交通の要所
松平家の家紋「丸に三つ葵」
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忍藩は、中山道の裏街道宿場町であり付近を流れる利根川の水運を利用した物流路でもあった、交通の要所です。江戸にほど近い場所であったことから幕府も重要視しており、親藩や譜代大名が藩主となり続け、幕末を迎えました。そんな忍藩の歴史を紐解いていきましょう。
松平家忠と松平信綱の時代
忍藩は石田三成の水攻めで荒廃した忍城とその一対の城下町に築かれた藩です。
初代藩主は家康の4男松平忠吉という名目ですが、彼はその当時11歳の幼少だったので、代わりに家臣の松平家忠の預かりとなりました。ちなみに、松平忠吉は二代将軍徳川秀忠の同母弟でもあります。成人した松平忠吉は、尾張徳川藩の祖となりましたが、27歳の若さで亡くなってしまいました。
松平家忠は荒廃した忍城と城下町を再建し、代官の伊奈忠次の助けも受けて領内に検地を実施します。その後、松平家忠は下総国上代1万石に移され、松平忠吉が忍藩に入りましたが、やはり幼少だったため、家老の小笠原吉次が政務を行いました。
彼は、兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事などを行って藩の体裁を整えましたが、松平忠吉が尾張に移封されると、忍藩は一時期廃藩となり幕府の直轄地となります。なお、松平家忠は、関ヶ原の戦いの前、伏見城の戦で戦死しています。
その後、寛永10年(1633年)、徳川家光の小姓でもあり秀忠の信頼も篤かった松平信綱が3万石で藩主となりましたが、彼はすぐに島原の乱を鎮圧した功績のため、寛永16年(1639年)に武蔵川越藩6万石に移封されました。
阿部家の時代
松平信綱が移封された後、忍藩を任されたのは阿部忠秋です。彼は、3代将軍徳川家光とその後を継いだ徳川家綱の2代にわたって老中を務めた幕府の要人です。松平信綱とはお互いの欠点を補い合って幕府を支え、戦国の気風を徳川家臣団から一掃し、徳川政権の基礎固めたとも言われています。
本人は何人もの身寄りのない子どもを養子として育てた人格者でもありました。阿部家の藩主時代は阿部忠秋から数えて9代にわたりますが、石高が5万石から最終的に10万石に増加しています。
平和な時代にそれだけの石高増加は珍しく、阿部家がいかに幕府で重要な立場にいたかわかります。実際、5代藩主阿部正允まですべての藩主が老中になっています。
6代目阿部正敏は、田沼億次が権勢を握っていたためか老中にはなれませんでしたが、大阪譜代まで出世しています。
その後、9代目の阿部正権まで安部家の当主は幕府の要職を歴任し、藩政は家臣団に任されました。忍藩は江戸に近く陸・河川の交通の要所でありましたが、度重なる飢饉、富士山の噴火、さらに幕府より命じられた普請などで、藩政は逼迫していました。
松平家の時代
阿部家9代目阿部正権がわずか3歳で病没したために、伊勢桑名藩より松平忠堯が移封されてきました。その後、この松平家が幕末まで5代にわたって藩主を務めます。
3代目藩主松平忠国の時代、鳥羽・伏見の戦いの後で藩が新政府に従うか幕府軍に恭順するかでまっぷたつに割れそうになりましたが、松平忠国が病身を押して藩をまとめ、新政府軍に恭順の意思を示しました。
最後の藩主松平忠敬は廃藩置県後、自費でイギリス留学までした才能ある人物ですが、旧藩士が不祥事を起すなど周囲に恵まれず、最終的に中学校の教師となって生涯を終えました。その子、松平忠寿は明治から昭和57年まで生存し、100歳の長寿を全うしました。なお、松平忠寿の孫がまだご存命です。
忍藩まとめ
忍藩は江戸に近かったこともあり、親藩や譜代など幕府に近い大名が藩主を務めました。そのため、藩主が幕府の要職を務めるのが半ば習わしとなっており、藩で何か政策を行ったという記録はほとんど残っていません。最後に藩主となった松平家は、旧松平子爵家として、現在も存続しており当代の当主で16代目を数えるそうです。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。